最終話

「いらっしゃいませ。お待ちしておりました」


 喫茶店の中に入るや否や、マスターは以前と同じように声をかけてきた。

 ずぶ濡れの身体から水滴を飛ばそうと思ったけれど、店内であることを考えて止めておくことにしよう。以前同様、私以外に客はいないが、最低限のマナーだ。


「すぐにタオルをお持ちしますので、少々お待ちください」


 マスターはそう言って、裏へと下がって行った。気遣いはありがたいけれど、猫の姿の私には、上手くタオルを扱う自信がない。


「お待たせしました」


 素早くバスタオルを用意したマスターは、私の前でそれを広げ床に敷き始めた。


「私が身体を拭いて差し上げても宜しいのですが、それはあまりにも失礼。大変不格好となってしまいますが、このタオルの上で身体を寝転がせば、水分を拭き取るが出来るでしょう」


 なるほど。確かにその通りだ。


 手で持って拭く、という動作が身体の中に染み込んでいて、別の発想が出来なかった。いくら雨に打たれても、人間目線の思考は流れ落ちてくれはしない。


 私は、マスターの提案通りバスタオルの上で何度も寝転がり、濡れた身体を乾かすことにした。恥ずかしい思いはあるけれど、慣れてくると以外に楽しくなってきたりもする。


 やがて、豆の香ばしい香りが私の鼻腔を刺激した。


 匂いの正体はすぐに分かった。当然だ。ここは喫茶店なのだから。


「いい香りですね。ですが、残念です。コーヒーは猫の身体にとって、あまり良くないですから」


「それは、通常のコーヒーの話ですよ。私のコーヒーは特別です。傷にだってよく効きます」


 にっこりと微笑むマスター。その笑顔に引き寄せられるように、私は空いた丸椅子の上に飛び乗った。顔の傷から滴り落ちていた血はいつの間にか止まっていたようだけれど、傷があることを改めて認識すると少し痛みが出てくる。


「猫舌対策として、アイスコーヒーにしておきました」


「ありがとうございます。助かりました」


「そんなに喉が渇いていたのですか?」


「いえ……、いやまあ、渇いてもいるのですが。もし、この喫茶店が見つからなかったらどうしようかと思っていました。行く当ても無くって――本当に助かりましたよ」


「見つからない、なんてことはありえませんよ。私は、貴方を待っていたのですから」


 さあ、どうぞ。マスターはそう言って、テーブルの上に置かれたアイスコーヒーのグラスを軽く押した。その動きから派生するかのように、私はグラスの中に頭を入れて、ペロっとコーヒーの表面を舐めとった。


「美味しいです。とても」


「ありがとうございます」


 静寂が流れる。


 外の雨音すらも消し去って、私の心の中も無音に変わっていく。何を考えて、何を思って。それらが全て余計なノイズであったかのように、静かな時が流れ込んでくる。


「何も、聞かないんですね」


 久方ぶりの音。


 時間にすれば数分ぶりなのだろうけれど、私にとっては懐かしく感じられた。


「そうですね。聞いてほしい、そんな顔をしておられませんので」


 マスターは、表情を変えない。いつもと同じ、穏やかなままだ。


「すごいですね、その通りですよ。聞いてほしい、なんて思っていないんです。ほんの些細なことですから。わざわざ、聞いてほしい、なんて思ってしまったら嘲笑の的ですよ」


「そうですかね。受け取る相手次第のようにも思いますが」


「マスターは笑ったりしそうにないですもんね」


「他者を笑えるほど大層な者でもないので」


 マスターのそれは謙遜なのだろうか。もし、本気でそう思っているのなら、私などどれほど小さい存在になってしまうのだろう。顕微鏡で見ることすらも、出来なくなるかもしれない。


「お願いが、あるんです」


「分かっています」


「猫になってまだ一月ほどだというのに……、ほんと、情けないですよね」


「情けないことが悪、とも限りませんよ。時には、勇敢であることが間違いだったりもします」


「救われます」


 カチャカチャと、マスターはコーヒーを淹れる器具を用意し始める。先程だしてくれたものと同じドリップ式ではあるのだけれど、わざわざ別なものを用意するあたり、生転換用の特別な器具なのかもしれない。


