熠燿宵行(四)

 このパートの前書きというより、既投稿分の修正に関するご報告です。

 「熠燿宵行(一)」の前書きには当初、「清河篇(二十一)(二十二)の中間ぐらいの話です」と書いたのですが、よく見なおしたら「清河篇(二十一)の中間」と書くべきでした。遅ればせながら修正させていただきました。


 また、「熠燿宵行(二)」の本文では「[曹植が]崔氏から聞いた話では、この家では本来、『詩経』諸学派のうち韓詩のほうが好まれていたとのことだが……」と当初書いたのですが、崔氏は「清河篇(二十一)」の後半でこの話をしているので、どう考えても時系列が間違っています。ひどい。

 やむをえず、「清河篇(二十一)」「熠燿宵行(二)」の両パートが整合するように、両方に修正を入れさせていただきました。申し訳ありません。






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 全体の三分の二ほどまで編綴へんてつがはかどったところで、ふたりの背後のやや離れたところから、やや思わせぶりな咳払いが聞こえた。


 顧みると、書庫の入口がひらかれ、外の明るさを背景にして男がひとり立っている。

 筒状のものをいくつか手にしているので、借りだした書物を返却しに来たのであろう。

 背格好からすると、おそらく崔氏の族父にあたるような、初老の男性である。

 窓際からはやや距離があり、かつ逆光なのでその表情は分からないが、何かしらの警告を発したのであろうことはふたりにも分かった。


 気がついてみればたしかに、ふたりの肩と膝はいつのまにかほとんど接していた。崔氏は急いで脇のほうへ後ずさった。

 初老の男は曹植に向かって遠くから礼を捧げると、それ以上は何も言わずに書庫の中央部の書架へと向かっていき、用事が済むとまた礼をして書庫を去っていった。


 申し訳ございません、と崔氏は小さな声で言った。ふたたび目元が赤らんでいた。


「どうした」


「わたくしの不用意のせいで、平原侯さまに不名誉な誤解が生じてしまったかもしれません。家人には後ほどきちんと釈明をしてまいります」


「そこまでする必要もあるまい」


 だが、責任を取れと言われたら、取ってもいい。

 ふとそんな軽口を叩こうかと思ったが、結局言わなかった。

 このむすめに対しては、それを軽口として言いたくないからかもしれなかった。


「―――まあ、あまり人目があるのも落ち着かないな。

 寝所に戻って読書したほうがよさそうだ」


 はい、と崔氏はうなずき、曹植と自分が読み終わったものを書架に戻してくると、彼が書架から取り出してまだ目を通していない七、八巻ほどの簡牘を腕に抱えようとした。


「いや、そなたが持たなくともよい」


「平原侯さまにお持ちいただくわけには。病み上がりでもいらっしゃいます」


「もう十全だ」


 実際には、この書庫の涼気のなかに身を置いているうちに身体の芯がまた少し冷えてきたような気がしていたので、それは過剰な言い切りであった。

 そのうえ、戦場のような特殊な環境に身を置いているならともかく、たまたま寄寓した民間の邸のなかで、ある程度かさばる荷物を自分の手で運ぼうとしていることが我ながら不思議であった。


 物心がつく前から常に従者や侍女にかしずかれながら育ってきた身の上では、たとえ自分が必要とするものであっても、自分の手で運ぶという発想がまず浮かばない。


 ともかくも曹植は、彼女の腕から簡牘の山を取り戻し、自分ですべて抱え直した。

 そして、先ほど半ばまで補修しかけた一巻分の簡牘に目を遣り、


「そなたはあれをもってきてくれ。寝所で補修を完成させよう」


「―――かしこまりました」


 崔氏はうなずき、半ばは綴じられ半ばは散じているふだを慎重な手つきで束状にまとめようとした。

 平らな木の表面が軽くこすれあい、乾いた音をたてる。

 やはり書庫はいいものだな、と曹植は改めて思った。


 基本的には、書庫はひとりで過ごす場所だと思っているが、鄴にいるときは、弟妹たちからせがまれて連れ立ってゆくのも―――あるいは書庫のなかで彼らから「子建しけん兄上だ!」と発見されて、手にひろげた書物を覗き込まれたりするのも、嫌いではなかった。


 しかし長兄曹丕に対しては、むしろ彼が同行をせがむほうであった。

 といっても書庫のなかだから、別にあれこれ語り合うために一緒にいたいわけではないが、どこまでも果てしなく並ぶ書架のどこかに長兄の存在を感じると安心した。そういう時間と空間とになじんでいた。


(鄴に戻ったら、またああいう風に過ごせるな)


