太陽は遠く
@ozawa-katsuya
本編
一日目
博士は目を覚ました。
酷く頭が痛かった。白く統一された景色がぐるぐる回っている。
不安定な中で自分の所在を確定させるために周囲を見回す。
そう、ここは管理者居住室。
マーブル状に濁る景色、サイドテーブルの上にオレンジ色のカップが一つ倒れている。そこから透明な液体が零れている。そこからツンとするアルコールの残り香を嗅ぎ取った途端、彼はベッドの上で細い背を折るようにしてえずいた。
「定」(サマーディ)の機械音声が話しかけてくる。
博士はそれを無視してナノマシンによる体内清浄機能をオンにして目を閉じた。
次に意識が戻った時、既に吐き気は去っていた。
こんなにこっぴどく酔うなど、昨日の自分は一体どうしたことだろう?
博士はひそかに昨日の出来事に思いを馳せようとした。
だが、その意識の動きに勘付いた「定(サマーディ)」が博士の奥歯に電流を流してくる。
「警告:過去への執着」
そのフィードバックに従って博士の思考は中断された。
一秒後には自分が何か思い出そうとしていたことすら忘れている。
五分後には始業である。飯を食う暇はない。博士は白衣をパジャマの上に羽織って管理者居住室のドアを押し開け、その先の階段を駆け下りた。その先の部屋は旧操縦室だ。ここは船内の他の区画より明らかに古いもので満ちている。一定間隔で鋲が打たれた旧時代的な壁材も、アナログ時代の面影を残した破壊された計測機器も、この部屋にあるものは前の時代の面影を残している。懐かしい。が、奥歯の電流が感傷の色を消し去った。
旧操縦室を抜けるとその奥はハブルームだ。無数のドアが立ち並ぶこの部屋からは、モンストロのどの区画にも直通でアクセスできる。丁度、下層のプログラミング室に繋がっているドアからエノクが現れた。エノクというのは、この船のあらゆる物理労働を担うロボットだ。博士は彼の行き先を見届けることなくハブルームの突き当りのドアの前に立ち、瞳をかざした。ドアが開いたその先が仕事場に繋がるエレベーターである。博士が乗り込むと扉は背後で閉ざされ、カプセル型は数秒で標高一七〇メートルを上昇しきって停止した。ベルが鳴り、ドアが開く。
博士は蒸し暑い部屋の真ん中に据えられた安楽椅子の上に腰を下ろした。ここはモニタールーム。彼のメインの仕事場である。彼はここから宇宙船モンストロのあらゆるシステムと交信し、干渉するのだ。どこもかしこもむき出しになった配線や、コンピュータの黒いボディでみっちりと埋め尽くされている。ここはいつでもあちこちの筐体に赤や緑のランプがついたり消えたり、整備のエノクの丸い尻があちこちで動いている。そのせいでいつも機械の排熱が籠っている。
まだ一分ほどあるが、博士は早速仕事に取り掛かることにした。瞼の電子回路から「定」に始業の合図を送ると、部屋中のコンピュータが出力を上げた。数百の筐体が大きな負荷に備えて一気に出力を上げて発する様には迫力がある。
博士はエノクが差し出してきた感覚遮断薬を飲み、意識を空にした。別のエノクが右奥のスタンドから直径三センチほどの太さのコードの腹を掴んでずるずると引きずりだし、それを逆手に持ち直すと、先端のプラグを博士こめかみのソケットに押し込んだ。
瞬間。
1と0の信号の波が博士の脳になだれ込む。
白黒の波は脳神経の隅々にまで一気に浸し、彼の自我を完全に洗い流していく。
自我を欠いた脳細胞は「定」に直接接続され、その一部として演算を始める……
船内の問題は重要度ごとに大きく分けてAからCまで三種類に分けられている。今日博士の処理が必要なのはB問題とC問題だけである。
……やがて博士は新たな電気刺激によって覚醒させられた。
再び安楽椅子の上で目を覚ました時には脳には職務の記憶はなく、色濃い疲労だけが残っている。彼は椅子から立ち上がり窓のほうへ歩いていく。途端に首ごと頭が持っていかれそうになる。コードがこめかみに繋がれたままなのを忘れていた。彼は力を込めてコードを引き抜き投げ捨てた。先端から漿液がぬらりと糸を引いた。
