肆
今夜もあたしは見慣れた家で夕食を食べていた。
目の前はバラエティ番組でしか見たことが無いような、分厚いステーキがある。傍にはみずみずしい野菜サラダやかりっと焼けた白パンにヴィシソワーズ。奥には高そうなグラスに入ったジュースや厚みのあるザッハトルテも並んでいた。
料理は文句無しで美味しいけど、やっぱり今日も一人ぼっち。
外はしんとしていて、テレビだけがずっと鳴っている。
手も口も止まってくれないから食べるしかない。
それでも寂しいことには代わりがなかった。
退屈を紛らわしたくて。口を動かしながら、あたしは窓の外を見る。
窓いっぱいに、皆既日食が浮かんでいた。
はっとした。見えたのはあたしの部屋の天井だった。
ふぅ。あたしは大きく息を吐く。
あたしの家は共働きで、夜はお母さんと食べることが多い。
そもそもお母さんは夜ご飯を一緒に食べられない程、帰りが遅くなることは無い。たまにあるけどそのときはお父さんと二人でご飯を食べるか、みんなで外食に行くかの二択。間違っても一人では食べない。
だから最初に見たときから、夢なのはわかりきっていた。
スマホのアラームが鳴った。
またいつもと同じ朝が始まろうとしていた。あたしはスマホの日付をなぞる。明後日にはまた、金剛くんと会う予定があるのだ。
今度は最初から友だちとして。
理学療法士。金剛くんから聞いた職業は初めて聞いた言葉だった。だから興味が出た、それは本当。もしかしたら調査票のヒントにもなるかもしれないとも思った。でも本命じゃなかった。
もっと彼の話を聞きたい、彼のことを知りたい。
建前が消えた後の理由はそれだけ。
気づけば何が何でも彼氏にしたい気持ちは無くなっていた。
代わりに残ったのは透明な淡い恋心。
惚れさせようとしたのに自分から惚れてしまったみたい。ピュア過ぎるところとか、あたしの将来の夢の話を真剣に聞いてくれたこととか。多分そこだろう。あたしも金剛くんのことは言えなかったな。
自覚したのが家に帰ってきてからで良かったと思う。元から顔の良い金剛くんの顔が更に見れなくなっていただろうし。ただ金剛くんは鈍感でもあるから、きちんとアタックしなきゃ。
でもどうしよう、もう好きって言っちゃおうかな。嫌、待って待って。それは早すぎでしょ。あたしの心の準備ができない。だったら会う時間を増やそうか。だけど金剛くんにも都合はあるよね。これ以上は無理だ。
あぁわかんない。どすどすと枕にパンチした。良さそうな方法が浮かんでこない。惚れてから馬鹿になるなんて本当にあるんだ。
大きな、大きなため息が出た。
その拍子にあたしはカフェデートのときのことを思い出す。一緒にいて楽しかった記憶。あのときは友だちですらなかったけど、ちゃんと良い思い出だった。
心の中ですとんと落ちた。そっか、そうだ。焦らなくて良っか。
同じ時間を共有する、今はそれだけで良いんだ。まずはもっと仲良くなろう。
身支度しようとベッドに腰掛けた。すると通知が鳴る。こんな朝早くに誰だろう。そのままスマホを見て、どきっとした。頬が熱くなる。宛先は金剛くんだった。
逸る指先でアプリを開いて、息が止まる。
ごめんなさい。彼女が出来たので、約束をキャンセルさせてください。
ぽつんと。完結なメッセージがトーク画面に浮かんでいた。
憎みたくなるくらい、晴れた日だった。
本当なら一日休みたかった。それでワンワン泣いて、吹っ切れてから日常に戻りたかった。でもお母さんに休むなんて言えなくて、渋々あたしは登校した。
悲しいのは勿論だったけど、一番は純粋な驚きだった。
女の影なんて全く感知できなかったのだ。いつの間にそこまで進んでいたんだろう。あたしでも友だち止まりなのに。
あぁでもあたしは学校が違うから駄目だったのかな。同じ高校の女子と、ってことならわかんなくて当然だ。てか同じ学校の女子なんじゃないの相手。うわぁ。
こんな感じで朝からずっとあたしの気分は直らなかった。移動教室もなくずっと座学の今日は、珍しく中休みでも誰も来なかった。
とはいえ。流石に昼休みになると、どうしてもみんなと顔を合わせなきゃならない。あからさまに沈んだ顔は止めて、いつも通りあたしは机を囲んだ。
