営巣

一ヶ村銀三郎

営巣

 どうにも原理が掴めぬが一定の効果が見込めるまじないで俸禄を賜っている以上、納得できない現状に折り合いを付けねばならない。黒い外套に身を包んでいる二世Segundoはそう思いながら、寒風漂う官舎街を退出し、途中で複数名の同業者と擦れ違いながら暖色系灯が僅かに彩る旧市街にある下宿に帰って行った。今日の成果は大馬陸一匹の退治程度の物で、然したる仕事ではない。問題は妖化の末、肥大化した節足動物を始末する際に、周囲に植わっていた松を数十本程度薙ぎ倒してしまった事にある。内国妖霊統括部に気色の悪い存在を徹底的に討伐する能力はあっても、恒久的物損補償能力が欠如している以上――頭を下げたとて倒壊した松は二度と再生する筈もない事くらい当然承知しているが――ひたすらに謝罪するしかない。そうした周辺住民への対応や始末書作成の結果、この二世と渾名される男は街灯が輝き始めて久しい虚空を歩く破目になったのである。

 無理やりに創り上げた事務用の建造物群と川沿いに築かれた集落の末裔の間は週末と言う事もあって、人通りが実に少ない。石畳が木製の橋に変じ、そして土煙を放つ未舗装の道となった。前方には薄暗い灯が点在する。下宿も近い。男は立ち止まって来た道を振り返ってみた。監視弟だの統括局だの、仰々しい官製の箱物ばかりで、実際に動かす要員は微々たるものである。幅を利かせるのは、旧五ヶ国諸侯の血統だし、ましてや廃王の子――しかも最下位の王子だった存在となると、再編された国家での出世は望み薄であろう。

 川向こうの高台には玉の宮殿を頂いているが、従来から繁茂する陰湿な近衛のごとき森林によって、その灯も隠匿されている。その斜面に見えるのは、最近になって落成したと言う商工サロンなる屋敷の放つ橙色の点である。一度は訪れてみたいものだが、あれこそ辺境に出自を持つ二世にとって縁遠い存在であった。

「莫迦らしい、さっさと帰って寝よう……」

 どうせ明日は非番なんだ。しばらくは害悪と化した蛇蝎の如き連中に遭わずに済むし、役所から借りる刃物を振るわず休める。ささやかに革靴で木目細かい砂を蹴り飛ばしながら、男は全体的に捻じ曲がっているような建付けの住居の玄関に入り込んだ。入口で番をする寝ているのか醒めているのか曖昧な老女に簡単な挨拶を済ませ、その横にある階段を昇っていく。二階の細長い廊下に出ると、今度は鼾の聞こえる手前の扉を過ぎて、廊下の一番奥まで進む。二世は廊下の最後に位置する黒い戸の前に立ち、開錠してノブを回した。

 どこか黄ばんでいる漆喰を施した壁に囲まれた空間は狭い物であったが、男一人が生きるには充分な広さだ。まず安い本棚には元々志していた世連を含む各国情勢を横断して俯瞰する参考書の類こそ残っているが、最近になって読み始めざるを得なくなった珍妙で仕事で役に立った事がない呪学なる眉唾物の書籍にされている。嫌になって眼を反らすと、独特な臭気を放つ香辛料と食塩に塗れた肉塊がテーブルの上で、紙によって四重に保護されていた。地下の氷室に入れるのも手であるが、金が余分に掛かるし、この季節ならまだ保つ。こいつを千切って毎晩喰っているが、今の二世にそんな元気はなかった。このままでも明日の朝まで問題ないだろう。

 歪んでいる床に荷物を置き、外套を脱いで、半世紀保管した乾パンみたく硬い寝台に尻を置いた男は、このまま寝てしまおうかと悩んだ。片付けたい仕事もある。しかし、休日くらいゆっくりしたい。背広のまま寝転んだ二世は、睡魔に身を委ねようと考えた。

 そんな時、戸を叩く渇いた音がした。男は嫌な予感がした。

「誰です?」

 大声を張り上げて、そう言った。これが大家による壮大な愚痴であれば良い。しかし、応答は下宿を管理している小うるさい老女のガサツで弱々しいアルトとは似ても似つかぬ、逞しく鬱陶しいバリトンであった。

「磁場峠末席子殿、実はわたくし、内務局より伝言を預かっておるのですが……」

 相変わらず仰々しくて嫌な渾名だ。継承者として末席を穢していると自覚はしている二世は、相手方の発言にひそめながら、その内務局職員とやらの低い肉声による言い分に耳を傾けてやった。

 戸の向こうの官吏の使いが言うには、ここ数週間前に落成したサロンに奇妙な人物が出現してしまっているというのである。その問題の対象は、鴉らしく何でも巣造りをしているようで、周りの家具やら食器類やらが使い物にならなくなってしまっているそうだ。よくそんな事で鴉だと分かるなと二世は感じた。さしずめ、パーティ中に押し掛けてきて、相手方が好き勝手やったのだろう。だから、そいつの姿を見た、士官や官僚たちは妖化を疑ったのだろう。それで、妖括に連絡を遣すのはまだ理解できる。しかし、なぜ、こんな夜中に俺なんかを呼んだのだろう。