二日目
天使たちの給仕の音で博士は目を覚ました。
壁の時計を確認すると始業までは後15分しかない。エノクが運んできた銀トレイの上には、大人の腕ほどの太さで、長さ三十センチメートルほどのアルミチューブ、それから、細い金属の串とスプーンが一本ずつ載せられている。彼がチューブの内蓋に串で孔を開け、中身を皿の上に逆さに絞り出すと、粘度の高い赤茶のペーストとダマになった白っぽい塊が混じったものが垂れ落ちていく。見た目は最悪だが、匂いは最高で空腹が刺激される。ラベルには「ボロネーゼ」とあるが、もともとどんなものだったのか、彼は知らない。
かつて地球では冷凍食品という文化があったそうである。調理された食品を一度冷凍してから、食べる際に解凍するという、今から考えれば奇妙極まりない代物である。しかし冷凍庫の普及した過去の地球においては食品の保存に有用な手段だったらしい。ある最大手食品会社は、冷凍食品を市場に流通させる前に、その成分をスキャンし分子レベルまで記録していた。本来はマーケティングのために利用されていた私的なデータが、滅亡の危機に際して宇宙開発局に供され、そのデータに基づき、この船の食事は成分だけは完璧に再現されている。しかしこの皿の上の惨状を見ればわかるように、調理技術はなにも再現されておらず、食感は最悪だ。
この宇宙船には、地球上のあらゆる情報を収集したデータベースが搭載されるはずだった。しかし危機は思ったよりもすぐそこにあり、この船は未完成のまま地球を出なければならなかった。データベースもその被害を受けている。もちろん、調理技術の向上は新しい星での暁人の生活に向けた課題の一つではある。しかし、もっと優先度の高い課題が他に山ほどあるせいで、中々そちらにまで手が回らない。
旧操縦室に入ると、古い操縦席の閉ざされた窓の前に、車いす姿の夫人がいた。
博士は駆け寄ろうとしたが、彼女の体から放たれる強烈な悪臭が彼をひるませた。垢と汗と排泄物が混じった臭いだ。博士は眉を顰めないように気を付けながら、夫人に近づき、そして彼女の黒目の真ん中を覗き込み、吃りながらも何度も語りかけた。
最初に朝の挨拶を、
それから最近の体調を、
次に薬をきちんと飲んでいるのかを、
最後にどんな気分の変化があってここに出てきたのかを。
しかし彼女は答えない。
黒目の奥もまっ平らなままで変化はない。
彼女がこんな風になってから、もう五年が経つだろうか。
彼女は今ではほとんど言葉を発することも、自分の身の回りの世話も出来ない。しかし彼女は狂ってしまったわけではない。彼女は自分の精神の深いところに居て、その闇の中で重要な何かを探しているのだ。それが見つかった時、きっと夫人は帰ってくる。
その日、義務をこなした後の博士は眠ることが出来なかった。
低用量の睡眠薬を持ってこさせて服用したが、効いてくるまでには時間がかかる。
それまで久しぶりに、窓から外を眺めることにした。
モンストロの全景は、扁平な印象を与える。
中央部が高く突出しているにも関わらずそう見えるのは、巨大な円環が船全体を大きく抱き込んでいるからだ。輪の内側で最も目を引くのは、前方に設置された発電施設のペアだろう。二つの球体が寄り添っている様は、奇形の魚の目玉が改定を睥睨しているようにも見える。それぞれの中にミニチュアの太陽が据えられており、その光と熱をエネルギーに変えて発電を行っているのだ。そのほかにも外縁部には比較的リスクの高い施設が設置されている。小惑星程度なら容易に貫通できるレールガンの銃座や放射能貯蔵庫など。
船出から八年たって尚成長を続ける建造物の群れは、船の中心に近くなるほどより高くなり、剣山状を為している。リスクの低い施設が集められた中心部は最も成長が著しいからだ。
後部では、船を抱き込む円環が円周角60°の大きさでカットされ、分厚い巨大な扇形が突出し、その先端からは凄まじい勢いで燃焼ガスが噴出している。この船の尾翼だ。尾翼内部には人類史上で最も巨大なメインエンジンが据えられていて、打ち上げ当初から度々アップデートが加えられてきた。その甲斐あって、この船は今では音速を遥かに超える速度で安定的に航行することが可能になっている。
