◆覚え書き◆ 漢魏晋期の清河崔氏⑥

 以前の回で、曹植が崔夫人に言及した文章は確認できないと述べましたが、曹植が崔姓の人物に宛てて書いた書簡の佚文は残っています。

 『太平御覧たいへいぎょらん』巻936、鱗介部八、魚下の条に引かれる以下の文章です。


「曹植の『崔文始への返書』にはこうある。“長江に臨んで釣りをしたが一尾も捕れないというのは、長江の魚がものを食べないというわけではありません。餌が適切ではないのです。そんなわけで、君子は軽々しく仕官に応じません”[引用者注:もしくは“君子は(人材を)軽々しく抜擢しません”かも]」

(曹植『答崔文始書』曰、臨江以釣、不獲一鱗、非江魚之不食、其所餌之者非也。是以君子愼擧擢)


 この崔文始という人もまた謎の存在ですが、曹魏関係者で崔姓の人というとやはり清河崔氏ではないかと思われます。


 唐代には「博陵はくりょう崔氏」として天下の声望を清河崔氏と二分することになる涿たく安平あんぺい県の崔氏は、早くも前漢のころには州従事や郡太守レベルの中堅官僚を輩出し(王莽おうもうの新では大司空まで出している)、後漢後期には清河崔氏よりはるかに権勢をもつ名族となり、三公も出しましたが、曹魏ではあまり名を聞かず、『三国志』魏書に立伝もされていません。


 ただ『晋書』巻45崔洪伝によると、博陵崔氏である崔洪の父崔讃(崔賛)は曹魏で吏部尚書や尚書左僕射という顕官に昇ったそうなので、その同世代の博陵崔氏メンバーも曹魏でかなりの高位を得ていた可能性はあります。

(なお、曹植の祖父にあたる曹嵩そうすう太尉たいいの官を拝した際、その前任だったのが、後漢末の涿郡崔氏を代表するひとり崔烈さいれつです)


 ただ、曹植個人と涿郡(博陵)崔氏との間に接点は見いだせないので、やはり彼から書簡を受け取った崔文始は清河崔氏かと思われます。


 後漢末~曹魏期に二字名の男性はほぼいないので「文始」はおそらくあざなですが、清河崔氏を見渡してみると、崔琰の孫崔諒さいりょうは字を士文というようです。そうすると彼の兄弟もしくは同世代の同族男性は、共通して「文」という一文字を字の中に用いていた可能性はあります。


 ただ厳密にいうと、崔琰伝の裴松之注は「『世語』曰、琰兄孫・・・諒、字士文、以簡素稱、仕晉為尚書大鴻臚。荀綽『冀州記』云、諒即琰之孫・・・也」と引いており、崔諒は崔琰の孫ではなくて崔琰の兄の孫ともいわれるのですが、いずれにしても崔諒およびその兄弟(もしいたら)は崔夫人からみると甥のような関係にあたるので、曹植が面識を持っていてもおかしくはありません。


 なお『新唐書』「宰相世系表」南祖崔氏条には「琰字季珪、魏尚書。生諒、字士文」とあり、これが正しければ崔諒は崔夫人の従兄弟になります。

 曹植と清河崔氏の間に姻戚関係が保たれていた時期、つまり曹植も崔夫人も二十代前半かそれ未満だったであろう時期に曹植が書簡を書く相手としては、崔夫人の甥よりは同世代のほうが適しているような感じはします。


 上記の佚文は返書なので、曹植は少なくとも書簡のやりとりをするぐらいには、姻戚の清河崔氏の人々と誼を通じていたのでは……と想像したくなるところです。真相はいかに。






 そして時は移ろい、魏晋革命が起こります。

 西晋においては、曹魏のときの余勢もあって崔林の子孫のほうが出世していたようにもみえますが、崔琰の子孫は崔琰の死以降ずっと浮かび上がれなかったかと言うとそんなことはなく、先ほどの崔諒さいりょうや曾孫崔毖さいひが官職を得ています。


 崔諒は『三国志』崔琰伝裴松之注に引く『世語』『冀州記』によれば西晋の尚書・大鴻臚こうろ、『晋書』礼志によれば西晋の黄門侍郎、『魏書』によれば西晋の中書令(いずれも三品)にまで昇り、崔毖は『晋書』元帝紀・慕容廆ぼようかい載記によれば東夷校尉・平州刺史(いずれも四品)にまで昇ったとされます。


 両晋交替の混乱期に東北部に根拠地をかまえようとした(そして鮮卑慕容せんぴぼようにボコボコにされた)崔毖は、高句麗との関係でもしばしば注目される人です。


 西晋が中国統一を果たしたのもつかの間、八王の乱と永嘉えいかの乱を経て晋室は南遷するわけですが、清河崔氏の族人は華北にそのまま残った人も多く、後趙こうちょう前燕ぜんえんなど五胡十六国時代の非漢人政権に任用される人も現れるようになります。


 後趙では官僚としてのみではなく、のちに第3代皇帝となる石虎せきこと姻戚になったこともあるようですが、石虎の妻となったこちらの崔夫人は讒言ざんげんによって夫に殺されてしまいます。

 清河崔氏の女性はなぜしばしば婚姻がらみで痛ましい目に遭うんだ……。


 華北各地に諸政権がめまぐるしく興亡する五胡十六国という過酷な時代を、清河崔氏はほかの漢人名族らと同様になんとか手探りで生き延びたわけですが、清河崔氏の場合は北魏に出仕してからいよいよ門地を高めてゆくのはよく知られるとおりです。そのうち初期の有力者がかの崔浩さいこうです。