朝の占いの話とか授業で当てられた話とか。
ご飯を口に運びながらあたしは三人の話を聞いていた。話ができる気分だとしてもネタが無いから、きっと聞き役になっていたと思うけど。
絵里の話が一段落ついたときだ。珍しく仁美が自分から話題を変えた。
仁美は真っ赤になると、おずおずと口を開く。
「実はね。彼氏、できたんだ」
「え、そうなの。おめでとぉ仁美ッ」
わーいと声をあげて絵里が万歳する。
彼氏。友だちに恋人ができる。女子高生において彼氏の有る無しがステータスにもなる。だから先を越されて悔しいって気持ちはある。否定はしない。
自分の好きな人と一緒にいる権利が貰える。
この権利が無性に。今朝振られたばかりのあたしには
あたしが経緯を聞くと、きゃっと仁美は顔を隠した。
「中学が一緒の人でね、ずっと好きだったの。高校は別になっちゃったけど、この前ばったり再開して。告白したら相手も私が好きだったんだ」
「へぇ、すごいな。そんなドラマみたいな話あるんだね」
興味津々という様子で伊都が表情を明るくする。あたしも横で感嘆していた。
漫画とかじゃないと見たこと無いシチュエーションだ。すごくロマンチック。
あたしも次は仁美みたいな恋をしてみたい。できるかな。
すると頭の中である光景が浮かんだ。
朝の駅、青いハンカチ、刺繍の猫。
全部あの日金剛くんと初めて会った日のことだ。確かにあれもドラマみたいな話だよね。金剛くんが近寄ってきたとき、本当にどきどきしたよね。さっき体験したみたいに覚えている。
はぁ。あたしの口からため息が出た。
見事なまでに引きずっている。しばらく新しい恋は無理みたい。
はいはいはい、と絵里が手を上げて仁美に迫っている。いつもなら
「私、どんな感じの人か、知りたいですッ。具体的にはイケメンかどうかをば」
「そっか。香月高校の人だからわからないよね、写真ならあるよ」
「本当ですかッ。見たい見たぁい」
ちょっと待っててね。そう言って仁美はスマホを操作する。
あたしたち三人はわくわくして見ていた。
あ、待って。今、香月高校って言ったよね。
はっとしてあたしは顔を上げる。確か金剛くんも香月高校の生徒だったはず。最近聞いたばかりだから良く覚えている。いやでも、そこまで学校離れてないし。偶然かな。
ばくばくと心臓が
画像の準備ができたらしい。仁美の顔が明るくなる。
「遅くなってごめんね、この人だよ」
そう言うと、仁美はスマホの画面を机上に置いた。
画面にはカメラ目線から一寸外れた男子がいた。チャラチャラしてないけど垢抜けていて、真っ黒な髪が均整の取れた顔に映えている。
イケメンチェックは満点だったみたい。二人から歓声が上がった。
逆にあたしは一切言葉が出なかった。
写真の男子は金剛くんだったから。
半分放心状態で昼休みも午後の授業も過ぎて。
今日はみんな、部活だのバイトだのが休みの日だから四人で帰ることになっている。プラス、今日は駅前で仁美のお祝いだ。だから今、早く掃除が終わったあたしは正門で三人を待っている。
スマホを見る。絵里と伊都はゴミ出し当番だから遅くなるだろう。仁美はわからないけど、教室掃除は長引くからやっぱり遅くなるのかも。しばらく一人っきりだ。
グループのトーク画面に何も無いのを確認したら、ため息が出た。
あたしは思い
あれ。一寸待って。なんか引っかかる。あたしは首を傾げた。
確か金剛くんって好きな人いないとか言ってなかったっけ。二人で話していたときに、そんな話を仕掛けたことがあるんだけど。人の彼氏は取りたくなかったし。
そこまで考えてあたしは仁美の言っていたことを思い出した。そうだ、確か金剛くんって仁美と中学一緒なんだった。だったら卒業するときに諦めたのかな。もう再開できないって思ってたら、好きな人に再会して気持ちが戻ったのかな。
えぇ。じゃあ、あたしが上書き失敗しただけじゃん。
あーあ、ツイてない。あたしは振りかぶって空を見上げた。
「美緒」
「う、うわぁッ」
あたしはひっくり返りそうになって、背中を門にぶつける。痛い。鈍く響く音を聞きながら、声がした後ろを見た。