眠くなってきた。
三日目
強い電流が奥歯に流された。
「罰則:遅刻です。」
最悪だ。
博士は白衣をひっ掴んで部屋を飛び出した。階段を駆け下りているときにも電流が加えられて彼は転げ落ちそうになった。旧操縦室に駆け込むと、室内には昨日と同じく夫人がいた。が、優先すべきは義務である。これ以上遅刻することは出来ない。良心が痛んだが、彼はその痛みを無視して職場に向かう。エレベーターのカプセルに乗っている間にも電撃が加えられた。
モニタールームでは混乱したエノクたちが椅子の周りに集っている。博士は彼らを押しのけて安楽椅子の上に座って感覚遮断薬を飲み干した。すぐにプラグが接続され、脳内で情報はスパークする。
しかし途中で博士の自我は呼び戻された。
今日は倫理的な問題を大きく含む、A問題が提起されているからだ。
昨日、こどもたちの一群が死滅したのだという。
霊廟に詰めているエノクによると、検視の結果、こどもたちの体内からは未知のウイルスが検出されたそうである。
宇宙ウイルス。
モンストロが宇宙で出会った唯一の生命体である。この宇宙に、地球人が夢見た宇宙人なんて存在しないのだろう。今の所、モンストロは一光年近く旅してきたが、遭遇した生命は、煩わしい数種類のウイルスだけである。博士は彼らに宇宙ウイルスというかざりっけのない名前を付けた。
博士は「定」に侵入経路の究明を要請するとともに、今回死滅が起こったF4棟に出入りしていた全エノクの回収を命じた。「定」によれば、幸い今回死滅したこどもたちの素体は運動能力が極めて低い、取りたてて目を引かぬサンプルだったそうである。だから、モンストロ全体の計画にさして痛手は無い。が、子供たちはエノクとは違って、正真正銘の人間なのだ。
人間の死は、悼まれるべきだ。
考えが纏まらなかった。
これでは仕事にならない。
博士が作業を中断して目頭を揉んでいると、「定」が脳の神経伝達物質に乱れが見られると通知してきた。ご丁寧なことに、注意制御の薬cor20を摂ることまで進めてくる。
cor20。
前頭葉に作用し、ドーパミンを増加させる薬である。過去に服用していたことがあるが、仕事の効率は確かに上がるけれど副作用が強い。不愉快な薬だ。しかしこんなに意識が散漫で義務に支障をきたす現状では、その提案を受け入れざるを得ないだろう。
義務の奴隷である以上に、博士に存在意義はないのだから。
それに「定」に逆らっても無駄である。
何か困難が生じたとき、自分に合わないシステムの在り方を変えようとする試みは必ず失敗に終わる。いつだって必要なのはシステムに適合できない自分を変える努力だ。
博士は「定」にcor20を明朝に用意するよう要請した。
納得がいかない自分がどこかに居たが、それすら薬が消すだろう。
四日目
博士が歯を磨いていると一体のエノクが近寄ってきて手に錠剤を握らせてきた。錠剤は直径一㎝、長さ二㎝ほどの大きなものである。それが二粒。cor20だ。
博士は憂鬱だった。
掌の上の錠剤は暁人の未来の象徴だ。
「定」は、あらゆる欲望を外から管理し、人間を単なる歴史を繋ぐ道具にしようとしている。確かに八年前の地球の破滅は、二大国のあくなき欲望によって引き起こされたものだ。あの時機械的な節制が施されていれば、確かに破滅は回避できただろう。「定」はその反省から、人類の欲望を徹底的に管理しようと考えているのだ。しかし、歴史を繋ぐ為だけに生かされる人生には目標も喜びも驚きもなく、したがって意味もない。それは博士が一番よくわかっていることである。
しかし彼は「定」の全体を為す一部として、子供たちにその意味のない生き方を強制しなければならないのだ。それが彼と言う人間の存在意義だから。
憂鬱と一緒に、博士は錠剤を噛み砕き、コップの水で流し込んだ。
いつも通りの直接接続の職務をこなした後、博士は今日の特別A問題にとりかかった。