 親譲りの逞しい妄想も程々にして現世におけるバリトンの発言に注意していった。

「――何とか退治願えませんか?」

 できる事ならば、これから惰眠を貪って、この役に立たなくなってきている肉塊と脳髄を休ませたい。

「私は構いませんが、直属の上司の承認を得ないと、動けません。その事、いかがお考えで?」

 二世は何とかそんな事を言ってみた。しかし、秘密主義が強い六爵で構成される幹部連中が男の頭上に居る以上、連中が何を考えているかによって、この戸の向こうの者の頼みを呑むのかどうかが決まってしまう。だから俺に聞くだけ無駄だと頭で毒付きながら、バリトンの出方を待った。

 そう言えば向こうの男は内務局と言ったな、それを思い出し、またしても二世は嫌な予感がした。

「既に統括部の長官や部長にも裁可をいただいております。お手数ですが、戸を開けてもよろしいですか?」

 拒めば後々面倒だ。実際に戸を開けると、既製服に身を包んでいる堅苦しそうな青年が居た。確かに名札と徽章を付けているし、眼の下に隈があった。そいつは右手に書類を有している。書面には見慣れた書名と捺印があった。ようやっと男は拒めない物である事を理解した。



「――すまんな、こんな夜中に呼び出したりして」

 見るからに40度は下らないであろう琥珀の空酒を注いだグラスを傾けながら、焦げ茶色の木材と上物の漆で統一されている統括部長のデスクに座る堂々たる髭を所有する内務卿は悠々と二世にそう言い放った。気付とは言え敢えて高い酒を選んだなと思う。輔弼卿の周囲はこう言った空宙贔屓が多いのだろうか。退勤時刻をとうに回っているのに、部長室に呼び出される事になるとは思いも寄らなかった男は、肉体の限界を感じながらも、脳から身体に適度な緊張を与えつつ、その発言に傾聴していた。

 と言うのも、その場には閣僚の一人とこの二世だけが居る訳ではないのだ。内務卿が来部する以上は、二世の隣には部長が来なければならないため、ただでさえ気が抜けない木目調の重厚な空間は益々張り詰めていく。しかし、直属の上司――内務局の重鎮が目の前にいるせいもあって、部長は何時になくヘコヘコとしていて情けなく見える。普段は無茶な注文を吹っ掛けてくるので、いささか胸がすく。だが今度は内務卿によって難題が発注される。

「……心中、お察し申し上げます。恐れながら、内務卿の御心配は御もっともです。あの落成間もない財団所有の商工サロンが、よりにもよって、どこの馬の骨とも分からぬ不逞の何某によって占拠されているなんて、文屋風情に素破すっぱ抜かれてしまっては、補助金を出した我が帝国政府にも大打撃を与えかねません」

 部長の胡麻擦りに二世は吹き出しそうになった。いくら何でも誇張し過ぎだ。

「――それに最近は、鴉の怪物が、陛下いまそかる我が光子河中流域に出没して、強奪、襲撃、棄損、破壊、……その他諸々の重軽犯罪を為しているのですから、速やかに退治しなければならないでしょう」

「……そこで君の出番なんだよ、プロタゴニスタ二世」

 この未発達の首都に移り住み、公職を執るようになってから久しく聴いていない名前だ。しかし、その後に続く内務卿の評には賛同しかねる部分が多かった。例えば「今日だって松林で大馬陸を退治したのだろう。あれ程の呪術が為せるなら適任である」と言う発言。あれくらいなら統括部の職員であれば誰でもできる。磁場峠一族傍系の末裔なんぞに出自を持つ、地味な昆虫・多脚類課の職員なんて物は、仮に失敗しても後腐れのない逸材だ。だから指名されたのだろう。

「……数値は既に居合わせた職員によって確認が取れている。とにかく君には、あの屋敷に棲み着いてしまった鴉を退治してくれ、そうでもしてくれないと……」

 そこですかさず部長は保証すると言ってきた。

「商工サロンは確実に取り返しますよ。彼の手に掛かれば、明日の明け方にも奪還するでしょう。……そうだろう、二世くんっ」

 部長は男を睨みながら確認してきた。彼も大変なのだろう。欠伸あくびを噛み殺しながら、二世は渋々同意してみせた。

「えぇ、まあ。できるとは……思いますが……」

 できる事なら言いたくはない事を言いながら、相手の顔を一瞥すると、満足とも不満とも付かぬ感情の欠片もない不気味な無表情で部長は佇んでいた。内務卿は、両議院での答弁よろしく、だんまりして眼を閉じていた。これでは心情なんぞ推量できない。

「それは良い。では、直ちにここを発って、問題の屋敷に向かってもらうよ」

 やはり部長も無茶な注文をしてきた。油断も隙も無いなと感じながら、男はこの狭く重苦しい息の詰まりそうな空間から退出する事に決めた。最低でも道具を二つ、三つ揃える必要もあったからだ。

 無機質な廊下を力なく進んで行くと、途中で調子が良くて口調の悪いバスが聞こえた。聞き慣れてきたが、未だに慣れない安定島出身の先輩の声だ。

「よぉ、磁場峠。ここで合うとはな」

 ここで長話に興じては仕事にならない。そう思った男は、会話を発展させないように発言していった。

「突然呼び出されたんですよ、何でも鴉退治だとかで」

「……ふぅん。君も大変だなぁ」

 まったく他人事だ。もっとも相手は鳥獣課員だから、それも仕方ない事だ。頑張れよと言って、その場から立ち去っていく海際から来た先輩の姿を後目に、備品置き場へ向かう。なぜ先輩が指名されず、こちらに回ったのだろう。やはり、俺を試しているのだろうか。そんな事を考えながら、鉄の戸を開いて行く。置き場と言っても、実態は職員ごとに振り分けられているロッカーが並ぶ無機質な部屋である。自分の名が刻まれた鉄の箱の前に立った二世は、手元の鍵を差し込んで開錠した。



