第11話

 公園を出て、遮二無二走り続ける。どこに向かっているのかは、私も分からない。とにかく今は、走って走って走り続けるのみだ。


「おいおい、街の中は危ないぞ。油断したら人間にぶつかっちまう。人間は、俺なんかよりも数段恐ろしい生き物なんだぜ? お前さんだって分かっているだろう?」


 返答をする余裕はない。彼の言う通り、気を抜けば正面から歩いてくる人にぶつかってしまう。避けることに集中しつつ、全力で走り続けていなくてはならない。たとえ、目の中に血液が流れ込んできて視界がぼやけだしていても。


「いい加減、観念したらどうなんだい? お前さん、いつまでそうやって逃げ続けるつもりだよ。本当に逃げ切れると、そう思っているのかい?」


 危うく、足を止めそうになった。


 彼の言葉が、私の奥底に深々と突き刺さったのだ。


 顔の痛みとは違う。堪えがたい痛み。その場に倒れこみ、泣き叫んでしまいたい衝動に駆られるような、そんな痛み。


 私は、逃げ続けている。背を向けて、何も見ないようにして、逃げ続けている。正面から対峙しようなんて、考えたこともない。怖い思いをするぐらいなら、辛い思いをするぐらいなら、さっさと逃げてしまった方が楽なのだ。


 けれど、そんな私も彼女と出会って、立ち向かおうという決心をすることができた。彼女のためならば、と奮い立つことが出来た。 


 しかし。いや。だから。


 そう、これはただの言い訳だ。彼女が私のもとを去ってしまったから、だから私は

また逃げ続けていると、そういうことなのである。けっして、私という個人が、逃げようとしているのではない。なるべくして、こうなっているのである。


 なんて。ため息が出てしまいそうになった。息も絶え絶えで、まともに呼吸も出来ていないのに、それでも深く長いため息が出てしまいそうだった。


 私は一体、何をしているのだろう。何故、こんなにも走り続けているのだろう。


 人間の生に嫌気がさして猫になった。猫になれば、毎日のんびりと気ままに暮らして、順風満帆な生を送れる、とそう思っていた。だが、結果はこれだ。身も心もとろけてしまいそうな暖かい時間はあったけれど、それも束の間で、気づけば泥沼の上に立っていて、必死にもがいていないと沈んでしまいそうになっていた。


 誰も手を、差し伸ばしてくれはしない。通り過ぎる人たちは、皆鬱陶しそうに私に目を向ける。その目は、簡単に生物を殺してしまえそうな目だ。


 いっそこのまま沈んでしまったら、楽になれるだろうか。くだらないことを思い、くだらないことに悩む必要など、なくなるだろうか。もう、逃げなくてもよくなるのだろうか。


「いいさ。どこまでも逃げ続けるといい。お前さんがそれを選んだんだ、どうなっても俺は知らない。生きていくのか死んでいくのか、それはお前さんの自由だ。俺は、干渉はしない」