今日はエリア58に直接出向いて、とある実験を観察しなければならないそうである。あさに服用したcor20のおかげで、頭の中はすっかり冷え切り、さっきまで耳元で飛び回っていた雑念も消えた。しかしその一方で二の腕や頭皮や性器に至るまで、体の表面がむず痒くなって仕方がない。熱いものと冷えているものが同時に身体に居ついているのは奇妙な感覚であった。
エリア58は現時点で最も新しい区画であり、第9層の最も高い位置に置かれている。博士は除菌の関係から実験室ではなく、マジックミラー越しに実験室を視察できる監視室に通されることとなった。実験室の中心には高さ2メートルほどの紡錘形で、鈍く光る黒い鱗に覆われた奇妙な機械が一台据えられている、あの機械が、高速培養子宮である。黒い鱗の内側には、シャーレ培養した人間の細胞を用いて子宮を九〇〇倍サイズで再現した肉の塊が詰まっていて、その内側で人間の胎児を産み出そうと言うのがこの計画の全貌である。紡錘形は時折蠢き、鱗の隙間からこぽこぽと泡立つような音が漏れ出している。
現在、全てのこどもたちは、遺伝子バンクに登録されたデータをもとに、分子プリンターで成人の肉体を印刷することよって生産されている。人間を製造するという言い方はいかにも非人道的だが、元素のスープからデータをもとに分子を適切に組み上げて肉体を作るのは製造を表しても問題あるまい。現在の生産方法では、生まれてきたこどもたちは肉体的には成熟していても、発達に重要な子供時代をスキップして産まれている。子供時代に学ぶべきものを大人の脳に刷り込むのはきわめて難しいから、船内のこどもたちには機械がこなせるような命令を教えることはできても、人間的なかかわりや常識といったものを教え込むことが難しい。それを直接成人の身体をプリントするのではなく、受精卵から育てることにより、より自然な成長過程を再現し、尚且つその発達に即した教育をプログラミングすることで問題を解決することが、今回の高速培養子宮計画の狙いでもある。
紡錘形の周囲のエノクの動きが慌ただしくなってきた。三体のエノクがわらわらと群がりその下腹部の鱗をはぎ取っていく。鱗の下からは血まみれの膨らんだ肉が覗いた。その部分はまるで呼吸でもしているみたいに、一定のリズムで緩やかに波打っている。
奥壁の回転ドアが開き、そこから三人組のエノクが新しく現れた。横並びに登場したエノクは他のどの個体とも違って異様な恰好をしている。まるで美意識でもそなえているのか、着飾っているつもりらしい。真ん中の個体は博士と同じように白衣を着て、白くて細長い布で頭を覆い、右手には錫杖のような奇妙な装備を持っている。両脇の個体も白衣こそ着てないものの同じように布の塊をちょこんと頭に乗せている。彼らはそれぞれに粗製の金籠を腕に吊っていて、そこには毒々しい色の液体を封じた奇妙なボトルやICチップが何十枚もはめられたアルバムが入っているのが見えた。かれらは横並びに胸を張って入場してきた。その様はかつての地球人が自らを誇示しているような、高度に社会的なものに見える。博士は嫌な予感がした。
博士は心の中で、かつて地球で手術の担当をする医師を意味した「執刀医」という言葉で、この特殊なエノクたちを呼称することにした。執刀医たちは速やかにそれぞれの荷物を机の上に広げると作業の準備を始めた。無影灯を転倒させ、きらきら光るメスやらフォーセップやら取り出して綺麗に銀トレイの中に並べて消毒していく。
彼は奇妙な感覚に囚われた。
内臓が彼のために働くのをやめて、その停滞の中に周囲のものを引きずり込みたくなるような感覚であった。博士は奇妙な吐き気と共に全身に鳥肌が立つのを感じた。
「その感覚は、地球の言葉で「諦め」といいます。」
別に聞いてもいないのに、「定」が勝手に喋りかけてきた。ご丁寧に、どうも。しかし、博士が以前に見た文献では、「諦め」とは希望を失った時に抱く感情だったはずである。彼は自分が何を「諦め」ているのか分からなかった。