仁美だ。くすくす笑いながら、あたしへ歩いてくる。
「大丈夫?すごいびっくりしてたみたいだけど」
「う、うん。一寸考え事してただけ」
あたしは笑ってごまかした。
あんたの彼氏に間接的に振られて傷心してました。なんて言える訳が無い。
無理無理、気まずいよそんなの。幸せ絶頂の仁美に水を差すなんて嫌だし。
ただ今日が無理でも、明日か明後日くらいには言っておきたい。誤解されて
「考え事って、何かあったの」
「え。無い無い、何も無いよ。自己解決したし」
「えぇ、本当に?私たち友だちでしょ、隠さないで欲しいんだけど」
「本当に何も無いよ、あったら言ってるからッ」
でも仁美は気になるらしい。
いつもはすぐに引くのに、今日はぐいぐい食い下がってくる。違う違う。友だちだからこそ言えないんだよ。時期が来たら言うから見逃してよ。
はぁ。仁美は大きくため息を着いた。
「わかった。他に聞きたいことがあるからそっちにする」
「あ、そうなの。わかった」
今日は珍しいこと続きだ。あたしはまじまじと仁美を見る。
一年のときから一緒だけど、仁美からこんなに話題が出るのは初めてかもしれない。大体は誰かの後に自分のことを言うタイプだから新鮮だ。私たち四人に関しては、八割くらい絵里が話を持ってくるってのもあるけど。
こてん。仁美は首を傾げた。
「ねぇ美緒、今どんな気分なの」
「え、急にどうしたの」
素っ頓狂な声が出た。どんな気分かって言われたら落ち込んでる気分って答えるけど。だとしたら金剛くんのことを話さなきゃいけないし。駄目だよね。
そもそも色々言葉が足りなくて訳が分からない。あたしは仁美を見る。
くすくす、くすくす。
仁美は笑った。楽しそうに笑っていた。
何なのこれ。友だちだけど、一寸気味が悪い。あたしは眉に皺が寄るのを感じた。
っていうか今の答えに笑うところなんてあったかな。いや無いよね。
そう思うけど仁美は笑うのをやめなかった。
「やだぁ、決まってるでしょ」
仁美が楽しげな声で言った次の瞬間。す、と表情が消えた。
「見下してたやつに見下されるのってどういう気分かって聞いてんだよ」
え。
「なんて?」
気づいたらあたしは声が出ていた。
さっきより変な声だったと思う。それくらい予想外の質問だった。というか見下すって何。何のこと。話が飛びすぎてよくわからない。
「何その反応。今更しらばっくれないでよ」
憎々しげに仁美はあたしを見る。
え、怖い。初めて見る表情に、あたしは純粋に恐怖した。しらばっくれるも何も、本心なんだけど。どうしたの仁美、何かおかしいスイッチ入ってないかな。
あたしの困惑を余所に、仁美の口は止まらない。
「ずっと私たちのこと冴えないやつだって思ってたんでしょ。友だちとか言っておいて見下してたんでしょ。所詮何もできない癖にって、自分より成績良くない馬鹿なのにって」
「ちょッ、待って待って何それ。そんなこと思ってなんか無いんだけど」
「嘘だ、嘘だ嘘だ。ずっと思ってた癖に、ずっと私のこと見下してた癖にッ」
仁美は叫んだ。周りにはすでに生徒がいないから、やけに仁美の声は響いた。
でも、こんな仁美の声は聞いたこと無い。びくっとあたしの肩が震える。
すると目が合った。にぃと仁美は笑う。
「でも残念でした。金剛くんは私が好きなの、お前なんかより私が良いんだって。当たり前だよね、お前なんかより私の方が出会ったの早かったし連絡先だって知ってたんだから」
仁美は勝ち誇ったように言った。
「それに金剛くん。私があげたハンカチずっと持っててくれてたんだからさぁ」
あたしは立ち尽くす。流石にこれは言葉が出なかった。
今言われたことにショックを受けたんじゃない。だってどこまで本当かはわからないんだ。いつもの仁美と全然違うし、今までの金剛くんの印象とも食い違うから。
でも一つだけ事実だと思えることがあった。
ハンカチだ、ハンカチだけは全部本当だ。
ハンカチってあの朝にあたしが拾ったものでしょ。青くて黒猫の刺繍があって、夢で見たのとすごい似てるもの。あれ仁美のプレゼントだったんだ。
すとん。心の中にボールのようなものが落ちた。
思わずお礼したくなった理由が今ならわかる。