 そう思うと、心がいくぶん軽やかになった。

 だがそのためには、当たり前だが清河の地を離れることになる。


 自分の封邑ほうゆうでもないこの地に留まりつづける理由はなく、この家の世話になりつづけていい理由もない。

 最初から分かっていたことだった。

 だがいまは、あまりそのことを考えたくなかった。


 曹植は黙ったまま、崔氏の手がばらばらの簡をまとめてゆくのを、そしてその束を胸に抱くのを見ていた。

 赤子をいとおしむかのように、ずいぶん丁重に抱えるな、という印象をもった。

 これまで間近でみてきたとおり、ひとつひとつの挙措をおろそかにしないむすめだからなのであろう。


 彼女はそのまま彼より先に立ち、歩き始めた。

 そのときふと、既視感があった。

 

 崔氏はまだ数え十七だが、背丈は二十代あたりの平均的な婦人より優に高い。

 まして書庫のような薄暗いところで後ろ姿だけをみると、十代らしい骨格の華奢さをすぐには看取できず、なおさら年齢が実際より上のようにみえる。

 先ほど書庫全体を案内してもらったときも彼女が先に立って歩いたが、そのときは説明してくれている書架の中身に関心を向けていたので、後ろ姿を気に留めることはなかった。


 かの婦人・・・・はむろん崔氏よりも小柄で、いまの曹植よりも小柄である。

 だが彼が十三のころ、彼女が長兄に娶られたあの年には、彼はまだ彼女をいくぶん見上げる形だった。

 あのときの背中や肩も、ちょうどいまの崔氏のように、薄暗がりのなかで端正な姿勢をみせていた。


 かの婦人とまさか、書庫のなかで出会うとは思っていなかった。

 長兄の妻妾が暮らす文字通りの深閨しんけいを、長兄と一緒でなければ離れるはずがないとばかり思っていた。

 だから薄暗い書架の間でひっそりと立つ背中を見かけたときは姉か族姉のひとりではないかと思い、気楽に声をかけた。

 間違いではなかったが、正しくは義理の姉であった。


 呼びかけに応じて彼女は振り返った。

 その顔の白さと対照をなす、吸い込まれそうに深い漆黒の双眸と目が合ったときの驚きを、曹植はいまでもよくおぼえている。

 心臓が止まりそうになりながら、むしろ時間がこのまま止まることを願った。


 だが彼女の後景をよくみれば、侍女たちが少し距離を置いて控えていた。

 人違いをひとこと詫びて書庫の奥のほうへと向かうべきだったが、動けなかった。


 彼女のほうも軽い驚きを浮かべていたが、この義弟は書庫へ長兄を、つまり彼女の夫を捜しに来たのだと思ったらしく、


子桓しかんさまは、あちらに」


と少し離れた書架の裏側を指し示した。

 そのとき向けられた笑顔はごく控えめなものだったが、誇張ではない温かみがあった。そう感じたとき、彼にとって世界の色が変わった。


(兄上のほうへ向かう前に、何を読んでおられるのですか、とだけ、そのひとことだけ義姉上に尋ねてみよう)


 そう心を決めたが、いざ口をひらこうとすると、何も発することができない。


 結局、顔を伏せてひとこと礼を述べるしかできなかった。

 そして長兄のいるほうへ足を向けようとしたとき、あえかな声が耳朶に届いた。


「子建さまは」


 義姉の声であざなを呼ばれたという、ことばにならない歓喜の熱が四肢を駆け巡った。


弟君おとうとぎみのなかでもとりわけ読書にご熱心だと―――朝も夕も書物を手放されないと、子桓さまから伺いました。すばらしいことですね」


 振り仰ぐと、その朱唇には笑みの形がとどまっていた。

 どうしてさびしそうにみえるのだろう、とまったく無関係なことを考えた。

 自分のなかの何かが膨れ上がって血肉や皮膚を散り散りにしてしまいそうで、それ以上彼女の前にたたずむことができなかった。

 今度は礼も言わず、頭を一瞬下げただけで、足早にその場を立ち去った。






「―――平原侯さま」


 静かな呼びかけの声を耳にして、はっと意識が明瞭になった。


「いかがなさいました」


 両手がふさがった彼のために扉をひらいたまま、崔氏は案ずるような顔をしていた。


「暗いところに長くいらしたために、外の光が強く感じられるでしょうか」


「―――いや、大丈夫だ。先ほどの窓辺も十分明るかった」


 そう答えると、曹植は扉の敷居を越えた。やや潤いを含んだ春先の微風を顔に受けた。

 屋外はむろん、書庫の内部よりだいぶ明るいとはいえ、晴天の日の明るさではなく、やや灰色がかっていた。


(俺は、支離滅裂だな)


 曇った空を見上げながら、曹植は首を振りたくなった。

 清河を離れがたく思った次の瞬間には、何の脈絡もなく義姉のことを―――彼の心を鄴に縛り付けるもうひとつの大きな磁力を思い出した。

 