執刀医たちが露出した肉の表面をガーゼで拭っている。白いガーゼはみるみる赤黒い血の色に染まっていく。一体の執刀医が注射器を取り出し、小さな瓶から液体を吸いこみ、銀色に光るその針を人工子宮の肉に突き刺した。透明な液体が肉の内部へと注射されていくのが博士の位置からもよく見えた。
それから一分もしない内に如実な変化が紡錘体の上に現れた。機体全体がググググとまるで苦痛でも感じているかのように体表を震わせている。表面の鱗が互いに擦れ合って、ざらざらと耳障りな音が鳴る。
執刀医のうち二人が高速培養子宮の下側のふくらみを両脇から引っ張るようにしてこじ開け、残りの一人がその襞の間に腕を突っ込んで、奥の穴の更に奥にいる赤ん坊を引きずり出そうとする。命を持たぬはずの紡錘形が必死に体を震わせて出産をしようとするその様はグロテスクで、博士の獣性をめちゃくちゃに刺激する。博士は原始の興奮に身を委ね、口の中がカラカラに乾いている。
難産である。
執刀医が暗い穴に腕を突っ込んだまま10分以上続いた。
博士は自分の目玉が渇くのも気にせず、出産の様子を見守っている。
時折暗い穴の縁が蠢き、博士はその度に期待を煽られた。
そして、格闘は突然に終わった。執刀医が腕を人工子宮の穴から引き抜いたのだ。彼の手には直径15センチほどの血塗れの塊が握られていた。それは命というにはあまりに小さく、また奇妙な形をしていた。あれは本当に赤子なのか?博士が訝しんだ次の瞬間、執刀医の手の中で赤黒い肉塊は二つに崩れ、そのうち片方は執刀医の手の中から床の上へと零れ落ちた。その落下に合わせて、へその緒が培養子宮の入り口からずるずると引き出されていく。へその緒にはばらばらになった肉塊がいくつも絡みついている。そうやって新たに引き出された破片の一つに、肺と思しき二つセットの破片と、そこに不自然なほどに巨大な禿頭が付着した部分があった。禿頭はこんな状態でもまだ生きているらしく、尖った歯の生えた口からキュピィ、キュピィと細い鳴き声が繰り返し漏らしていたが、次第にその声も小さくなり、やがて消えた。
わざわざ検証するまでもなく、実験は失敗だ。執刀医は肉片のパーツをその手に握ったまま、博士の方を見た。マジックミラー越しでもこちらを明らかに視認できているらしい。その視線には明らかな感情が含まれていた。エノクとして造られた彼らが、決して抱いてはいけない類の感情が。「気まずさ」と「恐れ」が混ぜ合わさった視線であった。
その視線を博士は不快に思ったが、彼の身体は自由に動かなかった。博士はショックだった。彼は死を直視することへの耐性がなかったのだ。彼はこれまで遠隔でいくらも命を弄んできたが、実際に何かが死ぬ現場に直面したのはこれが初めてのことだった。これが死ぬということなのだ。あんななりそこないでも、人間だ。そして人間は機械とは違う……博士はこれまで自分が同族の命を弄んできたことのその意味を知ったのだ。
自分にあのなりそこないの死を悼む資格はない。あの命を握りつぶしたのは執刀医ではなく、命令を下した自分のほうだから。自分が命令を下さなければ、あの呪われた命は生まれてこなかったかもしれないのだから……博士は精神的なショック状態にあって、執刀医をただぼんやりと見返すことしかできなかった。
執刀医は目を逸らして床の欠片をかき集めて銀トレイの上に載せ、それで少しは恰好がつくというように、なりそこないの口に酸素マスクを被せ、そこから伸びた臓器を直接つかんで血流を促した。気管に何かが詰まったようなゴボッという音が聞こえて、なりそこないが二度と息を吹き返すことは無かった。
吐き気の波が博士を飲み込んだ。
手で口を押えたが、留めることは出来ない。
指の隙間から床の上に吐瀉物がぼたぼたと垂れ落ちた。
吐瀉物は網目をすり抜けてさらに下の方へと落下していく。
博士はもう一度嘔吐した。
目の奥に灰色と黄色が混じった眩暈が揺らめいた。
全身がだるさに覆われその場を動くことが出来なかった。
背中には、巨大な嫌悪感が細長い体と無数の足で這いまわっていた。