そっか、大切なものって言ってたもんね。好きな人から貰ったものなら焦るだろうな。え、なら本当にチャンス無かったんじゃんあたし。やだぁ。
「残念だったね。イケメンの彼氏アクセサリーにできなくて。連れ歩けばきっとみーんな羨んでくれたろうにねぇ」
酷い言いがかりだ。自己嫌悪していたあたしの意識が一瞬で戻る。
段々とあたしは仁美にムカついてきた。
確かに、さっきから仁美が何かのスイッチを入れているのは察していた。金剛くんに近づいた理由はまぁまぁ最低だったし黙っていた。
だけど、人に言って良いことと悪いことくらいあるでしょ。
一寸怒りながらもあたしは反論する。
「嘘言うのはやめてよ。あたし、本当に金剛くんが好きだよ」
「あーあー、薄い、薄っぺらいッ。取れなかったからって良い子ちゃん振るなよ気持ち悪い」
「違ッ、違うッ」
あたしはぶんぶんと首を振った。
気分はどん底だ。同時にすごく腹立たしかった。だってあたしが感じた嬉しさまで、恋心まで仁美は勝手にレッテルを貼ったんだ。純粋な気持ちまで一緒にけなしたんだ。それが悲しくて、悔しくて頭が熱くなる。我慢できない。
「会って話しているうちに、本当に一緒にいたいって思うようになったんだ。あんたこそあたしの心の何を知ってるの、薄っぺらいのはそっちじゃないの」
あたしもなりふり構わずに言っていた。声も大きくなっていて、さっきの仁美の声と同じくらい響く。仁美は変なものを見るような顔をする。
「何言ってるの。私、ハンカチあげたときからずっと好きだったんだけど」
「じゃあどうして今なの。連絡先知ってたんでしょ、お互いに好きだったんでしょ。なんでその気持ちを二年以上放置してたのよ」
あたしは思ったことをそのまま、一気に言った。言い終えて、冷静になった頭で仁美を見る。そうだ。薄々変だと思っていたんだ。
連絡先知っていて好きなら連絡すれば良かったのに。
なんで仁美は最近まで会うことすらしなかったんだろう。
「だって、金剛くん忙しいかと思って」
わかりやすく、仁美は焦っていた。目を合わせることすらしない。
仁美の態度があたしは良く思えなくて、そのまま続ける。
「なんでよ、忙しくても好きな人相手ならメッセのやり取りくらいはするんじゃないの。それに金剛くんは律儀だから時間かかっても返してくれるでしょ」
「金剛くんの負担になりたくなかったのッ」
「じゃあ負担にならない方法探してアタックすれば良かったじゃんッ」
叫んだ仁美につられてあたしも叫ぶ。
仁美の目には薄ら涙が浮かんでいた。ぎり、と噛む音がする。
「五月蠅いよ、そうやって見下して、できなかったことをどんどん
「そんなつもりで言ってないよ、てかアタック方法わかんないなら相談して欲しかったよあたしッ」
一気に言ってはぁはぁと肩で息をする。
仁美は表情を変えない。あたしを睨んだままだ。
あぁ。わかった、わかっちゃった。今の仁美に良い印象が持てない理由。
仁美は逃げているんだ。自分がやらなかったことをあたしの、他人の所為にしようとしている。それで自分は全部正しいですって顔をしたいだけなんだ。
冗談じゃない。ただの八つ当たりじゃん。
そんな理由であたしの気持ちを踏みにじらないで。
ねぇ仁美。声を掛けてから、あたしは息を吸って吐いた。
「相手の都合考えるくらい好きなんでしょ。なのになんで何もしなかったの、なんで今だったの。こんなの、あんたの好きこそ建前じゃん」
「しなかったんじゃなくて、できなかったの。一緒にしないで」
「一緒だよ、だから今こうやって
「喧嘩?何言ってるの、私はただ雑音を聞いてるだけよ」
仁美は鼻で笑った。
また話の内容が飛んでいる。ついて行けなくてあたしは言い返せなかった。
仁美は楽しそうにあたしを覗き込んだ。
「ねぇ知ってる?喧嘩って同レベルでしか起きないんだよ。私とお前は違うんだから喧嘩は起こらないの、わかった?」
あたしはびっくりして仁美を見る。
だってそうでしょ。今の言葉って、あたしが仁美と友だちカウントしてなかったって言っているようなものだ。聞き逃すわけにはいかない。
あたしは慌てて口を開く。
「ま、待ってよ。あたしたち友だちじゃない。だったら同じでしょ」
