第57話 「来たこと、ある」


「――明日になって、もし熱が出てしまったら、残念ながら彼はもう目覚めることはないでしょう」


「……え……?」


 私は、乙姫の言葉を理解することが出来なかった。


 私を守って傷を負ったセオ。

 やっとの思いで、もう少しで魔の森を抜けられる所まで来たのに、セオが……助からないかもしれない……?


 信じたくないが、精霊が嘘をつくとは思えない。乙姫の言葉は真実なのだろう。


「……そん、な……。何とかする方法は、ないのですか……?」


「闇の精霊か、第七の精霊ならば彼を救える可能性があります。闇の精霊の方が、まだ希望が持てますね。

 ――川を遡った先、墓碑をお調べなさい。闇の精霊に会えるかもしれません。

 ですが、その対価は、わらわたちとは比べ物にならないほど大きなものです。

 熱が出ないことを祈りますが……よく考えて、判断するのですよ」


「……わかりました。教えて下さり、ありがとうございます」


「……其方そなたたちの無事を祈っています。では、パステル。加護を授けましょう」


 乙姫が扇を振るうと、辺りにはたくさんの青い泡がぷくぷくと現れる。


「虹の巫女よ、汝、すべての水たるわらわに、何を望む?」


「——大切な人を守りながら、川を遡る力を……お貸し下さい」


「よろしい。わらわ、水のおとの名の下に、激流にも負けぬ、水の導きを授けましょう」


 その言葉と共に、私は一際大きな泡に包まれ、虹の橋から魔の森の川へと戻っていったのだった。




「ふぅ、流石に化石樹も水の中までは追ってこないわね。良かった……」


 私は、水の神殿に行った時のような人魚の姿……ではなく、大きな気泡に包まれて水中を移動していた。

 海と違って、川には障害物が多い。人魚の姿では怪我をしていただろう。


 気泡には弾力があり、川底や岩、砂礫、浮遊物などにぶつかっても、ぽよんと跳ねるだけで割れることはない。


 私はセオを膝枕して座っている。

 ただ気泡が川を遡っていくのを見守っているだけでいい。

 時折気泡が大きく跳ねて浮遊感が襲ってくるが、慣れてくればむしろ癖になりそうな楽しさがあった。


 あれから、どれほどの時間が経ったのかもわからないが、辺りはすっかり真っ暗だ。

 冬の夜は長く、夜の屋外を歩いた経験の少ない私では、時間を測るのも難しい。



 今は青以外の色を再び失ってしまった。


 しかし、月が日によって白く輝いたり黄色が強くなったりすることも。

 星が青や白、黄色など、少しずつ違う色を持って瞬くことも。

 風にそよぐ木々の緑が一枚一枚異なることも。


 何もかも、私は今まで知らなかった。


 今までは灰色だった昼の蒼穹のように、夜空の黒にも色があるのだろうか。



 しばらくそうしていると、気泡は開けた場所に出た。

 どうやら、大きな湖のようだ。


 私たちの通って来た川以外にも、何本もの川がこの湖を起点として流れ出している。

 本流と思われる川の近くには、暗くてよく見えないが、なにやら大規模な工事をしたような跡があって、周りに囲いが造られている。


 気泡の向かった先は、工事の跡とは反対側、穏やかな野原が広がっている場所だった。

 気泡はぷかぷかと漂い、私たちを優しく湖畔に下ろすと、パチンと音を立てて割れてしまった。


「ここ……来たこと、ある」


 私は、この場所に見覚えがあった。


「別荘が、あった場所だ……」


 ――精霊が見せてくれた、幼い頃の記憶。花冠を編んだ野原だ。間違いない。


 この場所から見える湖の景色が、工事現場付近を除いて、あの頃と殆ど一緒である。

 澄んだ水を湛える大きな湖は、今は暗くぽっかりと闇に沈んでいる。

 湖面は鏡のように穏やかに凪いでいて、月の光も星の光も、ただ静かに写していた。


 私は湖に背を向け、自分たちのいる野原を見渡す。精霊の見せてくれた記憶と比べて、森の形が少し変わっている気がする。

 また、記憶にある野原よりも、背の高い雑草が増えていた。手入れをする者がいなくなったためだろうか。


 森の中の小道を進めば、私たちの滞在していた別荘があるかもしれない。

 だが、先程魔の森で化石樹に襲われたことを思い出し、私は身震いした。

 夜の間は、森を歩きたくない。


 どうにか休める所はないかと、目を凝らして観察を続けていると、背の高い雑草の奥に、何やら屋根のような物が見えた。

 森にも入らないで済むし、幸い、ここからそんなに遠くもない。


 私は再び気力を振り絞って、セオを背中にもたれさせると、建物らしき物に向かって進んでいった。


 そこは、打ち捨てられた四阿あずまやだった。

 もう、何年も手入れされていない。


 だが、ここには屋根があり、雨を防げる。

 そして、セオは結局汚れた服のまま着替えていない――つまり、セオの服のポケットには、魔法の家が入っているはずなのだ。


「セオ、ごめんね。ポッケの中、ちょっと探させてね」


 セオは相変わらず穏やかに眠っていて、こんな時に不謹慎だが、何だか少しいけないことをしているような気分になる。

 仕方ないのよと自分に言い聞かせて、落ち着いてセオの服のポケットを探った。


 目的の、魔法の家はすぐに見つかった。


「確か、これを設置したい場所に置いて、手をかざして、魔力を……虹を呼ぶ時の感覚でいいのかしら……えいっ」


 魔法の家は光を放ちながら、問題なく大きなサイズになった。

 これで、ひとまず眠る所を確保できて、一安心だ。


 私はセオを抱えて家に入り、ベッドに降ろす。

 クローゼットからタオルやセオの着替えを見つけて、取り出そうとした所で、私は気が付いた。


 ――これ、私が着替えさせるんだよね。


 一気に顔に血が上る。やっぱり無理だ。


 結局、濡れてしまっている足元だけ、申し訳ないけれどハサミを入れて生地を取り除く。

 高級そうな生地だが、どのみちあちこち破れてしまっているし、仕方ないだろう。


 ここまで身体を酷使したせいか、私ももう限界だった。

 身体が鉛のように重い。

 セオに布団をかけ、「おやすみ」と声をかける。

 私はソファに身を横たえると、あっという間に眠りに落ちてしまったのだった。

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