第9話
最近は、彼が頻繁に彼女の家にやって来るようになった。恋人同士なので何の問題もないし、彼女も毎日楽しそうで私としてもうれしい限りだ。
しかし、困ったことがある。
彼女が私の相手をしてくれなくなったのである。私も大人だ。遊んでくれなくて拗ねるなんてことはしないし、彼との時間の方が大切なのだというのは明確なので、私の相手が出来なくなってしまうのも無理はない。
だが、度合いが異常なのだ。
以前は、リビングの隅に置いてある銀皿の中に私の食事は入れられていたのだけれど、最近はずっと空のままなのである。鳴いて訴えても、彼女は見向きもしてくれないのだ。
食べ物の保管場所は知っているので、仕方なく自分で漁って食べたりしている。そのため空腹で苦しむことはないのだけれど、それにしても今までの彼女とは随分と違う。
まるで、私などこの家に存在していないかのように、彼女はそう振る舞っているのだ。
「ああそういえば、前にいたじゃん。あのリストラされたおっさん。名前何て言ったっけな」
「何だっけ。いたのは知ってるけど、私も覚えてないや。あの人がどうかしたの?」
夕食。二人の雑談が聞こえる。私は、昼に漁って取り出した自分の夕食を、音をたてずに口へ運ぶ。
「あの人さ、会社に来なくなってから行方不明なんだってさ」
「え、大丈夫なの、それ?」
「さあな。でも、社長は大喜びしてたよ。訴えられたりしたら面倒だったからって。それに、俺も感謝しなきゃ。あの人が黙って消えてくれたおかげで、出世が確定したんだから」
「すごいじゃん、陽介君! でも、いいのかな。人の不幸を喜んじゃって」
「いいんだよ。ていうか、不幸でも何でもないだろ。消えたのはあの人が勝手にそうしたんだから。俺たちは、今のこの幸せな状況を喜んでればいいんだよ。なんで関係のないおっさんに気を遣わなくちゃいけないんだっての」
「うん……確かに。確かに、そうだね。私たちとは関係のない人だもん。気にする必要ないよね」
「そういうこと」
二人の笑い声が木霊する。壁にぶつかり跳ね返り。床にぶつかり跳ね返り。天井にぶつかり跳ね返り。そして。私の脳天に直撃する。
痛いとか悲しいとか、そんなことを感じる前に私の思考は既に止まっていた。二人の会話に意味を持たせないように、私の脳は回転することを拒絶していた。
二人の笑い声が小さくなっていって、一段落したかのように静寂が訪れる。私の脳も、次第に動作を再開する。
また、声が聞こえた。
「なあ、柚子奈。嫌だったら言ってくれて構わないんだけどさ」
「なに?」
「俺と一緒に暮らさないか?」
「え…………嫌なわけないじゃん! 本当? 本当に?」
「ああ」
突然、彼女は泣きだした。声を上げてみっともなく泣き始めた。
私は、彼女を癒すために存在している。彼女が泣いている。だがそれは。嬉しさからなのだと、分かってしまう。だから私は、彼女を癒す必要はないのだ。彼女は、苦しんでなどいやしないのだから。
私は、彼女に向けてなのかどうか定かではなかったけれど「ニャー」と鳴いた。私の声に反応して、彼がこちらに顔を向ける。誰かに見られる、というのが随分と懐かしく感じられた。
「でさ。俺の家、ペット禁止なんだけど……」
言い辛そうだった。彼の心の底の優しさが見えたような気がした。
私はこの時、人間とはあまりにも不可解で理解しがたい生物なのだと、改めて思い知らされた。
表面と内面。
人間は誰もが二重人格なのだと、そんなことをどこかで耳にしたことがあったけれど、そんな単純なものではない。人間は、もっと複雑で、環境や状況によって無数の人格を創り上げていく。無意識にだ。
だからきっと、これが彼女の本性だとか、そういう話ではないのだろう。どれが本当の彼女で、どれが本当の彼で。そういうことは考えるだけ無駄で。
昨日言っていたことと、今日言っていることが違っている。社会の中にいればよく出くわすような、そんなことなのだろう。
私は、彼女に幻滅したりなどしない。ただ、タイミング悪かっただけなのだ。あの時、彼女が私を拾ってくれたタイミングのように。今回もまた、タイミングなのだ。
彼女は、彼の言葉に即座に応えた。
即答した。
「今すぐ、捨ててくるね」
そうして私は、再び街の中を彷徨い歩くこととなったのである。
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