Case1―Scene7 襲来
三人目を撃った直後に、悪魔の足音のような、もはや聞き慣れたエンジン音が聞こえてきた。早い。早すぎる。やはりあれは、人外の魔物なのだろうか。
あの男が乗る真っ黒のバイクは、迷うことなく滝野がいるビルに正面玄関から入り込んできた。
滝野はその場にうずくまり、ライフルを両手に抱きかかえた。どうすれば良い? どうすればあの男から逃げられる?
ダメだ。こんなところでグズグズしていたら、本当に殺されてしまう。少し経って意を決した滝野は、身体をかがませたまま階段に通じる扉まで走った。
ワンフロア降りて、ビルの最上階へ。そこからさらに非常階段まで、銃を構え、前方をよく見ながら進む。
非常階段の階段をそっと開ける。耳を澄ませながらゆっくりと階段を降りていく。
しばらく気配がないので、滝野は少し油断してしまった。もしかしたら、違うルートを上がってきているのかもしれない。
しかし、そのまま十階分ほど下ったときに、かすかではあるが、何かが擦れる音が聞こえてきた気がした。
まるで息を殺して近づいてくる猛獣のような、不気味な気配を滝野は敏感に感じ取った。
狙撃をしていたときとは比べ物にならないほど心臓の鼓動がさらに大きくなり、胃の中なのか、身体中の汗腺なのか、熱いものがこみ上げてくる。
滝野は、迷わず手すりと手すりの間から銃口を階下に向けた。その時銃内に残っていた弾丸を立て続けに全て吐き出させる。
その後、滝野は急いで弾丸を装填したが、階下からは反応がなかった。気のせいだったのだろうか。そう思っていると、下から銃声が聞こえてきた。いる。滝野の元にその弾丸は全然届いていなかったが、あの男は下にいる。
滝野は恐怖のまま再び全弾掃射した。だが、向こうからは、もう撃ってこなかった。
こんな条件の悪い状況では、こっちの銃弾が当たっているとは思えない。その直後、滝野はさっきよりさらに強い殺気を感じた。
これはヤバい。逃げなくては。本能がそう告げる。
滝野は後ろを振り返った。すでにもう随分と階段を降りてきてしまった。ここから再び昇るのはきつすぎる。
やむを得ない。滝野は目の前の扉を開けた。
そこには流行っていない専門店がたくさん並んでいた。一番近くの人影でも二百メートル程先だ。ライフルはむき出しの状態だったが、幸いなことにそれを目撃した人はいなかった。
滝野は一番近くの文房具店の中にあった包装紙の束の中から一枚抜き取って目立たない白地を表にして銃に巻き付けた。
そして監視カメラに気を付けながら、そのまま数店舗先の百円均一ショップに入り、銃撃戦に備えて顔を隠せるようなものを探す。今回は、普通に購入した。
***
滝野はカモフラージュ用のカゴ台車も清掃用具も上階に捨て置いてきていた。そのため今は軽装だ。真っ白の筒とゴリラの被り物だけを抱えて、急いでエスカレーターを駆け下りる。
このビルのエスカレーターは階ごとに乗り換えるときでも、カーブする必要がなく一直線なので、降りるのにもスピードが出せた。一段飛ばしで下っていく。
その分異様な光景と足音になるので、数少ない通行人がもれなくこっちを見た。この黒のウレタンマスクとキャップ、リバーシブルのジャンパーで少しでも正体を隠せるだろうか。
降りている途中、直前までいたフロアの非常階段の扉から出てくるあの男を、偶然目の端が捉えた。白髪に真っ黒のサングラス、間違いない。
滝野は、スピードはそのままで足音を一気に殺そうとした。両脚への負担で、思わず声を上げそうになる。
手で無理矢理口を押さえることで、激痛をなんとかやり過ごす。そしてあの男がいる一つ下のフロアまでたどり着いてから、急いであの男と対角線上の位置になるようにダッシュして、最大距離をとった。
人気のない壁際に座り込んで、袋ももらわずに直接ひっつかんでいたゴリラの全頭マスクを被る。新品のゴムの、普段ではとても受けいれられないようなきついにおいがしたが、今はそれほど気にならなかった。
そして滝野は、ライフルの方も包装紙を外した。少しだけ荒木がいる方に距離を詰めて、しゃがんだまま銃を構える。
吹き抜けの多いその建物の中でも、上のフロアに関してはフェンスに一番近い一帯しかその時滝野がいる位置からは狙えなかった。