 私の足が止まる。背後から水たまりを跳ね上げる音が、消えていた。聞こえてくるのは、雨粒を弾き飛ばしながら響く、低い男の声。


「だが。その末路は、お前さんも分かるだろう? 痛いほどに、分かっているだろう?」


 恐ろしかった。彼の声を聞く度に、身体が震えた。


 本当に、震える。


 私は、分かっているのだ。私が選んでいる道の先、そこに何が待っているのか、目に見えるほどに分かっている。


 私は、振り返った。人々の足の間から、一匹の白い猫が見える。ずぶ濡れで、随分と毛が重そうだ。


「観念したのかい? それとも、俺と闘う気かい?」


「いえ、違います。貴方が、貴方が足を止めたから、私も止めました」


「なんだい、それは。俺が止まったなら、なおさらお前さんは走らなければいかんだろう」


「そうですね。私も、そう思います。けれど、出来ませんでした。私に語りかけてくれる貴方を無視して、走り去ることは出来ませんでした」


彼は怪訝そうな顔を見せる。


当然だろう。獲物が急に逃げることを放棄して、自分に語りかけてきているのだ。

気でも触れたか。そう思うのが、自然だ。


「逃げても逃げなくても、結果は同じ。そんな気がしてきたんです。貴方から逃げ切ったところで結局、何も変わりはしないのではないかと」


「まあ。今死ぬか後で死ぬか。それだけの違いだろうな」


雨音が強くなる。


人間の足が、私たちの周囲に振り落ちてくるけれど、不思議と気にならない。

この空間には、私と彼しかいない。そんな錯覚が、私を侵している。


「貴方は、今の生に満足していますか?」


「何だい、急に? 恐怖でおかしくなったのかい?」


「いえ。もしかしたら、私はこのまま貴方に殺されるのかもしれない。そう思ったので、殺される前に聞いておこうと思って」


「なるほどな。確かに、俺がその気になればお前さんを殺すことは簡単だ――、悪いな。わざわざお前さんの問答に付き合ってやるほど、俺はお人好しじゃない」


「そう、ですか」


 彼の背中が見える。


 ゆっくりと私から離れていくその姿は、どこか別の空間へ向かおうとしているようで、ひどく孤独感を与えられた。     


待って。そう言いたくなって。けれど。それは言葉に出さないように、ぐっと喉で

留めておく。


「一つだけ、言っておいてやる。生に満足しているか。そんなことを考えれるのは、生きることに余裕のある奴だけだ。俺のような死のすぐ上を歩いているような野良は、今を生きることに必死なのさ」


そう言葉を残して、彼は雑踏の中に消えて行った。


 彼につけられた傷が疼いて、思わず涙が流れてしまいそうになった。


 人間を止めて、猫になった。


 人間の生から外れて、猫の生の上を歩きだした。


 しかしながら。私はまた、どうやら行き詰ってしまったらしい。


 大雨の中。ただ一人で、ただ一匹で、立ち尽くしている。


 周囲には大勢の人がいるわけだけれど、どうにも疎外感を感じてしまう。いや、そうじゃない。疎外どころか、誰の目にも私の存在は映ってはいないのだ。


 ただ目の前を見て、自分たちが歩くべき道筋を辿っている。道端に佇んでいるびしょ濡れの猫は、その道の上に立ってはいない。そういうことだ。なるほど、視界に入るわけなどない。


 空を見上げる。


 雨は明日まで降り続きそうだ。


 どこかで雨宿りは出来ないだろうか。外ではまたあのボス猫に会ってしまう危険性もあるので、出来れば屋内がいい。人間もいない、猫もいない。そんな屋内がいい。


 私はようやく歩き出した。


 公園とは反対側へ頭を向けて、とぼとぼと進んでいく.


 ひどい目に遭った。


 そう思う。けれど、猫にならなければ良かったとは思わない。ひどい目に遭ったと同様、良い目にもあったのだ。猫の生を否定してしまえば、それさえも否定することになってしまう。


 彼女の温もりを思い出す。


 私は思わず、にやけてしまった。まったく、恥ずかしい。そして、愚かしい。

 いつまで人間のつもりでいるのだろうか。私は、猫なのだ。猫が人間に想いを寄せるなど、あってはならない。


 そう思って。その時、気づいた。


 だからなのだ。


 私が新たな生に転換してもらう際に与えられた権利。以前の生の記憶を消すか否か。


 私は人間の生と猫の生を比べるために記憶を残したわけだが、ここにきて記憶が邪魔なものなのだと気がついた。


 人間の記憶があるから、猫に成り切れない。


 人間の時の経験が、無意識に私自身を猫の道の上から逸れさせようとしている。

 この現象を防ぐために、記憶を消去するという選択肢があったわけだ。


 どうやら私は、選択ミスをしてしまっていたらしい。生を比べたところで大差などなかったというのに……。


 …………。


 そうか。


 そうなのか。


 人間の時も。猫の時も。


 それぞれ良いことがあって。それぞれ嫌なことがあって。


 内容は違えど、得て感じたものは同じで。


 だとすれば、私は――。

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