 官舎街は中州を改修して創り上げられている。今も工事は完了しておらず、計画されている19の庁舎は、まだ5つしか揃っていない。しかも、その殆どが仮庁舎として別庁舎を間借りしている状態だ。ロッカーに入れた筈の備品を紛失してしまった俺の生きているうちに全部完成するだろうか。眠気をはらうために、そんな事を考えながら、統括部を有する内務局と行政監査局、出納局他三局が入っている第三庁舎を出発した男は暗くなった発展途上の事務所と空き地、工事現場の混在する通りを通過して、宮殿に向かう参内橋の袂に辿り着いた。一旦下宿で態勢を整えるなどして、ようやく着いた。これを渡れば世俗に振り回される官衙島ともお別れである。

 目的地であるサロンは、表向きは某富豪が持つ不動産である。しかし、内務卿の出現が物語っているように、実態は迎賓館となっている。官舎すらまともに造れぬ以上は止むを得ない措置であると考えるが、そこまでの国力もないと痛感してしまう。

 頭脳を活性させるべく、そんな考えるだけ無駄な事を思案しながら橋を渡り切る。宮居台地の斜面をひた走る道へ右折し、直進していく。周りは鬱蒼たる原生林で街灯の設置も間に合っていない。宮殿の周囲は未だに改修が入っていないのである。畏れ多いのもあるが、そんな事よりも粒子河新運河や二世の故郷に設けられている第二退却路、電場湖貯水池、同定平原宇宙港などのInfrastructuresの整備がまず優先されている。薪や炭も重力谷や特異山のふもとで賄えている。この界隈の木々は今の所は切る必要もなかった。官舎もなければ、人家もない森林を歩いて行った。バサバサと言う翼を広げる音がしてきたが、仮にそれが鴉に依る物だったとしても大げさな羽ばたきである。妖化したなら巨大化するのは、ある種セオリーに適うと言えるが、必ずしもそうなるとは言えない。稀に人型に変じる個体もあるらしいが、二世は未だに見た事がなかった。

 不気味な羽音を後にして進んで行くと、林の向こうに煉瓦積みの屋敷が見えてきた。とうとうサロンに着いてしまったようだ。上司や内務卿に毒付いてきた流石の二世も息を呑む。誰もいない筈の建物の二階の窓に赤い灯を見たのだ。灯油にしては赤過ぎる。あんな気色悪い屋敷に入って行くのか。思わず背広に手を突っ込んで、胸元に仕込んだ物を確認してしまう。しかし、これは使ではない。

 とにかく、あの中に入り込んで「鴉」を退出させる。それが与えられた仕事だ。それさえやってしまえば、休みが取れる。全く有難い話だ。男はそう考える事にし、一旦、身を寄せていた大きな草叢から出て、屋敷の入り口にゆっくりと近づいて行った。

 来賓を歓迎するための正面玄関は鉄製の柵で彩られている。新品の筈が蔦生え錆が目立つ。監獄みたく妙におどろおどろしい。本当に数ヶ月前に完成した建物なのか。おそらく相手は妖化してしまっているような気がした。でなければ、こうも怪しく屋敷を飾る事など不可能だ。……場合によっては長期戦になるかもしれない。

 内務卿から貰った合鍵で柵の内に入り、玄関前のポーチに昇るための階段をギシギシと履み付けていく。とうとう屋敷の入り口に着いた。舶来物を真似てか、ご丁寧にノッカーまで付いている。景気付けに叩いてやろうか。気を紛らわすべく、そんな阿呆な事を少し考えていると、恐れていた事におのずから扉が開いてしまった。

「どちらさんで?」

 テノールと言う程でもないが僅かに高い声を放つ。相手は若く頬に染みがあり眼鏡を掛けた男だった。

「……帝国政府内務局直属内国妖霊統括部下級十等官職員、磁場峠末席子プロタゴニスタ二世です。長ったらしいんで、二世と呼んで頂いて結構です」

 気怠さを感じながら、お決まりの台詞を言う。初対面の人間は二世の本名と肩書をまともに言える筈もなかった。

「……ないこく、とうかつ、ぷろ何だって?」

「ですから二世で結構っ。それよりも、わたくしは、ここに調査へ来たのです。聞くところによりますと、何でも、この屋敷に珍妙な生き物が棲み付いてしまっているとか、何とかで」

 若い男は染みのある顔を渋らせてきた。第一、土埃が生地の表面に目立ち、所々にぎが為されている服飾に身を包んでいる物が迎賓のための施設から出てくる時点で実に怪しい。スラックスのポケットに忍ばせている中古の一時停止器Stopperの龍頭を捻った。これは雑魚だ。刺すまでもない。