根気良く、あの男がそこに近付くタイミングを滝野は待った。どこにももたれさせることなく、さらに斜め上方に掲げているため、腕の疲労が加速度的に溜まっていく。
そんなこともあって、滝野はあの男を狙った渾身の一撃を外してしまった。柱が砕かれる音が、こっちまで聞こえてくる。やっと異常を感じ取った客や店員が騒ぎ始めた。
だが本当の問題はそんなことではない。今の狙撃のせいで、こっちの位置を知られてしまった。
滝野はその場で微動だにせず、再び待った。しかし、しばらくは何も起こらなかった。
緊張感は否が応でも高まっていた。もしかしてどこかから回り込まれているかもしれない。そんな思いが頭をかすめたが、滝野はさっきまであの男がいた位置から目を離すことができなかった。
そうしていると、目の前に信じられない光景が飛び込んできた。
さっきあの男がいたところから再び人影が瞬く間に現れ、ビルの吹き抜け部を飛び越えて、滝野がいるフロアまで侵入してきたのだ。
嘘だろ。滝野は自分の目が信じられなかった。ここは8階だし、あの吹き抜けの間は五メートル以上あるんだぞ。
呆気にとられた滝野は、その場で立ち上がり、様子を窺おうと無意識に近づいてしまった。ライフルも降ろしてしまっていた。
だが、その直後にいくつもの銃声が聞こえ、慌てて目の前の衣料品用のワゴンの後ろに身を隠した。
飛び込んできたのは、革ジャンを腰にまきピンク色の何かで顔を覆っているが、まごうことなくあの男だった。あの男はもうすでにこのフロアに、それも同じブロックにすでに到達していることになる。
ダメだ。ここは戦場なんだ。一瞬たりとも気を抜いてはいけない。滝野は不甲斐ない自分を何とか奮い立たせようとした。しかし恐怖心がどんどんと首をもたげてくる。
滝野はその場から立ち上がることができなかった。しかし、あの男が徐々に近づいていることを、肌で感じていた。もう直線距離にして二百メートルも離れていないだろう。今までには感じたことのないような胸の鼓動が、滝野を支配する。
大体、何なんだあの男は。あんなのもう化け物じゃないか。こっちはライフルを持っているだけの、ただの貧弱な一般人なんだぞ。
それなのに神はあんな化け物をよこすのか。そんなに僕の罪は重いのか。滝野は天を仰いだ。しかしそこには低い天井と、ふらふらと漂うハート形の風船があるだけだった。あきらめかけたその時、わずかに視線を下げた滝野の目にあるものが入った。
***
悩んでいても埒が明かないどころか、状況が悪化していくのみだ。ライフルしか持たない滝野は、近づかれれば近づかれるほど、不利になってしまう。
こんなことをしているんだ。いつ死んでもおかしくはないと思っていた。
だが、死にたくはなかった。ましてや、あんな化け物に捕まって、苦しみながら死ぬのだけは絶対に嫌だ。滝野は反撃の意思を固めた。
隠れている販売用ワゴンの両端からそっと顔を覗かせ、辺りを窺う。しかしあの男の姿を捉えることはできなかった。
やむを得ない。今度は上から覗いてみた。すると、一瞬だけ俊敏に動く白い影が三十メートルほど先に確認できた。
もうそんなに近付いていたのか! 改めて滝野の背筋が凍った。
滝野は身を潜めたままそっとワゴンの中に手を伸ばし、触れたものを掴んだ。三枚一組の靴下だったが、この際何でも良かった。
滝野はその靴下を力いっぱい投げた。できるだけ遠くに、その一念で。
期待していたよりもはるかに小さい物音が、かすかに聞こえてきた。その後まもなく、わずかにキュッという音がした。
それが、あの男が最初の音に反応して方向転換した音だと信じることにする。滝野は姿勢を下げたまま限界まで素早く手足を動かし、自分が靴下を投げたのと反対方向に進み始めた。膝、ひじ、足、腕。とにかく無茶苦茶な動きだ。必死で地面を手繰り寄せる。
そのかいあって、わずか数秒で壁を一つ回り込んだ滝野は、自分の幸運に目を瞠った。そこに一基だけしかなかったエレベーターが、その階に止まっていたのだ。
滝野は焦りのあまり必要以上に何回もボタンを押したあげく、何とか下に降りていくことができた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます