◆覚え書き◆ 姦通した既婚女性への処罰

 いきなり不穏なタイトルですが、拙作の内容の訂正とお詫びになります。


 「清河」篇の「(三十九)桑中」にて、有夫の女性が夫以外の男性と(自ら同意して)性交渉をもった場合、漢律では死罪相当である、という旨のことを当初書いたのですが、これは筆者の思い込みだったようです。


 下倉渉「秦漢姦淫罪雑考」(『東北学院大学論集(歴史学・地理学)』39、2005年3月)によれば、漢初の法制史料である二年律令や漢初を含む時期の刑事裁判記録である奏讞書そうげんしょの内容に鑑みると、男女双方同意の上での性交渉つまり「和姦」は、


「漢初の律でも女性の有夫・無夫によって和姦罪の刑に差等が設けられていたことになる。そして、その具体的な刑罰は、未婚であれば「耐為隷臣妾」、既婚は「完為城旦舂」であったと理解できる。また、192簡には「皆完為城旦舂」とある。和姦罪の処分は男女同罰が原則であったのだろう」(p117)


とのことです。

 罪刑の中身については説明が省かれていますが、冨谷至『古代中国の刑罰:髑髏が語るもの』(中央公論社、1995年)第2章「秦漢の刑罰」によれば、


・「完」は頭髪そり落としや首枷を免除されること

・「隷臣妾」は男女が役所で雑用に従事する労役

・「城旦舂」は男であれば辺境の城壁修築と警備、女であれば穀物の脱穀に従事する労役


とされます。

 同書同章には「耐」についての説明がみえませんが、『大漢和辞典』だと第一義的には「ひげをそり落とす刑」とされます。

 ただ出土史料中の用例の場合、「耐=軽度な身体刑」あたりが、現時点で一般的な解釈なのかな……(自信なし)。出土史料中の語句に対する解釈は研究が進むたびに更新されている感があって、素人が言及するのは憚られます……


 下倉先生はまた、二年律令・襍律の192簡と全く同一の条文が敦煌とんこう懸泉けんせん漢簡にも見出せることを指摘し、既婚女性との和姦に関するこの規定はおそらく前漢時代を通じて・・・・・・・・変更されなかったのであろう、とみなしておられます。


 では前漢末期から数えて約200年ほど経っている後漢末期にも同様の律が施行されていたのか、というと調べられなかったのですが、伝世文献によって体系的に条文が残されている律(唐律・明律・清律)のうち漢代に最も近い時期に成立した唐律においては、下倉論文が示すように、(既婚であれ未婚であれ)男性が既婚女性と和姦した場合、男女双方に対して「徒二年」が科されました。

 これは、女性が未婚だった場合の処罰(徒一年半)より一等重いだけのようです。


 ゆえに、同意の上で婚外性交渉をもった既婚女性への処罰は、前漢の律でも唐律でも労役刑、つまり死刑よりはだいぶ軽いものであったので、後漢末期においても死刑にまでは至らなかったと考えるべきかと思います。


 そんなわけで、拙作の関連部分を下記のように書き換えました。お詫びとともに訂正申し上げます。


「律では死罪相当だということ」→「律でも処罰の対象となること」


(ただ、拙作中の当該女性はすでに寡婦で、亡夫の父母の家に留まり孝養を尽くしているが夫への服喪期間は明けている、という設定なので、そういう女性が同意の上でよその男性と婚外性交渉をもったケースへの処罰は、未婚女性に対するものと同等になるのかも……?)


 ところで、下倉論文にも引かれている二年律令192簡の全体は

「諸與人妻和奸、及其所與皆完爲城旦舂。其吏也、以強奸論之」

とあり、後半の「其吏也、以強奸論之」は、官吏が既婚女性と和姦した(と主張する)場合は強姦として処理する(女性側は被害者なので処罰しない)、という意味かと思われます。


 ひとつの解釈として、官吏は一般人以上に高い道徳心が求められるので既婚女性と性交渉を持てば強姦犯のように罰せられて当然だ―――つまり、倫理を厳守すべき立場でありながら他の男に帰属する女を盗んだのだから重罪になって当然だ、という、家父長制の原理をそのまま踏襲しているとも読めます。


 しかし、王輝「秦漢奸罪考」(『甘粛理論学刊』第181期、2007年5月)に挙げられる『太平御覧』巻639刑法部5所引の『会稽典録』佚文によれば、後漢の章帝の時代にこのような一件がありました(下倉論文でもp122~p123で引用・解説)。


「謝夷吾……為荊州刺史、行部到南魯縣、遇孝章皇帝巡狩幸魯陽。……有亭長奸部民者、縣言和奸。上意以為吏奸民、何得言和。觀刺史決當云何。頃夷吾訶之曰、“亭長詔書朱幘之吏、職在禁奸、今為惡之端、何得言和”。切讓三老孝悌兄長罪」