「今更友だち扱いなんて遅すぎ。友だちだなんて思ってなかった癖に」
いや友だちだと思ってたんですけど。
全然違う考えを言われて、あたしは呆然とした。それにさっきからずっと、仁美の意見とか思ったこととかを一方的に押しつけられている気がする。
本当にこの子は仁美なのかな。全く話が通じない。
どうしようかと考えていたら人の足音がした。
校舎からだ。振り向くと絵里と伊都がこちらに来ている。
二人はあたしたちに気づくと手を振った。
そうだ、二人に相談してみよう。あたしと仁美以外から見たらもっと良くわかるかもしれない。迷惑かけちゃうけど、巻き込む方がずっと良い。
もうすぐ話せる距離になりそう。あたしは手を振ろうと右手をあげた。
そのとき。仁美が二人へ向かってダッシュした。ぎゅっと二人へ抱きつく。
え、え。何が起こったのかわからなくて、あたしは二人の方を見る。二人も状況が飲み込めてないみたい。お互いとあたしを代わる代わる見ていた。
すると仁美は顔をあげた。絵里と伊都が驚いた顔で仁美を見ている。背中しか見えなかったけど、あたしもぎょっとした。
仁美は泣いていた。しゃっくりを上げて、ぼろぼろと号泣する。
「美緒が酷いの。嫉妬して酷いこと言うの、奪ったとか色仕掛けして」
「は、一寸待って」
「ほら今もッ。私、私、何も言い返せなくて。もう嫌だよあの子」
そう言い切ると、
本当に待って欲しい。もう嫌なのはこっちの台詞なんですけどッ。どっと疲れて、あたしは大きく息を吐いた。
「は?美緒、何その態度」
いきなり絵里から怒声が飛んできた。
何で今あたし怒られたの。訳が分からなくて絵里を二度見する。
「ねぇ一寸。なんで絵里が喧嘩腰になってるの、落ち着きなよ」
呆れたように隣の伊都が絵里をたしなめる。あたしも同意見だ。
絵里は怒った顔で大きく口を開ける。
「無理でしょ、仁美が泣いてるんだよ。いっつも穏やかで泣くことなんてない仁美が、こんなにワンワン泣いてるんだよ、怒らないわけないでしょ」
そのまま絵里は仁美を伊都からぶんどった。優しく仁美の背中を撫でる。
伊都は呆気にとられていた。さっきから銅像みたいに動かない。でも多分、あたしも同じ表情だと思う。最中で絵里はあたしを強く睨んだ。
「何があったかわかんないけど、泣かせるのは良くないよ。早く謝りなよ」
「はぁ、何それッ」
我に返ってあたしは絶叫した。足元が擦れて、大きな音がする。
仁美に全部肩入れされなかったのは良かった。けどさ、わかんないなら簡単にどんな流れか聞くべきじゃないの。納得できない。謝るなんてもっと嫌。
反論しようとしてあたしは絵里の名前を呼ぶ。
すると、仁美の肩が震えた。泣き声が大きくなって、絵里の服に皺が寄る。すぐに絵里は仁美へ集中した。伊都ですら、あたしのことなんて見ていない。
目の前がぐらついた気がした。ずっとこうなるんだろうなって、カンでわかった。
あたしが言おうするとき、仁美はずっと泣くつもりなんだって。何も言わせないために。自分を正解にするために。そこまでするの、そこまでやりたいの。
強く吐き気がした。
体の中で煮えて、ぐちゃぐちゃした気分が口から出そうになる。
「もう良い。あたし帰る」
寸前。あたしは吐くのを止めた。代わりに冷静な言葉が出るよう言う。
足音を大きくたてて、あたしは後ろを向いた。行き先は駅前だ。
慌てたように伊都があたしの名前を呼んだ。反応する気分じゃない。何度か呼ばれたけど無視して歩いた。路地を曲がって校門から見えなくなったところで、あたしは足を急がせた。
なんなの、なんなのなんなの。心の中であたしは叫んだ。
叫ぶ度に、苛々と気を燃やす度に、ごうごうと頭が煮えた。熱くて暑くて
だから走った。走ると汗を掻くし風が吹いて涼しい。
ならこの暑さもマシになるでしょ。それに体が冷えて、頭も熱くなくなれば。今度こそ落ち着いて話ができるかもしれないし。
街路樹の下を、犬の散歩をするおじいさんの横を。息を切らせてあたしは走る。
あーやだやだ。全然苛々が止まらない。でも物に当たるのは嫌だった。人は尚更だ、さっき仁美と同じになる気がしてもっと嫌だったから。
