熠燿宵行(二)
「こちらです」
呼びかけられてみれば、いつのまにか書庫の前に到着していた。
崔氏が扉を開けると、どこの家の書庫でも特有の、少し冷やりとした空気がふたりにまとわりついた。
やはり書庫はいいな、と曹植は思った。
崔氏がふたたび先に立ち、書庫の構成を見せて回った。
薄暗いので全貌をすぐに見通せるわけではないが、曹植が想像していたよりはずっと奥行きがあり、立ち並ぶ書架も多かった。
前漢末の大学者、
後漢末のいまは
曹植の目からみて、崔家の書庫はなかなか合理的で整合性のある分類をおこなっているといえた。
ひととおり回ったところで、崔氏が足を止めた。
「―――以上です。平原侯さまにわざわざお越しいただくには、お恥ずかしい揃えではございますが」
「いや、じつに立派なものだ」
そのことばに多少の誇張はあったにせよ、心にもない世辞というわけではなかった。
曹植自身、ここまで連れてきてもらったのは書庫という空間に身を置き何かしらの文字を目にしたかっただけで、崔家の蔵書自体にはさほど期待を寄せていなかった。
しかし、父の重臣のひとりである
むろん、彼が鄴の本宅で使い慣れている書庫に比べればはるかにつつましい規模ではあるが、少なくとも
それはむろん、先年没したもののいまも天下に名を轟かせているかの大儒、
おそらく彼が本当に珍重しているものは自ら許都の邸に運び込み、身辺に置いているであろうから、この書庫にあるものはその選から漏れたものということになる。
それでもなおこれだけの質量を誇れるのは、たしかに刮目すべきことであった。
「どちらからごらんになりますか」
「ああ、―――ではあのあたりから」
そういって曹植が指さしたのは、『詩経』に関連する書物を配置する書架の一群であった。
「案内のときも示してくれたが、貴家は
当の書架の前に立ちながら、彼はつぶやいた。
「韓詩」「毛詩」とは経書のひとつである詩経を解釈する二学派をいい、またそれぞれが使用する詩経の章句そのものも指す。
崔家は毛詩派であろうと曹植が見当をつけたのは、崔琰が師事した鄭玄は経書全般の解釈において莫大な功績を残したが、『詩経』に関しては毛詩学の大家として著名だからである。
「はい。我が家ではもともとは韓詩のほうが好まれておりました。毛詩関連の書が増えましたのは、叔父が鄭師父に師事することを決めてからのことでございます」
「ではここの家風は俺と合いそうだ」
「平原侯さまも韓詩をお学びになられたのですか」
「ああ、―――だが、毛詩の解釈にも共感する部分はある」
そう言いつつ、曹植はいくつかの書架の列の間を歩き、棚ごとの細かい分類や書名を示す書きつけを確認してゆく。果たして、現在の崔家の蔵書は、毛詩のほうが優勢であった。
すでに故人だとはいえ、いまなお海内に令名高い鄭玄ほどの大学者からじきじきに講義を受けた門下生の生家に滞在しているのだから、この機会に毛詩学の諸説に浸かってみるのも悪くないものだ、と思った。
書庫は全体としては薄暗いが、壁際に行けば明かり取りの窓があり、書見台と筵席もいくつか据えてあった。簡素だが清潔で、こまめに使用されているらしかった。
「今日の日中は、ここで過ごしてもよいか」
「もちろんです。ではわたくしは、人払いのために出入口のほうにおります」
「いや、人払いは不要だ。俺がここにいることで貴家のひとびとに遠慮してもらいたくはない。
それに、そなたは出入口の番などせず、ここで―――すぐ隣で読書すればよいだろう。せっかく家事を免ぜられているのだから」
「ですが、読書中におそばに控えていると、お気が散るのではございませんか」
「そんなことはない。いてもらったほうがよい」
思いがけずそんなことばが口をついて出た。
妙なことを言った、と曹植は自分でも思い、やや強引に後を補った。
「次に何か―――何か別の書物を手に取りたくなったときに、すぐまた案内を請うかもしれぬだろう」
むろん嘘であった。
この程度の規模の書庫ならば、おおよその分類と配架の順序を頭の中に格納することは彼にとってさしたる苦労でもない。さきほど一巡しただけで案内は足りている。
崔氏はふたたび少し戸惑ったような顔をしたものの、丁重に頭を下げ、礼を述べた。
「かしこまりました。
それでは、―――お言葉に甘えさせていただきます」
そしてふたりそれぞれに書架から簡牘を取り出すと、隣り合った書見台に座を占め、黙々と目を落とした。
「あっ」
書庫に入ってから数刻たったころ、曹植がふと声をあげた。
崔氏がそちらを見ると、彼がひらきかけた編簡の
本来は上部と下部と中央上下の四か所に糸を掛けて一枚一枚の簡を編んでいたのが、三か所はすでにちぎれており、最後の一か所を綴じた糸はいましがた力尽きてしまったのだろう。
「やってしまった。すまない」
「いいえ、もともと相当古びていたのです。
この日が来る前に、もっと早くに補修するべきでした」
そう言って崔氏はばらばらになった数十枚もの簡を床から拾い集め、曹植もそれに倣った。
すべて拾い上げ、書見台の上に積み上げてみたはいいが、ここからが問題だった。
よくあることだがこの編簡も、おそらくは最初に清書をした人間がこのような事態を予測して、それぞれの簡の最下部に並び順を数字で書きこんでいたようである。
よって、本来であれば迷いなく復元できるはずだが、かつて最下部だけが水に浸される事故でもあったのか、いまや数字の大半は読めなくなっているのだった。
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