 すなわち、荊州けいしゅうのある地域の亭長がその管轄下の民間女性を“奸”したという事件があり、取り調べた県の役人はこれを“和奸”と称したが、たまたまその地に巡幸していた章帝は「官吏の身でありながら民を“奸”したというのにどうして“和奸”などと言えようか(為吏奸民、何得言和)」と考え、荊州刺史のしゃ夷吾いごがどのように処置するかを観ようとしたところ、夷吾も同じく「何得言和」として県側を叱責し、地域教化に責任を持つ三老らを強く譴責した―――という次第かと思います。


 つまり、官吏という圧倒的な権力を持つ男性の側が、あるいは彼を庇おうとする官僚組織の側が「あれは女も合意の上だった(和奸)」と言い張ったところで、性交渉における真に自発的な合意は想定しがたい、ということを、章帝も謝夷吾もよく認識していたということかと思います。


 王輝先生はまた、唐律・明律・清律においても官吏がその管轄下の民の妻女や女性囚人を“奸”した場合は特に厳しい処罰が科されたことを指摘し、歴代の律に共通するこういった「整頓吏治」のありかたは、現代の我々が行政法制を整備していく上でも鑑となる、と述べておられます。


 これらをふまえると、二年律令192簡の「其吏也、以強奸論之」は、「他の男に所有されている女を“奸”した」点ではなく「官吏なのに民間人を“奸”した」点のほうを重視している―――つまり、官吏と民間人とでは権力勾配が大きすぎる以上、双方の間に対等な・自発的な性的同意はありえないのだから、一律に強姦とみなす(民間人のほうは実質的に強制されたのだから無罪)、というロジックが働いていることになります。


 なお、古代中国では男色が比較的盛んなので、青少年を含む民間の男性に対して官吏が性行為を強要するケースも、実際にはしばしばあったはずです。

 しかし、中国の歴代律で男性から男性に対する強姦が罪と規定されるようになったのは清代なので、後漢の章帝らがこの「為吏奸民、何得言和」というケースで想定している「民」とは、民間人のなかでも女性のみだと思われます。


 そして事件のあらましの説明では「有亭長奸部民者」とあるように、“奸”された「部民」が既婚女性か未婚女性かは記されない、つまり女性が既婚であろうと未婚であろうと、民間人に対する官吏の権力が絶大であるという本質は変わらないので記載を省略された、ということかと思います。


 そうであるならば二年律令192簡の後半は、官吏の性行動に対し一定の抑止力を及ぼすことが期待されていたとも言えそうです。

 「和姦とかハニートラップとか弁明できる余地は一切ねえから、強姦犯として処罰されたくなければ官吏はとにかく民間の女と関係をもつな、私的に接触するな」という感じでしょうか。


 この点に関しては、現代世界で起こる性暴力事件やそれに対する司法対応等に比べても、漢律では権力の非対称性がよく考慮されているようだ、という印象を受けます。


(しかし漢代では、婢に対する性暴力はしばしば性暴力としてカウントされないので、「良民の女がだめなら婢にしとくか」という方向に傾きそうではありますが)


 とはいえくれぐれも、このページに書いたことは素人解釈ですので、詳しい方はぜひ感想欄などでご指摘いただけましたら幸いです。


 最後になりましたが、そもそも拙作の当該箇所で「漢律では姦通した既婚女性は死罪」と書いたときの根拠って何だっけ……? あの本に載っていたような、いや載ってない……あれ……思い込み……? と気づいたのは、『小説家になろう』内の下記エッセイ記事を拝読したことがきっかけでした。


作者(両記事とも):無憂みゅう 様


エロい漢字と、実はエロくない言葉

https://ncode.syosetu.com/n5115fd/


エロい漢字と、実はエロくない言葉 その二

https://ncode.syosetu.com/n0887ft/


 既婚女性の姦通そのものについて論じられているわけではないのですが、「その二」のほうでは二年律令を資料として、漢代の人の性行動をめぐる処罰について、当事者の関係性に応じて律にはどのような規定があったのか、を解説してくださっています。


 作者の無憂様はおそらく本職の研究者の方ではないかと思うのですが、該博な専門知識にもとづく内容でありながら、両記事ともとても読みやすいです。エロい人もエロくない人も、中国史に興味のある方全般にお勧めです!






姦通した既婚女性への処罰・了




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ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

三日後、短編を投稿する予定です。『陳思王軼事』のスピンオフ(というか主役二人は同じ)のようなものですが、連載中の本編からは独立した形になります。

短編の三日後にふたたびこちらの続編という形で「余話1」「余話2」を投稿します。それぞれ7話ほどあります。余話なのにまた長いな……

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