「その、お手数ですがね、先生。この館に、そんな妙な物はいませんよ。それに居たとしても、すぐに一報をお送りしていますし……」

 そうでしたか。軽くあしらう様に男は玄関を塞ぐ若いボロ衣の男へ応答して、ポケットから懐中時計の形をした器械を取り出し、時計盤に相当する部分を見せつけた。親指で滑らかな龍頭を押し込むと、玄関の障壁であった若い男は、眼をカッ開いて硬直し、立ち尽くしてしまった。そうして背中が膨らみ、多脚類を思わせる甲羅の如き文様を放ち始めた。

「……ご協力どうも」

 古い機器だから効力は六十秒しかないし、今度使えるまで3時間も掛かる。こんな所で使うべきでなかった。手順をしくじった事を後悔しながら固まった彼の横を手っ取り早く通過して、二世はサロンの内部に入り込んで行った。入口のあれは鴉じゃない。多分蜘蛛の類だろう。正面口から廊下に至る過程は、新しい羅紗で作られた赤絨毯や手の込んだ木工の白色照明、幾何学が駆使された壁紙、暖色の花瓶によって彩られていたが、全体的に明度が低く、優雅なる準官製物の雰囲気も、荒廃と没落を想起させる不吉な予感を漂わせる事となっていた。

 ……一度は行ってみたいと思ってはいたが、これでは面白くない。倦怠感に抗うように、懐中電灯を用いて、第三庁舎で渡された図面を見る。大小様々な部屋があるものの、一際重要と思われる空間が書き込まれていた。

「あの奥がメインホールだろう」

 サロンだ何だと言っても、結局は箱物である。何事にも転用可能な舞台であり、一番広い空間だ。巣造りに持って来いの場所である筈だ。重厚な木製の扉に手を持っていき男は、一気にホールの入り口を解放した。暑からず寒からず、丁度いい温度であった。

 本来なら宴会や講演を目的とした部屋であろうと思われたが、中にあった筈のテーブルや椅子は悉く破壊されて、巨大な枝に見える木片となっていた。そんな木片の数々はホールの中で互い違いに編み込まれて、不格好な構築物となって別の構築物と結合している。この破壊された木製品によって生成された構築物群の様相は、実にすり鉢状で、どことなく、鳥の巣を思わせるフォルムとなっていた。もう少しサロンを散策して、心の準備をしておくのも手であったかもしれない。二世は少し後悔した。ゆっくりと引き返えそうかと思った瞬間、天井付近から声が聞こえた。

「……いらっしゃい」

 若いソプラノだ。益々面倒臭い事になってきたと男は感じた。

「表に蜘蛛助を立たせていたけど、あなた、あの子に乱暴でもしたの? こんなところに来るなんてね。まあ、さっき見た制服の人よりも度胸はあるようだけど。――あの人、あたしの姿見たら尻尾巻いて逃げたのよ、まったく可笑しなことよ。ご婦人方残して、真っ先に逃げていったんだから――」

 左右上下を見回して、ようやく声の主を見つけた。この大会場は二階部分が吹き抜けになっていたのだ。その二階、テラスとも言うべき装飾に腰を置いている若い女が居た。黒い時代遅れのドレスを着ている。材質も良くない。所々糸が解れているのか、布地がゴワゴワしていて、今にも彼女の服飾の三分の一が脱落するのではないのかと心配になってくる。異星の動物を紹介する図鑑で見た北洋地域を飛ぶと言う渡鴉を思わせる、ボサボサな恰好で、これが化鴉なのだろうかと首を傾げたくなった。

「見た所、あなたは見掛け倒しの男ではないようね。見張りをさせていた蜘蛛助に何したのか知らないけど、それらしい事情があれば、ジョージョーシャクリョーくらいはしてあげる」

 多分あの奇怪な背中を持つ若い男の事をそう呼んでいるのだろう。「情状酌量」の発音がどこか覚束ない感じられる彼女の発言を聴きながら、二世はゆっくりとホールの中央に歩いて行った。

「……とにかく、ここに居座っていられては困るのですよ、お嬢さん。この屋敷は、かの潔白を売りにするクローリン・カルキ財団の所有物。それを正当な手続きなく占拠するのは、十大科条法典に……」

 そこまで言うと、黒い衣服の女は二階のヘリから立ち上がり、一気に一階の床へ落下してきた。巨大な両翼を目いっぱいに広げて軟着陸を決め、官吏の眼前に迫った。あどけない顔だ。しかし、顔をしかめていて、怒っている事は確かだった。

「ふんっ。いやぁよっ、そんなものっ。……あたしが知らないうちに、あんたたちが勝手に色々な物を作った癖に……。これじゃあまるで騙し討ちよっ。あたしたちだって、ようやく住処を見つけたんだから……。悪いけどね、あたしたち、もうこれ以上苦労したくないの。それに――」

 そこで彼女は話を切った。どうして発言を止めたか分からぬが、何にせよ、全く理屈の分からぬ強情で、どこかいたいけな鳥だ。だいたい、法整備は世連率いる顧問会と他局のやった事だ、言い掛かりも甚だしい。これなら午前中の馬陸の方がまだマシかも知れない。……いや似たような物か。とにかく疲労を覚えている二世は、目の前の若い村娘のように無智で強情な鴉を、面倒に感じた。何となく嫌な予感がしたが、話を促してみる事にした。説得の余地があるかもしれないからだ。

