第64話 「セオを、信じるよ」◆


***


 藍色の夜空に浮かぶ、白い月。

 同じように藍色に染まる湖にも、幾つもの星が落ちている。

 避暑地であるこの湖は、昼間は暖かく過ごしやすいが、夜になると肌寒いくらいだ。


『私』はどうしても眠れなくて、一人別荘の近くの四阿あずまやで座って空と湖を眺めていた。

 エレナにも伝えてあるし、別荘からすぐ近くの場所なので、一人でも大丈夫だ。


「……あれ、パステル? 眠れないの?」


 ぼんやりしていると突然、横から澄んだ無邪気な声がかかり、『私』は視線を動かした。

 そこには、同じく寝巻き姿の、可愛らしい少年が立っていた。


「……セオ?」


「隣、いい?」


「うん」


 『私』はセオが長椅子に座れるように、少し横にずれた。

 セオは『私』の隣にぽすん、と腰掛けると、『私』と同じように夜空を眺める。


 セオは、不思議な子だ。隣にいると、ぽわぽわあったかくなる。

 話していても楽しいし、会話をしていなくても、気まずく感じない。


 近所に住んでいるエドワードなんて、黙っている時間がないぐらいで、逆に静かだと気味が悪くて逃げ出したくなる程なのに。


「ここは、星がよく見えるね」


「そうだね」


 セオは、夜空を見上げてそう呟き、『私』も肯定する。


「――それに、今日は、月が綺麗だね」


「うん。ほんとに綺麗」


 『私』は月を眺めながら、なにも考えずにそんな返答をした。だが、セオの反応がなかなか返ってこないので横を向く。

 何故かセオは『私』から顔を背けていた。『私』は、身を乗り出してセオの顔を覗き込む。


「あれ? セオ、顔赤いよ? 寒い?」


「な、な、なんでもない」


「そう? 寒くなったら、言ってね。一緒に戻ろ」


「ほ、ほんとに大丈夫だから」


 『私』はセオの態度に首を傾げたが、可愛らしくぶんぶん手を振っているのを見て、口元を綻ばせた。


 セオは今まで出会った誰よりも可愛くて、賢くて、優しい子だ。

 それにやっぱり、一緒にいて心地よい。


 『私』は、ふと思ったことをぼそりと呟く。

 聞かせようと思って言ったのではなく、何気なく口からほろりと落ちた一言だった。


「大きくなったら、セオのお嫁さんになれたらいいのにな」


「――えっ!?」


「え? あ、ええ!? 口に出てた! ごめん、なんでもな――」


「……ううん」


 焦る『私』の言葉を遮り、セオは小指を立てて、右手を差し出す。


「パステル、約束だよ」


「――!」


『私』は、熱くなる頬を左手で押さえる。

 そして、おずおずと右手を出して、セオと小指を絡めたのだった。




 ザザッ。


 場面が切り替わる。




 『私』とセオは、別荘の地下室――秘密基地で遊んでいた。

 上では大人たちが難しいお話をしている。

 その時突如、知らない人たちが、別荘の近くで何やら叫んでいるのが聞こえてきた。

 『私』とセオは驚いて、すぐさま地下室から顔を覗かせる。


「何かあったの?」


「あ、ああ。パステル、セオくん、何でもないんだ」


 『私』が声をかけると、お父様は取り繕ったような笑顔を貼り付ける。

 お母様が泰然した微笑みを浮かべながら、お父様の後ろから顔を出した。


「そうだわ、ちょっといい? パステルの大事な宝物入れに、この鍵をしまっておいてくれない?」


 『私』に差し出したその手には、小さな鍵が握られている。

 『私』は小さな違和感を感じながらも、迷いなく鍵を受け取った。


「いいよ! この鍵は、どこの鍵?」


「お母様の大切な宝箱の鍵よ。パステルが見つけられたら、中身をパステルにあげるからね」


「わぁ、宝探しゲームね! ありがとう!」


「パステル、セオくん、その秘密基地に時計があるわね? 今から扉を閉めるけど、誰かがここを開けるか、時計の長い針が二周するまで、お外に出ないって約束してくれる?」


「うん、わかった」


「それと、長い針が二周しても誰も呼びに来なかったら、二人で一生懸命走って森を抜けて。それから、野原の向こうにある厩舎――お馬さんのおうちまで、行ってちょうだい。エレナが待っているはずよ」


「お馬さんのおうち? どうして?」


「それは――」


 ドン! ドン!


