Ⅰ章 天鳥船 ――それを待った者たち――

1ー1話 此花姫香 --不思議な青年--

「……神功じんぐう皇后こうごうは第14代仲哀ちゅうあい天皇の皇后です。……日本書紀での名は気長足姫尊おきながたらしひめのみことで、仲哀天皇崩御ほうぎょから応神おうじん天皇即位まで摂政せっしょうとして統治した……」


 教室の最後列の席で講義を聞く此花このはな姫香ひめかは、あくびをかみ殺した。


 教壇では、よれよれのスーツをまとった吉本よしもと直樹なおき准教授じゅんきょうじゅがぼそぼそと話している。70人ほど入る教室に座っている学生は20人足らず。出席をとらないうえに授業が面白くないからだ。多くの学生は試験さえ受ければいいと考えている。


 姫香は昨年、2年生でその授業の単位を取得していた。友人には笑われるのだけれど、吉本准教授のゼミ生なので、卒論の参考になる話を聞けるかもしれないと考えて聴講していた。


「……彼女は九州の熊襲くまそ征伐に同道しています。その最中、仲哀天皇が崩御。熊襲を征伐後、海を越えて新羅しらぎへ攻め込み、百済くだら高句麗こうくりと戦っています。日本書紀では、それら3つの国に勝利したと記載されているので、三韓征伐さんかんせいばつと呼ぶことがあります。中国の吉林省きつりんしょうにある広開土王こうかいどおう碑文ひぶんにも倭国わこくと戦った事実が記されているので、倭国が出兵したのは間違いないが、そこに神宮皇后がいた証拠はありません。彼女は三韓征伐後、帰国途中に誉田別尊ほんだわけのみことを生んでいる。それが応神天皇です……」


 相変わらずだわ。……姫香は身体の真中からせり上がるあくびをもう一度かみ殺し、【神宮皇后=オキナガタラシヒメ】とノートに落書きした。


〝神功皇后は戦いが終わるまで子供を産むわけにはいかないと、腹に石を当てて出産を遅らせた。妊娠期間は実に2年!〟とか〝応神天皇は、神功皇后と共にいた武内宿禰たけうちのすくねの子供ではないか?〟とか、面白おかしく盛って話したらいいのよ。……姫香は念を送ったが、そんなものが通じるはずない。吉本准教授は尚もぼそぼそとしゃべりつづけた。


 実は、姫香には授業に出る別の目的があった。前方の席に座る住吉すみよし比呂彦ひろひこのことだ。彼は2年生だが同じボランティアサークル〝まごころ〟に所属していて、個人的な関心があった。男性としてではない。あくまでも人間として……。姫香は中学生の時に学習塾の講師にわいせつな悪戯を受けた。それ以来、男性と向き合うと恐怖を覚えた。それなのに、比呂彦に対しては違った。彼の中性的な容貌や態度によるものか、別の何かに原因があるのかわからないけれど、恐怖を覚えることがなかった。その理由を知りたかった。


「……神宮皇后が誉田別尊をつれて畿内に入るのを、彼の異母兄弟にあたる麛坂かごさか皇子と忍熊おしくま皇子が兵を出して阻止します。皇位争いと考えて良いでしょう。神宮皇后は武内宿禰と共に奇策を用いて彼らを滅ぼしてしまいます。……太平洋戦争後、異論も出るようになった神宮皇后の三韓征伐ですが、明治政府は彼女の肖像を紙幣に使った。外国と戦った彼女の強さに明治時代の人々の希望や理想があったのかもしれません。女性の社会進出や男女格差が注目される昨今ですが、古代の日本は、現代よりずっと男女格差がなかったのかもしれません。彼女が何者なのかを考えることは、現代の日本社会の男女格差を考える上でのヒントになると考えます。……何か質問のある人は?」


 吉本准教授がぐるりと教室を見回す。視線がぶつかり、姫香は会釈した。


「なければ、今日はここまでにしましょう。来週は休講です。奈良での発掘が始まりますので。……すごいですよ。地底レーダーに巨大な石室の反応がありましてね。世紀の大発見になるかもしれません」


 その口調は、それまでの授業と全く違った。まるで新しいオモチャを手に入れた子供のようだ。そうして彼は、終業のチャイムが鳴る5分前に授業を切り上げた。


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