「それに?」

「ここの人たちは贅沢でね。ごみって言っても、まだまだ食べられる、しかも調理済みの御馳走が大半を占めているし、それに、こんなに良い木材があるんだもの。巣を造る場所としてこれ以上の場所はないわ。だから、ここに巣を創る事にしたの。――それが、何か問題でも?」

 あまりに発想が違い過ぎるために二世は閉口しかけたが、解決の糸口を探るべく、官吏は、とにかく会話する事にした。これ以上の労力を費やしても疲れるだけであるからだ。

「まあ、賢いやり方ではあるだろうな。……しかし、それで迷惑する人だっている。法律だけじゃない。ここの所有者、利用者にだって害が生じる。そこまで分かっていて、ここを独り占めにするのかい?」

 おそらく化鴉と思しき彼女は応答に窮したようで、全身をブルブルと震わせてから、キッと睨んで回答してきた。

「……そうよっ。それにしても役人のあなたも大変ね、そんなバッジと腕章付けさせられて、こんな……。待ってっ!」

 二世の出で立ちを舐め回すように観察してか、整っていない黒いドレスの若い女は、男にこう問うた。

「――あなた、ヨーカツの職員でしょ?」

 彼の勤め先の略称を知っているとは、やはりこの鴉、午前中の馬陸よりも知恵があるようだ。胸元の徽章でそう判断したのだろうか。

「妖括?」

 一度はトボけてみせたが、滑らかな発音が駄目だった。整っていない洋服を忙しなく動かしながら、火の油を注がれてしまった彼女は、ヒステリックに話した。

「ちゃんと答えなさいっ! さもないと、ここにあった椅子みたいにするわよ」

 少しだけいじらしいから観念したい所だが、それらしい事を匂わせる程度で納めたい。明言を避けるように男は喋った。

「……どうして、統括部の職員だと思うのです?」

「やっぱり……。その金色の下品なバッジ、奇抜な腕章、前にも見た事がある。あたしがここに来る前の事よ、お師匠さまが連れていかれた時の事、その時、お師匠さまを攫っていった人にそっくりの格好よ」

 唐突にそんな事言われても記憶にない。仮に彼女の経験がただしかったとしても、当時の職員の動きがどうだったか分からない。そもそも、何でこんな話をしてくるんだ。二世はやや混乱し、頭痛を感じ始めた。

 そのせいもあって、初動が遅れてしまった。化鴉はズカズカとヒールの傷みそうな音を響かせて、こちら方に接近してきたのだ。

「ねぇ、あたしのお師匠さまはどこかご存じ? ねぇ、言ってくれない?」

 男には、この目の前の疲弊したドレスの女が、どことなく思慮に欠けているように見え、短絡的に感じられた。妖化して数年も経過していない個体なのだろうか。二世の服装が破損した格好の彼女を刺激してしまったのだろう。両肩・背中に隠していたのか、巨大な両翼が出現した。人の背丈は優に超える羽だ。俺をどうする気なのか、男は好奇心を抱いたが、すぐに次の行動について考える事にした。

 そこに、玄関の若い男がドタドタと足音を立てて出現した。やはりあんな場面で一時停止器なんか使うべきじゃなかった。

「ことりちゃんっ、そいつ時止めするぞっ! 用心しなっ」

 良い感じに誤解してくれて有難い。小鳥と言うよりは成体の翼を有する若い女の姿を見ると、どこか顔面が紅潮しているように思われた。

「あたしのこと、ことりって呼ばないでよっ、蜘蛛助っ。……それから、聞きたい事があるんだけど、トキトメって何?」

 この二体が取り留めのない夫婦漫才に興じている今の内に、二世は懐に右手を忍ばせて、能力が劣るが威嚇にはなるだろうと考えながら、蜘蛛野郎に用いた器械とは異なる別物の柄に手を掛けた。

「そこっ!」

 気が付かれた事に気付いた時には、もう遅かった。途端、男の目の前に黒く巨大で僅かに物々しい翼が襲来し、二世の顔面に直撃した。視界には痛々しく抜け落ちたであろう羽根が散乱している。官吏は全く小鳥の為せる技じゃないなと不満を感じながら柄を握り締め、視界が暗くなるのを知覚していった。



 ――気を保て。松林の奥には見るからに気色の悪い多脚の生物、大馬陸が居る。現場に入る前に行った簡易測定でも異常値を出している。どういう理屈か、妖化するとこうなる個体もあるらしい。それにしても気持ちの悪い目標だ。千足と書く事もあるらしい白色系統の節足動物は、凝視するだけで精神的な負担となる。眼を背けたくなる衝動に駆られながら、二世は目視で捕捉を続けた。ここに来る前に張りのあるバリトンで掛けられた言葉が思い返される。

「……いいか、磁場峠。奴の体にある黒い『関節』だ。そこを重点的に狙えば……」

 出発前に、ああ言う虫けらを殺り慣れている安定島出身の先輩が、郊外の山々にまで響く荒々しいバスでもって軽々とアドバイスしてくれたが、未だ呪物である純銅のダガーの扱いに四苦八苦している以上、難航するのは明白だ。

 飴細工のように繊細に見える二本の触角が、気味悪く回転運動を繰り返している。千の足が地面を蹴り上げて、光沢のある白に近い胴体が松の間をすり抜けていく。肉食の百足でなく、草食で良かったが、これでは大差ない。