(旅先では忘れるつもりだった)


 実際には、鄴を離れている間も、清河の地に達する以前でさえ、折に触れて思い出さずにはいられなかった。

 忘れられるつもりだった、というのが正しいであろう。

 だが、いましがたの想念はたしかに狂おしくも手放しがたい記憶であるとはいえ、これほどまでに心がざわめいているのは不可思議だった。

 あるいは、このむすめがすぐそこにいる空間で、彼女を思い出したからかもしれなかった。






 ふたたび回廊に出た。

 ひさしの外は曇天というだけではなく、すでに小雨が降り始めていた。絹糸のような雨であった。

 ふたりで歩きながら、曹植はふと尋ねた。


「そなたは詩については、もっぱら毛詩を学んできたのだな」


「はい」


「俺は韓詩のほうになじんでいるが、毛詩や毛伝にも長所が少なくないと思っている。

 どれが好きだ」


「毛詩のなかの、一首ですか」


ふうでもでもしょうでも、何でもよいが」


 崔氏は少し考えるような顔をしてから、


「「七月」が好きです」


と答えた。曹植には意外な気もしたが、言われてみれば、という気もした。


 「七月」は国風のなかでも豳風ひんぷうに属する詩である。

 豳は、周王の祖先が稼穡かしょくに励み民びとを導いたという、周王室にとっていわば父祖の地にあたる。

 「七月」は、その豳の地における年間の農事を詠ったとされる長大な一篇である。


 豳の地は後漢のいまでいえば関中かんちゅうの北寄り、涇水けいすいの上流一帯にあたるから、ここ冀州清河の地とはだいぶ離れているが、江南とは違って空気がよく乾燥し、黄土が豊かな地域であることには変わりがない。


(―――「七月」か)


 この静かな農村の暮らしのなかで、このむすめが朝に夕にそれを口ずさんだなら、四季がめぐりゆく景色のなかにひっそりとよく馴染むように思われた。


「どういうところが好きだ」


「うまく申し上げられないのですが、―――不思議な気がいたします」


「不思議とは」


「周王朝が始まるよりもさらに古い時代の人々が、春には蚕を育て、夏には蝉の声を聞き、秋には収穫し、冬には毛織物を仕立て、一年の終わりには祝賀の宴を張り、―――そういったことがすべて、いまのわたくしたちと同じなのだと。


 そう思うと、聖賢が統べる淳朴な世に生きた人々とわたくしたちの間には、歳月の隔たりが何もなくなって、哀楽をともにしているかのようで、とても不思議な気がして、―――心が震えます」


 その震えをかすかに伝えるかのように、崔氏は目を伏せた。

 長いまつげの陰になった瞳が、いっそう黒々と深い色にみえる。


 ―――このむすめの双眸を、もっと近くでみてみたい。


 そう思っている自分に気づき、何を考えているのだ俺は、と曹植は自分を問いただした。

 ほかのことを考えなくては、と思うが、いましがたの思いはしばらく頭から離れなかった。


「曹丞相の―――お父上さまのおかげです」


 崔氏の声が、そよぐように耳に届いた。

 見返せば、彼女の静かな佇まいは前と同じだったが、そのまなざしと声には、これまでよりさらに深い思いが込められているかのようであった。


「我が父の、か」


「「七月」の一句一句が詠うように、農事は四季の暦どおりに怠りなく進めなければ、収穫できるものもできなくなります。

 ゆえに、戦時下では略奪の被害だけでなく、稼穡かしょくの停滞も恐れなければなりません。


 曹丞相の御旗みはたのもとで冀州に秩序がもたらされるまでは、我々のような農村の人間も武器を備えなければならず、家中かちゅうの安全のために農地の手入れを断念することも、しばしば選ばざるを得ませんでした。


 千年以上前の聖王や賢人の世と同じように、この地でも季節の移ろいに応じて農事のみに勤しむことができるようになったのは、曹丞相のおかげです。


 中原のほかの地域の人々もきっと、同じ思いだと思います」


「―――そうか」


 曹家も郷里のはいしょう県では広大な耕作地を有し、多数の借地農を抱えているから、曹植もその方面のことを考えたことがないわけではなかった。

 だが、いまこうして、父の偉業により恩恵を受けたと謝することばを―――実感に満ちた真率なことばを間近に聞いて、純粋にうれしかった。


「それを聞いて、俺もいっそう、父上のことが誇らしい」


 崔氏はやわらかく微笑んだ。


(あ、だめだ)


 何がだめなのか自分でもよくわからないが、曹植は唐突にそう思った。

 なぜか彼女と目を合わせられないような気持ちになり、実際に目をそらした。

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