 以前はそんなこと気にもしなかったのだけれど、今回は少し視野が広がっているのだろうか。


「確か、全部で三回でしたか」


「ええ、そうです。それ以上は転換出来ません」


「何故です?」


「さあ。まあ、知っていたとしても、あまり意味のないことではないでしょうか」


 そんなことはないだろう。生を転換できるコーヒーの仕組みが分かれば、色々なことに利用することが出来る。もしかしたら、回数の上限を増やすことも可能かもしれないのだ。


 私が下卑た考えを巡らしている内に、気づけばコーヒーは既に出来上がっていた。

 白いカップの中に注がれたコーヒー。


 滑らかな黒色の表面からは、ゆっくりと白色の湯気が立ち上っている。


「舌、火傷しないですかね……」


「しても一瞬です」


 とりあえず、笑った。まあ、火傷する、と分かって飲めるなら身構えることも出来るので、少しは我慢出来るだろう。


 しかし――やはり惜しい。


「この力をもっと有効活用しよう、そんな風に思ったことはないのですか?」


 私の問いに、マスターは少々沈黙した。


 眉根を寄せて、困ったような面持ちで私に目を向ける。


「生とは、選択の連続なのです。選択をする、それが継続して生が成されています」


 マスターは、優しい口調で言葉を放ち始める。


「どういうことです?」


「つまりこれも、選択ということですよ。貴方が私の店に訪れ、そして新たな生に転換する。これを選ぶのは全部、貴方なのです」


「ええ、そうでしょうけど……つまり?」


「自然の流れ、ということです。もし貴方がおっしゃったように、この力が別の場で用いられるようになったとすれば、それは自然の流れがそうしたまで。しかし、これまでと同様、今はここにいます。それが、自然なのです」


 分かったような、分からないような。


 マスターは、何が言いたいのか。


「自然が、流れを創ります。そして、そこには選択が伴います。その選択が、生を形作るのです。貴方がここに現れたのも、自然の流れによるものでしょう」


「私たちの生は、自然の一部でしかない――と?」


「簡潔に言えば、そうかもしれませんね。だからこそ、自由なのです」


 自由。


 何をしても許されるとか、我儘を貫き通すとか。そういうことではなく。


 そうだった。私は――いや。私たちは。


「何を選択するのかは、自分で決めていいのですよ」


 生を形作る自由を――持っていた。


 ならば。この生転換とは。


「あの、教えてください。私が生転換出来るチャンスは、あと何回ですか?」


「一回です」


 即答だった。


 意外でもなく、予想通りの解答。思えば私がここに訪れた時、マスターは今回も前回も「待っていた」と言っていた。つまりそれは、またここを訪れるということが分かっていた、ということだ。


 一回目と同じように。二回目と同じように。


「生、というものが、なんとなく見えてきた気がします」


「それはよかった。どうか、貴方のこれからに幸多きことを願っていますよ」


「ありがとうございます」


 そして――ありがとうございました。


 私は、猫の舌でペロっとコーヒーの表面を舐めた。


 これが、最後だ。もうここを訪れることは出来ない。


 どんなに切望しようと、どんなに懇願しようと、私の選択権はこれでなくなってしまったのだ。


 選択の連鎖が形作り、輪廻する生。


 未だ私の中では不透明ではあるけれど、断片がそこにあるような、今まで見えていなかったものが見えてきているような、そんな気はしている。


 人であったり猫であったり。その結果に、たいして違いはない。


 人だから。猫だから。というよりも。そんなことよりも、もっと大きく結果の要因となっているものがある。


 だから私は――夢をみるのだ。


 最後のチャンス。


 三度目の正直に、私は夢をみる。


 頭に思い浮かべる。


 成りたいものを描き、コーヒーを喉の奥に流し込んでいく。


 私は――。


 私は――――私になりたい。

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猫になった男は三度目の正直に夢を見る 資山 将花 @pokonosuke

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