 若い松の木を倒し、苗を駄目にする問題の大馬陸は適当な大きさに成熟した松の木を見つけて得体の知れない無数の歯を有する顎で幹を咥えて、バリバリと音を立てて咀嚼していく。これで23本目だ。あんな物を多量に喰った以上、食後は数時間程度持ち堪えるだろう。もう、こんな隙もないだろう、今が好機だ。

 出来れば視野にすら入れたくなかったが、俸禄と徽章がある。二世は精神衛生に害を為してくる巨大化した節足動物に立ち向かった。と言っても背後を襲うだけの事である。

 粘り気のある樹液を啜る音と、身の詰まった木片を齧る音が合わさって鬱陶しい。後には引けない。男は跳びかかる事にした。手物の刃物を関節に差し込む。それだけの筈だった。しかし、幹から枝先、付け根から一葉に至る過程にあった筈の馬陸は二世に気が付いた。目標は体を捻ったようで、ダガーの照準に定めていた黒い関節と思しき箇所が、鎧の如く硬い甲羅とも言うべき部分に変わってしまった。刺さった事に変わりはないが、感触は鈍く、馬陸の動きを封じたようにも感じられなかった。刺さった刃物を手掛かりに、二世は馬陸の体にしがみ付いた。

 速く走ったり、低速になったり、急カーブなんぞして問題の巨大生物は、彼を振り払おうと試みたが、とにかく逃がしたくない官吏の男は、ただ懸命に甲羅に付着し続けようと、四肢を駆使していた。そのうちに、動きが鈍くなり、馬陸の動きが止まった。次はどうなるか、そう考えた瞬間、目標物は体を一周させるように捻って、その顔面を男の前に見せてきた。

「……おまえ、こんなれを追いかけてどうする気だ? 所詮、儂は松の木を喰うだけの存在だ。人畜を平気で襲う百足風情とは訳が違う……」

 相変わらず気色の悪い顔面を二世の真ん前に呈した大馬陸の周囲から、そんなバスを思わせる重低音が聞こえた。

「松林の管理者から、あんたを始末してくれって頼まれているんだ。それが、俺の職なんだ」

 低い声を放つ既智から外れた馬陸は少し身をよじらせて、これまた低い笑い声を発してきた。

「ははははは、酷い職だな。どうせ王族崩れの官吏と言った所か。汚れた仕事なんぞしている以上、出世せんだろう、ははははは……」

 そんな数十年の重みを有して響く笑い声が空中にこだました。



「――あはははは、他愛ないわね。ちょっとだけ、ちょっかいをしただけでびちゃうなんて」

 その声が急に高く綺麗なソプラノに変化した気がした。――虫と鳥では訳が違う。そんな事を思う内にすかさず、テノールと思しき音声が差し込んできた。あの蜘蛛だろう。

「そうだろうな、ことりちゃん。案外大した事のない奴だったな。結局は道具に頼らざるを得ない、詰まらない官吏に過ぎないんだろう。しかし、あっけないもんだなぁ……」

「だから、もうことりなんかじゃないって言ってるでしょっ」

 背中が出っ張って、いよいよ原型を留めなくなっている男が二世に近づいて行った。脳震盪と疲労、眠気のせいだろうか、意識は未だ混濁の中にある。黒いドレスを身に着けた可憐な妖女と、従者のする簡素な平服を身に着けた不気味な青年、この二体が妖化した個体であるのは確かだ。所詮はあの馬陸と同様の存在だ。だからこそ面倒な存在なのだ。

「さて、手荷物の拝見といこうか……」

 そう言って蜘蛛助とやらは、二世が手を突っ込んでいる制服の懐の箇所に手を伸ばしていった。



 二世は、今刺さっている銅のダガーを引き抜いて目前の怪物に赤色のやいばを見せつけた。

「この青二才、言っておくが、儂を刺した所で、儂は消失せんぞ。仮に死んだとしても、それは、お前らが言う一時的な物と言う奴だ。いずれまた、お前の前に現れて見せよう。さあ、殺して見ろ。この若造が」

 そう言って、気色の悪い多脚類は背伸びでもするかのように、顔面付近を脚力と身体の筋肉で持ち上げて、無数の脚の付け根を男の方に見せつけてきた。百足が襲い掛かる際に尻尾を挙げるような物で、その応用で頭部を持ち上げたのだ。大した事ではない。しかし、人間で言う所の心臓付近に相当しよう。そこに、このダガーを突き立てれば……憶測ではあるが、きっと活動を永久に停止してくれるだろう。

「はん、そんな玩具みたいなナイフで儂を倒す気か? 阿呆らしい。そんな弱々しい代物で斃れる程、やわじゃないわ!」

 どいつもこいつも、この銅製の刃物を過小評価して困る。しかし一番困るのは、こいつを刺されてしまう方である。銅のダガーを刺された者は、妖気の一切を失って、生命力も微々たる物となってしまう。もう一つの方は、もう少し加減される武器であるが、侮辱してくるこいつに温情を掛ける筋合いも無かろう。お望み通り、男はしなやかな銅のナイフを馬陸の身体にある黒い関節とも言うべき箇所へ突き立ててみせた。

「はっ、なまくらと言う奴だな。痛くも痒くもない。第一、柔らかい銅で作っているせいで、ちっとも……、ちっとも……」

 刺した途端に馬陸の声がかすれ始めた。純銅のダガーを引き抜いた二世は、その姿を観察した。そうして体がブルブルと震え出し、見る見るうちに縮み始めた。最早、声は聞こえない程に小さくなっている。

