後編
「私のことがお好きだとお聞きしましたので」
「…………それはどなたからお聞きして?」
マルクの渋面は崩れなかった。それどころか、より深くなるしわ。
「うわさで小耳に挟みましたの」
茶会のたびに、夜会のたびに聞いたうわさだ。
令嬢たちが口々に言う「マルクがデイジーを好いている」という話はすっかり刷り込まれていた。
デイジーの期待に満ちた眼差しを受けると、マルクはぐ、と眉間のしわを親指で押し上げた。
「……大変恐縮ですが、うわさ話を鵜呑みにしてはいけませんよ。自分のことが好きな相手なら誰でもいいのですか。ご自身をもっと大事にしてください」
困り顔のマルクにはどう見ても結婚話に賛同する様子がなく、デイジーは小首を傾げた。
(おかしいわ。だって、私のことを気になっていると聞きましたのに)
思い描いていた展開にならないことを不思議に思いながら、少しの不安を覚えた。
このうわさには理由があったはず、と食い下がってみる。
「ええと、私の紹介するお店によく来店されているとか。最近ですと路地裏の靴屋さん、雑貨屋さん……」
「ああ! あのお店は好きで、よく行っているんですよ。最近女性の方が多く来店されるようになりましたよね。少しばかり肩身の狭い思いをしておりますが、ようやく素敵な商品が皆さまの目に触れるようになってくれたかと嬉しく思っています。あの靴屋は花柄に力を入れているようですね、一つに力を注げるというのもとても興味深く……」
すらすらと流れるように出てきたのは、その店がいかに素敵かという話。話の内容にはデイジーも惹かれたが、今大事なのはそこじゃないの、と思い留まった。
「……ええと、夜会で私のことを見ていらした、とか」
「……見られていたのですか、お恥ずかしい。不躾でしたね。申し訳ありません。見つめていたのはデイジー嬢のお召し物がとても素敵だったから。僕がお店でいいなと思ったものばかりを身に着けておられるものですから気になってしまって」
きらきらと輝く瞳は、お店の情報を提供している時の令嬢たちを彷彿とさせた。
(きっとその時の私もこういう瞳をしているのかもしれないわ)
どうにも聞いていた話とは違うようで、デイジーは戸惑いながら後ずさった。不安はだんだん大きくなっていた。
外灯に照らされ、胸のブローチがきらりと光る。
「──その花のブローチ。雑貨屋の横の小道をまっすぐ進んだお店のものでしょう。とても精巧で、にもかかわらずイメージはやわらか。とてもいいと思っていたんです。デイジー嬢によくお似合いだ」
整った顔が楽しそうにブローチを見て、デイジーを見て、満面の笑みを浮かべた。
そこでようやくデイジーは確信した。マルクは自分のことを好いているのではない、と。それも疑う余地もないほどに。
すぐさま頭を垂れると、恥ずかしさと心苦しさとでいっぱいになった。
「本当に! 申し訳ありませんわ。少し、思い込んでしまったみたい。大変失礼なことを申しました。できることなら忘れていただきたいわ」
「いえいえ、誰にでも思い込みはありますから。相手が僕でよかった。むやみに結婚などと口に出してはいけませんよ。よく知りもしない相手ならなおさら」
「…………はい」
諭されてデイジーはしおらしく項垂れた。いくら父の持ってくる縁談が嫌だからと急に結婚話を持ち出すのはたしかにやりすぎだったかもしれない。そう思うと、どんどんと申し訳なさに押しつぶされそうになる。
しょんぼりと落ち込むと、マルクはあえて声のトーンを高くして言った。
「ああ、お話しついでに少しお願いしたいことがあるのですが」
「なんでしょう、私にできることでしたら」
迷惑をかけてしまった手前、本当に何でも叶えてあげたくなる。そしてこの醜態を忘れ去ってはくれないだろうか。
顔を上げて頷いたのを見届けてから、マルクはデイジーの反応を探るように丁寧に言葉を紡いだ。
「花屋の向かいに新しいカフェができたのをご存じですか?」
言われてすぐに思い浮かぶ。白を基調とした石造りの外観に、入り口の横には丸く整えられたトピアリー。彩る花はピンクや水色、黄色の淡い色。外に置かれた看板は丸を組み合わせて作ったようなくまの形だ。近くを通るたびに気になって足を止めていたから、よく知っていた。
(でも、あのお店はたしか……)
困ったように眉を下げれば、わかっているとばかりにマルクは大きく頷いた。彼の眉もまた下がっている。
「そう、カップル専用をコンセプトにしているカフェで、僕一人では店に入ることができないのです。看板メニューである、くまのパフェが気になっているのですが、どうかご一緒していただくことはできませんか」
くまのパフェ。デイジーもずっと気になっていた。果物がたっぷり入ったボウルの上に生クリームとアイスクリーム。アイスクリームにはくまの耳がついていて、ハートの形のチョコレートで飾り付けがしてあるらしいのだ。
いつも一人で散策するデイジーにとっても、”カップル専用”はハードルが高かった。
(あの可愛いお店……お店の中はどうなっているのかしら。テーブルに雑貨、雰囲気は。パフェは皆さまが絶賛するほどですもの、きっと可愛らしく、美味しいのでしょう。それになんといっても、くま、だもの)
身勝手な勘違いで困らせてしまったマルクの役にも立ち、自身の欲求も満たせる。断るはずもなく、デイジーは笑顔で頷いた。
