◆覚え書き◆ 漢魏晋期の清河崔氏⑦

 最後に余談となります。


 曹植・甄夫人相愛説の立場から時々いわれるのが、曹植は自分の著作のなかで崔夫人に関して明確に言及していない(少なくとも現存作品のなかでは言及していない)という点です。

 それ自体はまちがいないと思うのですが、それを以て「両者の関係は冷え切っていた(なので曹植は甄夫人一筋だったに決まっている)」という捉え方がたまにみられます。そこまで行くと、やや現代的な感覚すぎるように思われます。


 唐初の学者李善りぜんが『文選』に付した注(に引かれる『記』)以前には甄夫人への恋慕説をさかのぼることができない曹植と違って、甄夫人を一時期であれ寵愛していたことが『三国志』甄皇后伝の本文に明記されている曹丕すら、少なくとも現存する詩文作品の中には、彼女について明確に言及するもの、ひいては彼女を名指しで賛美するものを残していません。


(甄夫人よりも寵愛が深かったとされる郭女王に対しても同様です。

 立后の詔ではおそらく定型的な語句で賛美していたと思われますが……)


 もし曹丕の作品中にそういうものがあったら、亡母を愛してやまない曹叡などは後世に伝わるように絶対手を打ったと思うのですが、そういうこともなかったようです。


 これは別に、曹丕は本当は甄夫人を愛したことなんかなかったよ、と言いたいわけではなくて、公開することを前提にした詩文作品を通じて自分の妻への想いを語る、というのが当時の士人の間では一般的でなかった、あるいは非常識だった、あるいは受容される素地がなかった、ということかと思います。


(それとは別に、不特定の/歴史上の夫婦間や男女間の愛情・恋情は、『詩経』のようなごく早くから中国の詩文のテーマとして扱われています)


 もちろん後漢の秦嘉しんか徐淑じょしゅく夫妻のような有名な例もありますが、彼らの場合はもともと夫婦間の私信として想いを交わしていたこと、また、彼らの直後に類似の例はつづかなかったので、やはり特異な現象であったことに留意する必要があるかと思います。


 つまるところ、後漢末~曹魏の時点では「(生前であれ没後であれ)妻への想い」はまだ詩文のテーマとして確立されていなかったのではと思われます。

(すぐ後の西晋以降になると「悼亡とうぼう」詩ジャンルの形成により、文人が亡き妻を詠うことはむしろ受容されるようになりますが)


 なお、余談のさらに余談ではありますが、拙作『陳思王軼事』の副題は当初、「天才詩人と、詠われぬ妻」にしようかと思ったのですが、これだと「詩人は配偶者や恋人をモチーフにして詩に詠うものだ」という(西洋や日本の古典詩歌では一般的な)観念を当然視している感じがして、それはよくないと思いやめたのでした。


 古代中国では、少なくとも建安文壇のころは、妻を愛していてもいなくても、詩賦に詠いあげる慣行はまだなかったと思うので……

 「詠われぬ妻」といったら、当時の感覚としては「いや、それ当然だよね?三曹七子の奥さんみんなそうだよね?」という感じでしょうか。


 なお、この問題について、中原健二先生が「詩人と妻:中唐士大夫意識の一断面」(『中国文学報』47、1993年10月)にて以下のように述べられています。


「士大夫たるものが、宮女や妓女を対象にするならいざ知らず、自らの妻を題材にしたり、妻に対する愛情を表白する、言い換えれば自らの閨房の内に関わることを臆面もなく語るのは、あまりほめられたことではなかったと考えられる。とはいうものの、その種の作品が全く作られなかったわけではもちろんない。すでに後漢の秦嘉に「贈婦詩」があり、晋の潘岳はんがくに「悼亡詩」がある。しかし、以後唐の前半期まで、その数は決して多くない。……ところが、ことがらは中唐期を境に明らかに変化を見せはじめる。そして、この変化は中国的近世の始まりとされる宋代になると決定的となる」


 いずれにせよ、曹植自身の作品および史書などの記述を総合するかぎり、彼が生涯で最も愛した女性は(人間は、と言ってもいいかも)妻でも妾でも姉妹でも娘たちでもなく、もちろんあによめでもなく、母親べん夫人であることはまちがいないかと思います。


