熠燿宵行(三)

「裏に傷をつけておけばよかったのですが……」


 簡牘によっては、すべてのふだを裏返しに並べて右から左まで斜めに―――右上から左下に、あるいは右下から左上に向かって―――刃物で傷をつけたうえで、紐で綴じているものがある。

 こうすれば、たとえ綴じ紐がちぎれて簡がばらけても、裏面を見比べて傷がつながるように並べてゆくことで、本来の構成を正しく復元することが可能である。


 しかし、この簡牘の場合はそうではなく、表面の文字だけをみて判断するしかない。

 さらに悪いことに、この簡牘の内容は毛詩もうしの本文を中心として訓詁くんこ(文字や語句の解釈)を添えるような体裁の書物ではなく、世にあまり知られていない学者の異説を載せたものであった。

 つまり、毛詩本文の構成を知っていれば正しく復元できるというわけでもない。


 どこから手をつけるべきか、崔氏は思案していたが、曹植は


「やってみよう」


と迷いなく手を伸ばした。

 崔氏が見ていると、彼は簡の文面をひとつひとつ速やかに読み比べながら、書見台の上に一枚ずつ置いてゆき、時折り順序を改めながら並べていった。


 そうするうちに、まもなくすべての簡を並べ終わった。

 そして、当惑の面持ちを隠せない崔氏に対し、並べた順のとおりに冒頭から末尾まで解釈を述べていった。

 やがて最後まで至ると、


「この並びであれば、論理の構成に破綻や倒錯もなく、一貫しているだろう」


と締めくくった。


 崔氏はしばらくものも言わず、再編された簡の文面に目を落としていたが、つと顔を上げ、


「すばらしいです」


と感嘆に満ちた目で曹植をみた。

 彼にしてみればまんざらではないが、しかし詩文の創造力だけでなく論理的思考に関しても周囲から賞賛の辞を贈られるのは馴れているので、「そうか」と平淡に受け流した。


「平原侯さまは、この書物は初見でいらっしゃるのですよね」


「ああ」


「わたくしもそうですが、こんなふうに復元できるとは、思いもよりませんでした」


「そうか」


 これがもし、鄴の自邸に仕える侍女や家妓たちが相手であれば、「俺に惚れたか」と笑顔で両腕をひらいたところに彼女たちもきゃっきゃっと身を委ねてくるところだが、いま隣にいるむすめは他家の女子なので、曹植もさすがに自重した。


 崔氏はまた書物に目を落とし、本当によかった、とぽつりと言った。

 やや大げさではないか、と彼は思った。


「まあ、錯簡さっかん(誤った順序で綴じられた簡牘)になってしまうよりはよかったが、正直そこまで注目すべき学説ではない。

 他の学者がこれを引用しているのも、あまり見たことがない」


「はい。いまではほとんど無名のかたですけれど、―――それでも、学者は自らの心血を注いで著作を遺すのではないでしょうか。

 本来伝えたかった形で残らなければ、その生涯を賭した努力も無に帰してしまいます」


「―――それはそうだ」


「それに、学説への評価は必ずしも不変ではありませんから、後世の誰かが、この書物の真価を見出すかもしれません。

 そのためにも、本来の形を取り戻せてよかったと思います」


「たしかに、そうだな」


 曹植は素直にうなずいた。


「鄭玄は―――」


 少し間を置いてから、いまより十一年前、建安五年(二〇〇)に没した大儒の姓名を口にしかけた。

 だが、叔父崔琰を通じて彼に私淑するむすめの前でそのいみなを直接呼ぶのはさすがに控えるべきかと思い、


「鄭康成こうせいは」


と、あざなで呼び直した。


「鄭康成は、若いときは貧窮に苦しみ、晩年には政変や戦乱に苦しみ、最期まで安穏と身を落ち着けることもできなかったという。

 しかしそれほどの困難をものともせずに、生涯を通じて学究に身を捧げ、余人のなしえない経書考証を大成した。我々はその恩恵にあずかっている」


 曹植自身は経学に入れ込んでいるわけではないが、儒教の正典たる経書は士人の教養の基礎であり共通言語であり、経書の知識なくして詩文を作るのはそもそも困難である。


 しかし先秦期以来形成されてきた経文(経書の本文)ひいては伝文(経文に対する注釈)の記述は、漢代の人からみても既に難解であったり簡潔に過ぎたりするため、古来の膨大な研究の蓄積をふまえたうえで自らの学説を展開する、鄭玄らのような経学の専門家による注釈が非常に重要になる。