持久走並に走っていたかもしれない。
大通りの赤信号で、やっとあたしは走るのを止めた。
ぜいぜいと掠れた声が息と一緒に出てくる。
ぽたぽた、ぽたぽたと滲んだ汗が潤んだ目元近くを伝った。呼吸を無視して走ったから本当にキツい。苦しくてしょうがない。
でも気分はすっきりした。まだ完全に無くなったわけじゃないけど、苛々は小さくなっている。今なら何を言われてもちゃんと答えられるはず。
勿論謝るのまでは無理。いざとなれば徹底抗戦してやる。
よしと
周りの人と一緒にあたしは歩道へ足を出す。
渡りながらあたしは考える。
駅前まで来たのに理由は無い。単に正門から離れたかっただけだし。
本当ならこの後に駅前でお祝いをする予定だったからね、内情は兎も角。
いっそ待ち伏せて修羅場でもしようかな。伊都と絵里には迷惑かもしれないけど、もう巻き込んじゃったからしょうがないでしょ。
こうなったらどんどん巻き込んじゃえ。
ふふっと口から笑い声が出た。そんなときだった。
危ないッ。
後ろで誰かが叫ぶ声がして、ぱっとあたしは照らされる。見れば横断歩道にワンボックスカーが迫っていた。
横から真っ直ぐに。
え、今はあたしたち縦の番じゃ。
そう思ったら甲高い音がして、重たい鉄の塊が横からぐっと当たった。
横断歩道の真ん中から端っこまで、あたしは飛ぶ。
バスケットボールみたいに、コンクリートで体が跳ねた。
うっかり手放したバッグはもっと向こうに飛んだ。
どこかにはあると思うけどわからない。さっきから音がしないから。
聞こうと頑張っているけど頭がぼんやりして駄目だ。
しかも地面についた右横からじんわり温かくなっていく。
嬉しいのは痛さが一切無いこと、でもそれだけ。
立ち上がりたいのに、体は横になったままだった。
力が入らないし、指先を震わすこともできない。あとアスファルトって冷たいはずなのに、さっきから冷感も質感も全くわからない。
どうしよう、こんなことしている場合じゃないのに。
あたしはみんなと会って、修羅場をするんだ。そのときの作戦会議だって、これからしなきゃ。一人対三人なんだから大変なんだよ。
だから早く起きたいのに。一向にあたしの体は言うことを聞いてくれない。
情けなくてやりきれなくて、あたしは車のいる方を睨んだ。
人が両方の歩道であたしを見ていた。
何か言っているみたいだけど顔まではわからない。霞んで全然見えないし、ぶっちゃけ目を動かすのがしんどいんだ。
だけどそんな視界でも見えるもっとヤバいのがわかった。
車だ。さっきより遅いけど、まだ車はあたしの方へ来ている。というか、もうナンバープレートで目の前が埋まる。いやこれ、絶対にヤバいやつだ。
悟っていたら、視界が暗くなって。ぐるりとあたしは1回転する。
そうしてやっと車は止まった。今のは何だったんだろう。閉じそうになる目を必死に止めて、下を見た。
あたしの膝から下が車輪の間にあった。普通じゃ曲がらない方向に足が曲がって、肌に皺ができている。膝なんてもう肌がすり切れて肌色から赤と白が見えていた。うわ、すごい怪我してるじゃん。痛くないから気づかなかった。
というかこれ歩けるのかな。すごい曲がり方してる。立てるのこれ。
あぁどうしよう、駄目だなあたし。
ため息は目と鼻の先にある車体を曇らすこともなかった。
体はやっぱり動かない。耳も聞こえないし匂いもわからない。寝っ転がっているのは感じるけど、それ以外の感覚が無かった。
頭だけはずっと温かくて、布団で寝ているみたいに気持ち良かった。
もういっか。あたしは
さっきから頭まとまんないし。今はぐっすり眠って、起きたら考えよう。きっとその方が良い考えが浮かぶでしょ。
あれ、あれ。でもさ。後でって何を考えれば良いんだっけ。
さっきって何を思っていたんだっけ。
やだなぁ、全然わからない。何でだろう。
無性に泣きたくなって。でも眠たさには勝てなくて。
更にぼやけている車を見ながらあたしは眠りについた。
林夕 シヲンヌ @siwonnu
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