清河篇 余話(一)

熠燿宵行(一)

清河篇(二十一)の中間ぐらいの話です。曹植寄り視点。






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「貴家の書庫を見せてもらってもよいか」


 しつの演奏を終えた崔氏にそう尋ねたとき、曹植に深い意図はなかった。

 書物のない生活というものに久しく慣れていなかったため、ありふれた経書けいしょであろうと生来あまり好まない緯書いしょの類であろうと、文字に目を通せるなら何でもよいと思ったのである。


 このむすめと出会った水辺で高熱を出し、この邸に連れ帰られ世話になってから三日目、自分の体感としてはほぼ熱が下がったように思える。


 瑟を布の袋にしまおうとしていた崔氏は、予期していなかったように目を上げた。


「もちろん、構いませんが……平原侯さまはまだ、大事をとって横になっておられたほうがよろしいかと存じます。

 書庫の目録を持ってまいりますから、書名をご指定いただければ、こちらのお部屋に現物を持参いたします」


「そこまでしてもらわなくともよい。寝付いてもう三日目にもなる。少しは歩き回ったほうが身体にもよかろう」


 崔氏はまだいくらか案じているようであったが、体力を回復しかけている二十歳の青年がこのへやに閉じ込められていても無聊をかこつだけであろうと思ったのか、結局は同意した。


「それと、瑟はそのままこの房に置いておいてはくれまいか」


「承知いたしました。―――ただ、もし平原侯さまがご自身で爪弾くのに、琴のほうをお好みでしたら、家の者から借りてまいりますが―――」


「いや、俺が弾くのではない。

 そなたの演奏を、後でまた所望するかもしれぬ。かまわないか」


 崔氏はやや戸惑ったように大きな黒い瞳を瞬いたが、はい、と小さく答えた。

 目元がかすかに赤くなっていた。

 色白なので表情に出やすいのだな、と曹植は思った。最初に出会ったときからそれは気づいていた。


 人手の多寡に応じて彼女自身も野良に出ているようだから、夏場は相応に日焼けをするのであろうが、冬を越えたばかりのいまの時期は、本来の肌色を取り戻しているのだろうと思われた。


 ふと、あの日、あの小川の水の中で目にした膝と脛の白さを思い出した。

 大抵の婦人は屋外で脚をあらわにすることなどないのだから、日にさらさない部位の色が白いのはさほど珍しくないが、「死んでしまいたい」とまで言った彼女の恥じらいの深刻さ、真剣さはよくおぼえていた。


 そして、自分はこのむすめを無意識のうちにたびたび観察してきたのだと気づき、


(何を考えているのだ俺は)


と曹植は思った。






 崔家の書庫は、曹植の寝所としてあてがわれた房のある棟からやや離れていた。

 崔氏の後について回廊をいくつか抜けるうちに、族人や使用人らしい者たちと何度かすれ違ったが、みな廊下の脇に退き、彼らが通り過ぎるまで深くこうべを垂れ拱手していた。


 曹植はいまは寝起きの平服をまとうのみで、むろん冠も着けていないから、身なりだけで彼の身元が分かったとは思えないが、一族の若い世代の中で最年長であるこのむすめが三日前にどういうわけか丞相の子息を近郊から連れ帰り、その看護をしている、という話はこの邸のなかで共有されているのだろう。


