第10話
外は既に日が落ちていて、ずっしりと落ち込んだ夜が訪れていた。街灯が必死に街を照らそうと試みているけれど、たいした成果はでていない。
彼女の優しさからなのか、私が捨てられた場所は、私が拾われた場所と同じ場所だった。まあ、だからといってそこにありがたみはないわけで、私は行く当てもなくただふらふらと歩を進めることしか出来なかった。
頭に軽い衝撃を感じる。見上げてみると、ぽつぽつと雨が降り始めていることが分かった。
まるで私の心の中を描いているようだ。なんてありきたりなことを思って、わざとらしく笑った。誰が見ているわけでもない。私はただ、一匹で、嬉しくもないのに笑っていた。
精神的にダメージを負ってしまうと、それに比例して身体も動かなくなってしまうようで、数十分歩いたところで私は疲れて座り込んでしまった。
これからどうしようか。
考えても、何も思い浮かばない。彼女との日々が走馬灯のように脳内に映し出されるばかりだ。
あれは、夢だったのだろうか。だとしたら、なんて素敵な夢だったのだろう。どうせならあのまま夢の中で、一生起こさないでくれたらよかったのに。神様も慈悲浅いものだ。
雨足が次第に強くなってくる。人間の時はちょっとした大雨でも濡れるのが不快なぐらいで済んでいたけれど、猫になると体格の問題で、空から降ってくる雨が異様に重たく感じる。おまけに、身体が濡れると毛が水分を吸って、重りを背負っているような感じになるのだ。
私は慌てて駆けだした。雨の当たらない場所に避難しなければ、身動きがとれなくなってしまう。
近場にあった物陰に隠れる。ふう、と一息洩らし、身体をぶるぶると振るわせて身体についた水分を飛ばし切る。肉球はびちゃびちゃなままだが、仕方ない。土の地面が濡れてしまっているのだ、地の上にいる以上、肉球が乾くことはない。
「よお、久しぶりだな」
背後から声が聞こえた。どすの利いた低い声。どこかで聞いたことのある声である。
ああ、そうだ。私は、今自分がいる場所を今更ながら理解した。視界が狭くなっていたのか、それともどうでもよくなっていたのか。
滑り台の陰。そしてここは。あの――公園だ。
「お前さん、あれからどうしてたんだい? 一回も食べ物を持ってこなかったじゃないか」
「あ、ああ、そうですね、すいません。実はあの後、すぐにこの街を出たんです。いい飼い主が見つかりまして。けれど、駄目でした。捨てられてしまったんです」
どっぷりと肥えた白いボス猫は、目を細めて私を見つめる。
「そうかい、それは気の毒だったなあ。その飼い主もひどいもんだ。自分で拾っておいてよ」
「そうですよね。ありがとうございます。同情してくれるんですね」
半分は嘘だったけれど、半分は事実だった。だから、何とか良心の呵責に苛まれながらも嘘を貫き通す覚悟は出来ていた。
けれど。そんな覚悟は、彼には通用しなかった。
「けどなあ。おかしいよなあ」
「お、おかしいって、何がです?」
「いやな。俺はあの時、お前さんと別れた後、追いかけてたんだよ」
「わ、私を――ですか?」
「ああ、そうさ。どこかの家に隠れて食い物を持ってこなかったりしたら、困るからな」
どくん、と心臓が大きく脈打つ。
全身の血が逆流して、冷え切った何かが血管の中に流れ込んでくる。
「案の定だ。お前さん、人間の女に連れられて家の中に入って行きやがった」
「そ、それは――」
「俺は二日、家の周囲で待ったが、やっぱりお前さんは出てこなかった。そりゃあ、出てくるわけもないよな。家の中に居れば、安全で幸せな生活が待っている。けれど、誰も最初は知らないのさ。それが、間違いだってことに」
ボス猫が大きく口を開け、牙を剥く。とがった鋭利な爪を、私の眼前に近づけてくる。
「いいかい、お前さん。一つだけ言っておいてやるよ。楽しく生きていたいのなら、他者を信じないことだ。信じればそれだけ、痛い思いをすることになる。こんな風にな」
彼の右前脚が振り上げられた瞬間、私の顔面に線上の痛みが走った。
引っ掻かれた。
単純で明快な攻撃で、痛みの原因がはっきりとしている分、顔が引き裂かれたという感覚が強く出てくる。余計、痛みが増してくる。
私は彼から逃げようと、滑り台の陰から飛び出し走り出した。私の足元には、雨と同化して流れていく血液が、滴り落ちていっている。
産まれて初めての、死への恐怖だった。
「どこへ行くんだい、お前さん? お前さんにはもう、行く場所なんてないだろう? もしかして、またあの女のもとへ行くってんじゃあるまいな。やめとけやめとけ」
嘲笑いながら彼が追いかけてくる。食料を提供しなかったから怒っている、という感じではない。むしろ、楽しそうだ。
けれど、だからといって立ち止まるわけにはいかない。彼の内情がどうであれ、私への攻撃の意思は消え去ってはいないはずだ。捕まれば、殺されてしまう。
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