「巨大なままで殺すとなると、後で生ごみの始末をしなければならんからな、元の矮小な存在に成り下がってくれた方が、色々と処理の都合も良いんだ」

 馬陸の顔面にある複数の眼が、一斉に二世を睨んだと思われたが、すぐにその熱も醒め、体長5センチにも満たない、ただ気色が悪いだけの節足動物になってしまった。あの赤銅の器具が有する殺傷能力は僅かな物であるが、少なくとも虫の息だろう。嫌らしい妖括職員から逃げようと努めているようだが、動きが実に遅いであるからだ。二世はそこら辺にいる虫けらと何ら変わらない馬陸を安物の革靴で踏み潰した。



「ぐっ、こいつ、なんて事を……」

 しまった。咄嗟の行動だった。男もこんな芸当が為せるとは思わなかった。しかし、意識が完全に回復している訳ではなかったようだ。よく見るとダガーは銅ではなく、鉄製だった。

「まずいっ、違う刃物だったんだ。……参ったな」

 ロッカー内にあった筈の純銅の刃物が無くなっていたために、取っ手が冷たく純鉄のダガーを持ち出していた事をようやく思い返した二世は皮膚から流出したであろう緑の血が付着した白金色の刃物を一瞬だけ見つめた。

 妖化していた蜘蛛は、体をよじらせて、その場に力なく座り込んでしまった。

「蜘蛛助っ! あんた蜘蛛助に何したの!」

 化鴉はどこか悲痛な叫び声を呈し、崩れかけている黒いドレスを靡かせながら、ダガーを持つ官吏に近づいていった。今まで隠していた蜘蛛らしい脚を背中の部分から放出し、見る見るうちに人型から多脚類形に変容していった。大きさも変わり始めていた。しかし、容姿とサイズの変化がどこか鈍く、先の大馬陸の時とは違って、中途半端な印象を受けた。

 いきなり、二世は鴉に胸ぐらを掴まれた。

「何したのか言いなさいっ。彼に何をしたの!」

 力強い腕に睡魔もたじろぐが、未だ気怠さを感じながらも男は、呪物で刺したんだ、ただ、使ったのがまじないの能力が低い代物だから、完全には妖化状態から脱していないのだと、言葉少なげに説明した。

「……ことりちゃん」

 鼠くらいの大きさに落ち着き、蜘蛛ともヒトデとも見分けが付かぬようなルックスになってしまった蜘蛛助は、声を発した。

「……慌てなくても良いぜ。このスットコドッコイ、どうやら呪いに失敗したらしい。少し妖気が殺がれちゃったけど、問題ないさ」

 今にも倒れて寝てしまいそうな二世は、苦虫を噛み潰したような面持ちで、小さくなった蜘蛛助を見た。

「あなたって、ほんとひどい人っ。あたしの故郷の人たちの方が、ずっと優しいわ」

 思うように体が動かなくなってきた官吏は、何とか愛らしく怒る女の方に向き直った。まだ翼で叩かれたダメージが残っている。使うべき武器もまともに使えなかった以上、もう戦うだけ無駄だろう。

「すまない……」

「すまないじゃないでしょう? そんな事で済まされはしないわ。蜘蛛助を元に戻してくれなきゃ、許さないわよ」

 どうやって戻すか。下宿の本棚を読み返して調べようか。そんな考えが頭にぎった。

「戻す方法は、きっとあったと思う。ただ、面倒な手続きになるな……」

 欠伸を噛み殺しながら、そう言った。思えば、まだ一睡もしていなかったなと、二世はようやく自身の体調を思い出した。

「こいつ、真剣に考えてないぞ」

「考えてる。ただ、私の家にある書籍を当ってみるか、統括部のデータを覗くかでもしないといけない……」

 そう言って二世は自身の下宿に身を寄せて探してみないかと言った。助けたいからではない。この誘いがうまくいけば、無血でサロンを奪還できるし、彼も数時間くらい早く休む事ができるのだ。化鴉がこの条件を呑むのかは分からないが、従者を元の姿に戻す簡単な方法だと言えば、ある程度は納得するだろう。――正気か。――まあ、利用する価値はあるでしょうね。少し意見を交わしてから、荒れた巣の中で化鴉は回答していった。



 その日、計画途上の官庁街に遡上して報告書の提出を終えた男は、役所の廊下で声を掛けられた。

「――お手柄じゃないか、磁場峠。サロンを一日で取り返すなんてな」

 安定島は海上で物をやり取りするからか、先輩の発声するバスには力強い張りが感じられる。しかし、どこか陰湿なとげのある言い方をしてくる。二世は謙遜しながら、相手の出方を窺った。統括部には平気で揚げ足を取る者も居るからだ。

「我が『公式日報』や、大衆に人気のある『アジテート通信』にも小見出しながら、君の活躍が乗っているぞ、凄いと思うがねぇ……」

 そう言って先輩は、紙面を広げてサロンの顛末が書かれた箇所を見せてきた。「重力谷の妖嬢、一職員によつて退散」とある。これでは何も分からない。公報紙Gazetteはともかく、穢鏡に忠従しても汚濁が待つだけだ。男は黙ってそう考えた。