 それでいながら、仰々しく近づきを願ってくる者がいないのは、まったくありがたいことであった。


「みな、忙しそうだな」


 吹き抜けの回廊からみえる敷地内の景色を見やりながら、曹植は崔氏に声をかけた。

 耕作地や桑林へ赴くには塢壁うへきを出なければならないが、崔家の広大な塢内には、住民の衣食住をまかなえるだけの基本的な生産手段と貯蔵の建物がそろっている。

 それだけに、きびきびと立ち働く人々の姿はあちこちで目についた。


「そなたにも、本来従事せねばならない家政が山積みなのではないか。

 この三日間、俺に付き添わせて、すまなかった」


「いえ、宗主の計らいで、わたくしの務めはしばし免ぜられることになりましたので、どうかご心配なさらないでください。

 それに、まだ養蚕は始まっておりませんから」


「養蚕か。おおよそ三月からか」


「はい、いまは桑の若芽を少しずつ摘んだりしておりますが、来月も半ばになりましたら、桑の葉をことごとく摘むために目も回るほど忙しくなります。家人総出の行事です」


 崔氏はほのかに笑った。彼よりいくらか長身のむすめだが、瞳を細めてえくぼを浮かべると、どことなく童女のような趣があった。

 目が回るといいつつ、このむすめはそうやって忙しく働くのが好きなのだなと曹植は思った。


 あの小川のほとりで出会ったばかりのとき彼女は、いま自分がこの清河本宅に戻ってきているのは、族母たちの何人かが服喪の時期に入っていたり身重になったりして奥向きの仕事を取り仕切れなくなったためだと言っていた。


 だから、この家で彼女に求められているのは現場の労働というより、ほかの動ける族母たちを補助する形で族妹たちや使用人たちに作業の采配をおこない、進捗を確認して回ったり全体の段取りをつけたりすることであろう。


 しかし、本人も言っていたようにこの家の資力では十分な数の使用人を置けないので、采配を出す立場の人間でも手が空けば自ら現場の作業に従事することになる。

 崔氏があの小川近くまで染料の素材を採取に来ていたのも、そのような家政の状況に由来するものであったらしい。


「そういえば平原侯さまも、桑の葉摘みを詠っていらっしゃいますね」


「『美女篇』か」


 鄴にいたころに書きおろした楽府がふの一首を、曹植も思い出した。


 彼は自分という人間について、文才ばかりを取りざたされることをあまり快く思っていない。ゆえに、自分の作品に対する他者の評価にも、いちいち意を払わないようにしているつもりであった。

 とはいえ、こう言っては何だがこんな草深い土地に暮らすむすめに、それも謹厳な儒者の手で育てられたむすめにまで自作が読まれていると知るのは、やはり悪い気分ではない。


「読んだのか。どうだった」


「論評など申し上げるのは、恐れ多いことです」


「気楽に言ってくれればよい」


「されば、―――ありきたりの感想ですが、主題である、桑摘みの婦人の魅力がすばらしいと思います。

 平原侯さまの筆致によって、婦人の比類なき美しさと深い憂いとが、眼前に浮かび上がるように感じられました。

 ―――ただ」


「ただ?」


「きらびやかなうでわかんざしなど、農作業に向かないほど装いが華やかなのは、婦人の描写を豊かにするためだということは分かるのですが、―――“素手しろいて”という句が気になりました。

 屋外で桑を摘んでいれば、腕もすぐに日焼けしてしまうので」


「そこか」


 曹植は思わず笑った。


「どうしても、気になってしまって」


 自分でも妙なことを言ってしまったと思ったのか、崔氏はふたたび目元を赤くしながら、小さな声で補った。


「傾聴する。次からは気をつけよう」


 曹植は笑いを含んだまま言った。


(桑の葉摘みか)


 隣を歩くむすめの白い横顔を見ながら、彼は思うともなく思った。


 採桑の現場では、彼女はおそらくその日摘むのに適した枝を見定めて人員や梯子や台車を差配するのが主な務めであろうとはいえ、自身も手が空き次第、休む間もなく葉を摘んでは編み籠を満たしてゆくのであろう。

 十七歳の少女にしてはかなり背が高いから、桑摘みの現場ではいっそう重宝されるにちがいない。


 ふと、このむすめの指が春先のやわらかい桑の葉を次々に摘み取り、時おり額に浮かぶ汗を拭うようすをみてみたい気がした。


 だが当然、桑摘みの季節が始まるまでには、自分はこの邸を去っている。

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