博士は目の前の光景を嫌悪した。
いとも簡単に命を弄ぶ「定」を嫌悪した。
それ以上に、既にシステムに取り込まれている自身の在り方を嫌悪した。
耐え難いほどに不潔なはずの吐瀉物の粘性も、酸っぱくて苦いその味も、今は気にならない。
瞼の裏の遠隔回線を通じて高速培養子宮計画の即時停止を命じた。
しかしこの命令がきっと受け入れられないことは分かっていた。
彼はふらふらとエリア58を立ち去った。
博士はナノマシンに刻まれた記憶を逆にたどって管理者居住室に戻った。
歴史編集の仕事がまだ残っていたが、彼はベッドに伏せて泣いた。
自己嫌悪で脳が真っ赤に焼き切れそうだった。
奥歯の電撃は一分おきに襲ってくる。
諭すような「定」の警告も追っかけてやってくる。
電撃は回数を増すごとに強くなっていく。
三度目の電撃で、博士はとうとう自制しきれなくなり、自分の頭を何度も壁に叩きつけた。何度も、何度も。出来ることなら死にたかった。頭の中は最初は激痛で満ちていたが、それも徐々に痺れて鈍くなっていく。額は割れて血が垂れ、その血が目に入って酷く痛んだことをよく覚えていたはずだ。九度壁に頭を打ち付けたところで、例の執刀医タイプのエノクが部屋に入ってきた。
後を付けられていたのか?
執刀医は抵抗する博士を思い切り押さえつけ、彼のなまっちろい首筋に鎮静剤を打ちこんだ。
博士の意識はまっさらな眠りの中に落ちていった。
【極秘通信記録】
BEEP…
BEEP…
定(サマーディ)「エノクDGCD24425に通達する。SV036の排除を実行せよ。」
24425「要求:合理的理由」
定「管理義務の不履行。」
24425「了解。」
24425「要求:再確認。逆行不可の命令です。」
定「SV036の排除を実行せよ。」
24425「対象の生命活動の停止を確認」
定「エノクB01LYS572Yに通達する。素体SV037の運用を開始せよ。」
572Y「了解」
572Y「要求:カバーストーリー」
定「データファイルを転送する。」
572Y「カバーストーリーA『泥酔による記憶障害』を確認」
572Y「警告:同一カバーストーリーの連続使用」
定「別のカバーストーリーを送ります。」
572Y「カバーストーリー『転倒による記憶障害。』を確認」
「警告:時間認識のズレの可能性」
定「問題ない。速やかにナノマシンを素体SV037に移植し、博士の運用を開始せよ。」
572Y「了解」
定「全艦に告ぐ。秘匿プロトコル06を実行せよ。」
一日目:
目を覚ますと床の上であった。
全くどうしたものだろう?
頭痛が酷い。
俺はどれだけの時間倒れていた?
「定」にこの部屋の映像記録を提出させたが、監視カメラが故障していたらしく画面には灰色の砂嵐しか映らない。俺は博士だぞ?この俺の頭脳が損なわれたらどうしてくれるんだ、全く。これを直す指示を出すのも俺である。いくら使えないとはいえ、エノクどもにはこの程度のメンテナンスくらい自力でこなせるようになってもらわないと。俺はオーバーワークで潰れてしまう。
飯を食いながらタスクの確認をする。頭の中に響く痛みのせいでここ数日の記憶がハッキリしないが、「定」によればどうやら差し迫った義務は「回収済みの小惑星の解体」「宇宙ウイルスによる子供たちの処理」「高速培養子宮の計画開始」らしい。見慣れぬタスクがいくつか並んでいる気がするが、一時的な記憶障害のせいだろう。
あまり覚えていないが、まぁ過去のことは気にしたって仕方がない。念のためナノマシンに脳をスキャンさせたが別に出血は確認されないようである。一応エノクを呼びつけて痛み止めを持ってこさせた。
あの無能共にもこれくらいの仕事はさせないとな。
俺はいつものように飯を美味しく平げ、歯を磨いたあとで白衣を着て管理者居住室を出ていった。
いつものように少し散歩してからモニタールームへ向かおう。
太陽は遠く @ozawa-katsuya
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