 ゆえに、経学や儒礼それ自体を好むと好まざるとにかかわらず、世に学問をする者、文字を用いて自らの思考を表現し伝達しようとする者の大多数は、経学者が緻密に織り成してきた考究の成果から陰に陽に恩恵を受けている、そういう意味で曹植は言ったのであった。


「だが、それもすべては、かの大儒の著作が、本人が全身全霊を傾けて著述したとおりに書き写され、忠実に伝えられてきたからこそだ。

 学術の書は本来の形で伝えられることが大切だというのは、そなたのいうとおりだ」


「―――かたじけなく存じます」


「季珪どの―――そなたの叔父上もまた、かの大儒の門下に加わるまで、そして門下生らが戦乱のためにやむを得ず解散させられた後も、郷里への帰路が途絶するほどの困難に見舞われてなお学ぶことをやめず、各地を流浪する間も鄭学を真摯に奉じつづけてこられたと聞く」


「はい」


「たとえ平時でも学問だけに傾倒することはなかなか難しいが、戦時であればなおさら難しい。

 余人とは一線を画した季珪どのの言動の重みは、そういった経歴にも由来するのであろう」


「―――お言葉、光栄に存じます」


「学問に対する真摯さは、そなたも十分に受け継いでいるようだ」


 崔氏の目元が赤くなった。これまでよりも色の濃いそれは、頬や耳朶まで染めてゆくかのようだった。


「補修を」


「うん?」


「補修を、しなければなりませんね。並び順を復元していただきましたので」


 崔氏はうつむきがちなままそう言うと、立ち上がって書庫の一角に向かい、細い麻紐の束と小刀を持って戻って来た。

 書物を補修するための素材が、庫内に常備されているのだろう。


「並べていただいたとおりに編綴へんてついたしますので、平原侯さまはどうか、ほかの書物にお目通しなさっていてくださいませ」


「ああ、―――いや、俺も手伝おう。というか、そもそもの原因は俺だった」


「めっそうもない。―――鄴のご自宅では、侯もご自身で簡牘の補修をなさるのですか」


「いや、したことがない。もっぱら散乱させるほうだ」


 崔氏はふっと気が緩んだように微笑んだ。

 赤みが引いた後の白い頬にえくぼがまた浮かんだ。

 それをみた曹植は無意識に座を近づけ、


「だから、教えてくれ」


と言った。崔氏は若干ためらったものの、平原侯がそれなりに熱心らしいのをみて、


「それでは」


と最初に手本を見せ始めた。


「難しい作業ではまったくございませんが、紐を緩ませないためにはいくつかこつがあって―――」


 一枚一枚の簡の表面でくぼみのようになっている編綴痕へんてつこんを目印にして、白い指が手際よく麻紐を絡ませてゆく。


(―――まあ、今後に活かす機会はないだろうが)


 当然といえば当然ではあるが、曹植は、このあと鄴の邸に帰ってしまえば、自分の手で簡牘を補修する機会はもうないであろうと分かっていた。

 自分の作品の副本作りすら、任せる相手はいくらでもいるというのに、編綴のような単調な作業を彼自らやろうとしたら、まず周囲から止められるだろう。


 だが、崔氏の指のこまやかな運びを注視することは楽しかった。

 労働になじんだ手なので荒れてはいるが、動きに粗雑なところはなく、きびきびとしていながら丁寧であった。


 いくらでも眺めていられるな、とふと思った。

 その思いから目を逸らそうとするように、彼も簡を手に持ち、見よう見まねで紐をたぐりはじめた。

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