 伝統中国社会では子どもが母親を心から敬愛するのは当然なので、別に曹植に限った話ではないですが、彼の場合は渾身の力を注いで書き上げたかのような「卞太后るい」が後世に残されているだけに、まさに千古不朽の相思相愛。

 泉下でママンと幸せにな……


 しかし曹植とママンとの熱愛関係をあまり前面に出しすぎると、妻になる女性視点の恋愛小説としてはなかなか厳しいものがある(どころではない)ため、拙作本編では卞夫人の登場は抑えめにする予定です。余話ではそのうち何か書くかもしれません。


 それはそれとして、子たる者が父母兄弟への愛情や思慕を切々と詠い上げるのは、『詩経』以来の伝統でもあって、それ自体は新機軸というわけではありません。


 曹植が中国文学史上において何よりも画期的であったのは、吉川幸次郎先生が下記のように述べられているごとく、「愛する女性への想い」ではなく「愛する友人たちへの想い」を高らかに詠い、それが後世の中国文人たちに最もスタンダードな詩題として継承された―――そのことにあるのは間違いないと思います。


「彼[曹植]の詩[応氏を送る其の二]に見えたこのようなはげしい友情の讃美は、文学史的には一つの画期である。彼以前の時代、すなわち『詩経』と漢の時代に於いて、このような熱烈な友情の歌は、漢の蘇武と李陵の贈答と伝えられるものが、不確実な資料としてのみあるにすぎない。友情は、彼以後の中国の詩の最も重要な主題であり、男女の愛が西洋の詩でしめるのと同じほどの地位をしめるが、そのさいしょの点火者は曹植である。いいかえれば友情という人生の価値、その発見者は曹植である」 

      ―――吉川幸次郎「伊藤正文氏『曹植』跋」

         伊藤正文『中国詩人選集 曹植』(岩波書店、1958年)所収

         [  ]内は引用者注






 最後に、筆者は妄想爆発小説を書き散らしているぐらいなのでむろん曹植・崔夫人なかよしだったよ派なのですが、「洛神賦」の洛神のモデルが崔夫人だとは考えておりません。


 かといって、『文選』李善注の「記」にしか根本的な論拠がない「洛神=甄夫人」説(※注)が妥当とも思われません。


 「洛神賦」における曹植の筆致は、このうえなく精緻に繊細に洛神の美しさを描き出しているわけですが、あまりに神秘的で理想的すぎて、崔夫人であれ甄夫人であれ、生身の女性がモデルですという感じがしないような……という単純な理由です。


 その現実感の希薄さゆえに、男性作者にとって同性の慕わしい人物(君主・父兄・友人など)を美女に仮託するという中国古典詩歌の伝統をふまえたものという考え方のほうがしっくりします。


(ただし、拙作最終話で触れる予定の「洛神賦」では、特定人物モデル説を採用しません)


 「洛神=男性」説もこれまで何種類か提示されており、曹丕説が有名かと思いますが、個人的には有坂文さまの楊脩説に傾倒しております。


  『洛神賦』~女神モデルを巡る一考察~

  http://sikaban.web.fc2.com/megami.htm


 楊脩および楊脩の家系は洛陽そして洛水とゆかりが深いというご指摘は、大いにうなずけるものがあります。

 上記の考察全体がとても綿密で説得力があるので、ぜひ多くの方に読んでいただければと思います。


 楊脩説や曹丕説と比較してみると、甄夫人説あるいは崔夫人説の根本的な欠陥は、彼女たちの人生はいずれも洛陽や洛水とは接点がないことだといえそうです。


 甄夫人と崔夫人は結婚前はそれぞれ本貫におり(甄夫人は3歳で父親を亡くすまでは父親の赴任地にいたかも)、袁煕/曹丕あるいは曹植と結婚後は基本的に鄴にいたと思われるので、両夫人とも没した後の黄初年間すなわち「洛神賦」が成立した時期において、曹植が彼女たちと結びつけて考えることがあり得る河川といえば、もっぱら鄴近郊の大河であるしょう水(+崔夫人の場合は清河も)ということになるかと思います。