「ええ、喜んで」
◇◇◇
マルクは馬車ではなく、徒歩で迎えに来た。
デイジー同様、歩きながら街を散策することが好きなのだと言った。
立ち並ぶ店を覗きつつ、互いに情報交換をしつつ、気になっている商品が同じだとわかれば笑い合った。カフェまでの道のりはとても楽しい時間だった。
「着きましたね」
何度も見た白く可愛らしいお店を目の前にして、ごくりと喉を鳴らした。
これまで外観を見ながら通り過ぎるだけだった人気のカフェにとうとう足を踏み入れるのだ。扉の取っ手に手を掛け、押し開けた。
目に映るものが予想した通り可愛かった。店内は白で統一され、間隔を開けて置かれた丸いテーブルにはパステルカラーのテーブルクロス。それぞれのテーブルの間にはしきり代わりの観葉植物がある。そしてところどころにはくまの置物。
注文したパフェが手元に運ばれてからもきょろきょろと興味深げに見渡していると、マルクは落ち着いた様子のまま微笑んだ。
「くま、お好きですか?」
「ええ。もふもふでかわいいですもの」
しばらくパフェをうっとりと眺めたのち、意を決してスプーンでつつく。くまの頭に乗ったチョコレートをすくいながら、ふふと笑った。
憧れだった店にきて、かわいいくまに囲まれて、人気のパフェを食べた。この店には父が決めたセンスの悪い縁談相手とくるのかと思っていたが、相手はマルクで、さらには同じ趣味の話ができる。
あまりに楽しく、自然と笑みが溢れた。
「そうですか。では、帽子屋の裏にある、」
「テディベアのお店ですね」
「! おおっと、やはりご存じでしたか。でしたら、そのお店に新作のテディベアが並べられているのは?」
「え? 本当に? それは知りませんでしたわ」
目を丸くした様子に、マルクは嬉しそうに口を綻ばせた。
「次はそちらに行ってみませんか?」
「次、ですか?」
きょとんとしてスプーンを置いた。
マルクの言う”次”が何を指すのか、デイジーにはわからなかった。焦ったように手のひらを見せるマルクを、不思議に思いながら眺めた。
「ええ、ここまでの道も、今も、とても楽しい時間でしたので、つい。ここだけの話、好きなものを一緒に語るような友人はいなくて」
女性が多く来店するお店。彼の周りにそれを語り合える人間は本当にいないのかもしれない。
マルクはデイジーの知らないことも知っていた。もちろんその逆も然りだったが、それは新鮮な出来事だった。
これまで令嬢たちにお店の情報を伝えてきたデイジーは、自分がもたらされる側になる体験が少なかったのだ。
この日一日を思い返してみると、自分以外の視点が混ざることにより、視野が広がり、一人で散策していたときよりも発見が多い気がしていた。
少し考える素振りをして頷いた。
「……そうですね、では、また今度ぜひ」
この日から、デイジーが楽しみにしていた街の散策に、マルクがときどき参加するようになった。
マルクとの散策は、初めは一日に一つのお店だったけれど、徐々に見て回るお店が増えた。彼の口が上手いのかあれもこれもと気になってきて、時間が過ぎる。結局、いくつかのお店を回り、カフェで休憩してから帰路に着く、というのが習慣のようになってしまった。
いつも時間を忘れてしまうほど楽しい散策になるのだが、マルクと別れると、そのたびにデイジーは不思議に思った。
(どうしていつも私が気になるお店なのかしら)
マルクが見つけたという新しいお店は、どれもこれもデイジーの好みぴったりだった。
初めに行ったカフェも、テディベアのお店も、帽子屋も靴屋も雑貨屋も。
あるとき帰り際のカフェで、とうとうデイジーは聞いてみることにした。
「いつも私が気に入るお店ばかりだわ。どうやって見つけているの。本当に好みが一緒なのね」
マルクは落ち着いた顔を崩して目を細め、その台詞を待っていたとばかりに身を乗り出した。
その瞳の奥が、楽しげに笑ったように見えた。
「ええ、趣味が合いますね。どうです、僕と結婚しませんか?」
「!?」
一瞬何を言われたのかわからなかった。
勘違いをしたことはまだ記憶に新しい。「マルクがデイジーを好いている」という令嬢たちのうわさ話を鵜吞みにしてマルクに持ち掛けた結婚話を思い出すと、いまだ顔から火が出る思いがする。
「あなたが、そう簡単に結婚などと口にしてはいけないと言って、私の申し出を断ったのに?」
「ええ、ですから、よく知りもしない相手、と申しましたよ」
デイジーが根回しをして出席した夜会。マルクに結婚を提案した日から三ヶ月が経とうかとしていた。
五日と空けずに街を散策すれば、もう知らない相手ではなく。
いつもとは違う少し照れたようにはにかむ顔で、彼は言う。
言われた言葉にデイジーは大きく目を見開き、意味を理解するとカッと頬を染めた。
やられた、と思った。困ったような、不満げに口を尖らせてマルクを見るも、決して嫌ではない。それをわかっているとでも言いたげな彼の顔が少し憎らしく、可愛らしいと思ってしまった。
「──本当、デイジー嬢から先に言われてしまったときはどうしようかと焦ったものです。僕から、と思っていましたから」
風のウワサで私のことがお好きだとお聞きしましたので、つい 夕山晴 @yuharu0209
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