 お母様の言葉は、玄関をノックする大きな音に遮られた。


「――お客様、来ちゃったみたい。扉、閉めるわよ」


「え? あ、うん……」


「パステル。セオくん。――仲良くね」


 そうして、扉が閉ざされ、静寂が訪れた。

 ランタンの小さな明かりを頼りに、『私』は自分の宝物をしまっている小さなおもちゃ箱に、渡された鍵を入れる。

 何となく不安な気分になってセオの方を見ると、セオはぶるぶると震え、今にも泣きそうな顔をしていた。


「セオ、大丈夫?」


「……こわい……」


『私』は、顔を歪めて小刻みに震えているセオに近づき、そっと抱きしめる。

 不安な時、嫌なことがあった時、お母様がいつもそうしてくれるように。


「大丈夫、大丈夫」


 そう声をかけながら、セオの背中をぽんぽんと優しく叩き、頭をゆっくり撫でる。


「……うう……」


 しばらくそうしていると、セオは落ち着きを取り戻したようだった。

 セオの震えが止まって身体を離すと、セオは恥ずかしそうに頬を染めていた。


「セオ、落ち着いた? 私が泣きそうな時、お母様が、いつもこうしてくれるの。元気が出る、おまじないだよ」


「おまじない……」


「そう。だからね、セオの元気が足りない時は、またこのおまじない、してあげるからね」


「は、恥ずかしいけど……たしかに、元気出たかも。ありがとう」


「どういたしまして」


「僕も、パステルの元気がない時、おまじない、してあげるからね」


「うん! ありがとう!」


「……でも、僕以外には、しないでほしいな……」


「えっ?」


「な、なんでもないよっ。それより、何して過ごそっか?」


 セオは更に頬を染めながら、話を切り上げたのだった。

 どうやら、おまじないの効果はしっかりあったようで、セオの表情には不安は残っていなかった。




 ザザザッ。


 更に場面が切り替わる。




 視界の全てが、七色の光に溢れている。

 ここは、『虹の巫女』ソフィアが最期の力を振り絞って創り出した、不可侵の世界。

『私』の記憶と色を封じ、セオの感情を封じる魔法が発動するまでの、僅かに残された時間。

『私』と、セオの、最後の時間だ。


「セオ……記憶がなくなったら、セオとの思い出も、消えちゃうんだね」


「……パステル……」


「……私、すっごく楽しかった。セオは私の初めてのお友達で、初めて大好きになった男の子よ。私はセオのこと忘れちゃうけど……、どうか、元気でね」


「パステル、僕も、僕も楽しかった。僕にとっても、パステルは初めての友達で、初めて大好きになった女の子だよ。それに……」


 セオのまなじりから、一筋の涙が伝っていく。


「それに、お母様も言っていたでしょう? 僕の心と、パステルの心は繋がってる。

 僕の感情がなくなっても、パステルの記憶がなくなっても、ここが繋がってるから、大丈夫」


 セオは胸に手を当てる。


「次に会う時、パステルは僕のことを覚えてない。僕も、パステルが分からないかもしれない。

 でも、この先僕の心を動かせるのは、心が繋がってるパステルだけだよ。だから、僕、きっとその時にパステルのこと、思い出す」


 反対側の目から、もう一筋、涙がつうっと落ちていく。


「必ず迎えに行くよ。それで、今度こそ、パステルが辛い思いをしないように。もう何も失くさないように――僕が必ず守る」


 涙に濡れるその瞳には、黄金色の強い光が宿っている。

『私』は、溢れそうになる涙を堪えながら、精一杯の笑顔で、セオに告げた。


「――わかった。セオを、信じるよ。

 だから、……またね、セオ」


「……うん、またね、パステル」


 セオは、涙に濡れる顔を拭いもせず、精一杯、笑みの形を作る。

 そうして、七色の空間は白い光に満たされ――

 蝋燭の火が消えるように、ふっ、と消え去った。




 ――目の前に、見知らぬ男の子が倒れている。

 傷だらけだし、意識もない。

 けれど、『私』はどうすればいいか、わからない。


 『私』の後ろから女の人が走ってきて、『私』と、動かない男の子に何か話しかけている。

 何を言っているのか、さっぱり、何一つ頭に入ってこなかった。


 そもそも、『私』は誰?

 ここは、どこなの?

 男の子を抱きかかえて、『私』の手を引っ張っている女の人は、誰?


 『私』は、何がなんだかわからないままに連れて行かれて、どこかに押し込められて、座らせされる。


 『私』の押し込まれた箱の隣にも、同じように馬に繋がれている、車輪のついた箱があって、意識のない男の子はそちらに寝かされていた。

 どこから乗ってきたのか、眠っている男の子の側には黒い猫がいて、その顔をぺろりと舐めている。


 女の人は、大きな身体の男の人と二言三言、言葉を交わして、『私』と同じ箱に乗り込んで扉を閉めた。


「お嬢様、時が来るまで、エレナがお側にいますからね」


 女の人は、笑顔で話しかけてくれるが、泣いているようにも見えた。

 そしてすぐに、窓の外のモノクロの世界は、ゆっくりと流れ始めた――。


***

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