(下記作品でも縦横無尽に大活躍の崔浩です。

 豊富な『詩経』解釈と用例とともに、キレキレの舌鋒が楽しいです。


 タイトル:崔浩先生の「元ネタとしての『詩経』」講座

 作者:波間丿乀斎なみまへつぽつさい

 https://kakuyomu.jp/works/1177354054918856069


 崔浩は崔林からみて七世孫にあたりますが、彼の家は父親の崔宏さいこうのときに北魏に出仕するようになり、皇帝の篤い信任を得るようになります。

 若くして「冀州きしゅう神童」と称された崔宏と同じく崔浩も学問に務め励み、その博識と計略によって明元帝(太宗)・太武帝(世祖)の二代にわたり寵臣の地位を極めるとともに漢人官僚の登用や制度改革等により北魏体制の中国化を推進しますが、鮮卑系貴族の反発も招くことになり、太武帝のときにいわゆる国史事件を経て処刑されます。


 『魏書』本伝によれば、このとき姻族である范陽盧氏・太原郭氏・河東柳氏らとともに「清河崔氏は崔浩との親疎を問わずことごとく(清河崔氏無遠近)」誅殺されたとありますが、清河崔氏はこのあとの北魏~北斉・北周や隋唐でも大いに重用され活躍したことから明らかなように、文字通り族滅させられたわけではありませんでした。

 巻き添えを食らった姻族たち、および崔林系統の清河崔氏ですら、実際には唐代まで名族の地位を保って繁栄します。


 誅殺を免れた清河崔氏のうちの一部が、崔琰の七世孫にあたる崔賾さいさくと崔琰の兄崔覇の子孫にあたる崔模さいぼという人物の家系です。

 この2人と崔浩は同じ清河崔氏で年齢も近かったにもかかわらず、崔浩が“自分の家系は「魏晉公卿」だが崔賾・崔模らはそうではない”という理由で2人を見下していた(そして崔模は、“崔浩が自分を侮るのはいいが崔賾を軽んじるのは許しがたい”と言っていた)という話を太武帝がかねがね聞いていたため、この2人の家は特別に連座を免れたといいます。


 ともかくも本当の意味での族滅にならなくてよかったね……と心から思いますが、もし崔林があの世で崔浩に出会っていたら、崔浩ひとりのせいで家系を根絶やし寸前にされたことと同じくらい、彼が崔琰の子孫を馬鹿にしたことについてガチギレしたに違いないと思います。






 そして、まとまりのない話を長々と展開してまいりましたが、そろそろ強引にまとめに入りたいと思います。

 この「覚え書き」の第1回から第6回まで、おおむね下記のようなことをみてきました。


・崔という氏族は春秋時代の斉の公族(きょう姓)から起こり、そのうちの一支が前漢初期に清河東武城へ徙ったとみられる。


・漢朝400年の大半を通じて清河崔氏はめぼしい官僚も学者も出さず、後漢末時点の清河崔氏は決して名族ではなかった(おそらくほぼ平民)。


・後漢末時点で清河崔氏が曹植の姻戚になりえた理由は、門地の釣り合いという観点からは説明しがたい。


・清河崔氏の名族化は後漢末期、崔琰と崔林の出仕に始まり、とりわけ曹魏における崔林の出世が重要な転機となる。


・曹植の家系は西晋期にも清河崔氏と通婚している。


 そして、上記の点などを図にまとめると、大体以下のような感じになるかと思います。

 図中の曹植の子女の詳細については後日、「曹植の子どもたち」という覚え書きでみてゆく予定です(曹志はおそらく側室の子であろうという以外には、曹植の子女の生母は不明です)。


曹植の家系と清河崔氏の関係

https://img1.mitemin.net/3n/vp/igeff88a8pz0hrwrbbolgqslgewc_14il_u3_jx_3xb4.jpg 






 前の回でも触れたとおり、現存する曹植作品の中には、崔夫人に言及していると確実にいえるような記述を見出すことはできません。


 曹家から離縁されて彼女が帰された先の実家は鄴にある邸か、あるいは清河東武城の本家か分かりませんが、いずれにしてももう曹植の目の届くところではなかったはずで、父曹操の命令による彼女の自死を知ったときに曹植が何を思ったのか、余人が知る手掛かりはありません。


 父の意をおもんぱかって何も書かなかったという以外の可能性としては、親友の楊脩ようしゅうに対してはおそらくそうしたであろうように、曹植は崔夫人にも非公式にるいを書いたけれどもずっと手元で秘匿していたということは考えられます。

 しかし、すべては闇の中です。


 また、仮に曹操没後、曹魏文帝の時代には崔夫人のための誄を書くことが許容される空気になっていたとしても、彼女は死去時点で曹植の妻でなかったという事実は変わらないので、「妻ではない他家の女性への追悼文」を公開するのは、礼法上の感覚では大いに問題があると思われ、やはり文集などには収録できなかったと考えられます。


 しかし、清河崔氏一門と結びつきたいという個人的な動機・経歴をもたないはずの曹志が、自分のむすめを、それも文章作法をしっかり教えて大切に育てたであろうむすめをわざわざ清河崔氏に縁づけたという事実からは、曹志の目からみた曹植は亡き崔夫人を深く追憶していたのであろうことが推測されます。

 彼女と永別したときの―――父親によって妻を自殺に追い込まれたときの曹植の心情はいかばかりかと、改めて思いを馳せてしまいます。




⑦へつづく


※「漢魏晋期の清河崔氏」は当初、全6回と書きましたが全7回になりました。申し訳ありません……

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