 個人的には、我が世の春を謳歌していた唐代あたりの清河崔氏のみなさんが、

「陳思王の洛神のモデル?うちの一族の女性に決まっているじゃないですか?正妻ですよ?」

とドヤ顔で「洛神=崔夫人」説をでっちあげ、ありあまる権力と財力と人脈を駆使して流布してくれていたら、現代に至るまでの「洛神賦」をめぐる言説は相当に様変わりしただろうに……と残念なところです。無茶いうな。


 ともあれ、自分が書いたもののモデルをめぐって後世1000年以上も議論がつづくとは、没後の曹植も驚き呆れつつ面白がっているかもしれませんが、もし特定人物をモデルにしていたとしたら、自分の作品を通してその存在が永遠になるという、創作者冥利に尽きるものがあるともいえます。


 モデルであってもなくても、思いもよらぬ形で失ってしまった大切なひとたちと、今はずっと一緒にいられるといいね……と心から願っています。

 でも大往生したママンのそばが(たぶん)一番だよな!知ってた!!






※注:李善注は各種の『文選』注の中で最も歴史と権威あるもののひとつですが、有坂文さまがウェブサイト「私家版 曹子建集」のブログ記事「『洛神賦』はどう読まれてきたか」にて以下のとおり整理されているように、「洛神=甄夫人」説の根拠と考えられている部分の李善注は実際には李善によるものではないかもしれない、という見方があるようです。


「現在の「李善注」は、宋の尤袤ゆうぼう(1127 - 1194)が再編集したものが原型とされているのですが、清の胡克家(1756 - 1816)は『文選考異』巻4で、この「《記》曰く…」以下二百七字が袁本・茶綾本(※別系統の『文選』注釈本)には載っておらず、尤袤が誤って採ったものだと書いています。つまり、この「甄氏説」の起源とも言われる「李善注」が、本当は李善のつけた注釈ではない可能性も十分ありそうなのですが[後略]」

 http://humiarisaka.blog40.fc2.com/blog-entry-66.html


 「『洛神賦』はどう読まれてきたか」は、上記引用部分以外にも大変読み応えがある記事なので、歴代の「洛神賦」解釈史に興味のある方はぜひお読みになってみてください。


 なお、近いところでは「「洛神賦」の伝播と受容」をテーマにした台湾の方の博士論文が、2020年に提出されたようです(簡瑞隆「〈洛神賦〉的傳播與接受」)。

 こちらで概要(中国語)を読むことができます。

 https://ndltd.ncl.edu.tw/cgi-bin/gs32/gsweb.cgi/login?o=dnclcdr&s=id=%22108NDHU5045007%22.&searchmode=basic


 ともあれ、『文選』には膨大な版本があり、李善注本だけに限ってもいくつもの系統があるわけですが、現在一般に知られている「洛神賦」の李善注では、「洛神=甄夫人」説の出所を『記』とのみ記しています。

 この『記』を『感甄記』と称するのは、現存する文献では明代あたりから見られるようで、わりと新しい呼び方です。


 『記』とは結局何なのか、唐初の人である李善が実際に読んで採用した文献なのか、そうでないなら李善以後のどの時点で誰が李善注に紛れ込ませたのか、疑問は尽きないですが、もし李善が自分で『記』を採用したのならば、『記』は六朝~隋~唐初期のある時点で成立していたということになります。


(拙作あらすじでは「曹植のあによめ甄氏恋慕説(唐代あたりの創作)」と書いて「唐代の創作」とは書かないのはそのためです)


 また、仮にそうでなかったとしても、上記記事でもご指摘があるように、唐代半ばには「洛神=甄夫人」説を前提とした詩文作品がしばしば著されていた、つまり『記』の成立時期如何にかかわらず、「洛神=甄夫人」説は遅くとも唐代には成立していたということは確実なようです。




漢魏晋期の清河崔氏・完




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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

次回、別のテーマでもう1回分「覚え書き」を投稿いたします。以前投稿した内容の訂正とお詫びを兼ねております。

よろしければお付き合いいただけましたら幸いです。

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