「……まあ、先の時空戦争でまじないも色々失われたからな。少しはこういう記事を書いて、無くなった訳ではないと言う事を知らしめたい所なんだろうな」

 ある事ない事書き上げてある紙の束を外套のポケットに収めた先輩は、閑話休題と言わんばかりに深呼吸して、二世にこう言ってきた。

「それで、問題の鴉はどうした?」

 好戦的な彼は二世に迫って、言い直した。

「処分したの?」

 根絶させるには留めを刺すのが原則だ。しかし、今回提出した報告書には、「退去」としか記していなかった。

「……よく聴く気になりますね。部長や内務卿は全く尋ねてこなかったというのに」

「気にする奴も居るんだよ、仕事してないんじゃないかって、陰口叩く奴だっているんだしさ。……君の為を思って聞いているんだよ。で、処理はいつもの通りか?」

 少し目を閉じて、磁場峠の男は一気に答えた。

「そんな所ですね、どうします。ズタズタにして五臓六腑を引き抜いたんで、もう原型を留めていませんが、御覧になりますか。それに彼女、孤児みなしごで、場所の予約と言った手続きが色々と面倒だったので安置所には置きませんでしたけど……」

 そこまで言うと、上等だ、結構だよと一言残して、先輩は廊下の向こうへ去っていった。



「疲れた、さっさと帰って寝よう……」

 先輩に留めを刺さなかった事を感付かれてしまった気がしたが、そんな事、考えても無駄だ。明日も早いんだ。害悪と化した蛇蝎の如き連中に遭わなければならないし、場合によっては、役所から借りた刃物を胸元に忍ばせて虚空へ振り回す破目になる。いつものように、ささやかに革靴で木目細かい砂を蹴り飛ばしながら、二世は全体的に捻じ曲がっているような建付けの住居の玄関に入り込んでいった。下宿の番をする老女に簡単な挨拶を済ませ、その横にある階段を昇っていく。細長い廊下に出ると、今度は鼾の聞こえる手前の扉を過ぎて、廊下の一番奥まで進む。二世は廊下の最後に位置する黒い戸の前に立ち、開錠してノブを回そうとした。

 ……そう言えばあいつらが居るんだったと思い出し、ノブに掛けた手を引っ込めた男は、下宿付近の居酒屋で一杯引っ掛けてこようかと考えた。しかし、初動が遅れた。ドアノブが回って、戸が開いてしまった。

「――げっ、二世。帰って来たんだ」

 ヒトデ型の蜘蛛になったような蜘蛛の怪物が目の前に現れたかと思うと、今度は鴉らしくない白い手がそいつを室内に引っ張っていった。

「ちょっと、蜘蛛助。あたしの分の干し肉、食べたでしょ」

 時代遅れの黒いドレスを止めて、くすんだ茶色のスカートと白いブラウスを身に着けた化鴉の娘が、ぷりぷりと、どこか愛おしく怒っている。

「く、喰ってないさ、ことりちゃん。……気が付いたら消えていただけさ」

 鴉のようでありながら、綺麗な女は、こちらをチラと見て、猫みたく我関せずと言わむばかりに無視を決め込んで、こう言った。

「肉が勝手に消えるわけないでしょう。もうちょっとマシな嘘をついたらどう?」

 夜だと言うのに騒がしい。それに、こいつら一体誰が買った肉だと思っているのか。二世は何とかして目の前で、糸が解れて布地がバサバサと可動してしまうドス黒く古臭いドレスを靡かせる愛くるしい女と、その従者を退去させようと考えた。部長の許可なく備品である純銅のダガーを用いるのは論外であった。そもそもダガーを無くしてしまっている状態なのだ。どう言い訳をすべきだろうか……。

 だからと言って、強制的に退去させると再びサロンの一件の二の舞になってしまうだろう。どうしたものか。

「……提案しなけりゃ良かったかもしれないな」

 あの時に協同調査を打診した後、目の前の二体はやや長く話し合い、そして男の案を受諾した。しかし、おそらく「お師匠さま」とやらを探すために官吏を利用しているだけだろう。末席子プロタゴニスタ二世は戯れる雌鴉しあと小蜘蛛を鬱陶しく感じながら壁に掛けている時計を睨んだ。さっさと先日に交わされたに則って、隣の部屋の長椅子に寝る事にしよう。寝室を占拠して作りやがった不完全な巣などの問題については一旦保留して、休息を取る事を専決した。



 馬陸を潰す時、油分が頬に付着した。同時に声が微かに聞こえた。

「……お前は、儂らを根絶やしにできるかな? まあ、したとて、お前は幸せになれそうもないだろうなぁ……」

 負け惜しみを聴きながら、靴底が油分で潤むのを感じた。松林は静寂を取り戻したが、馬陸が滅茶苦茶にした箇所は蘇らない。……不毛だ、こんな事しても疲弊するだけだ。誰かを助けるくらいの事をしない以上、この状況は愚か、何も変えられないだろうな……。そんな風に、自分のやっている事に嫌気が差してくるが、そんな反省紛いの事をしている暇はない。それに現状を好転させる機会も来ないだろう。成長途中の松の木の残骸を見ながら、二世はどうやって所有者に顛末を説明しようか、迷うのであった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

営巣 一ヶ村銀三郎 @istutaka-oozore

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る