Episode.Sechsundzwanzig.喪由ver.1.1

 気がついた時には、トートの自宅で寝かされていたのです。

「トート? ……寝てる、の?」

 左手に感じた温もりは彼女のものでした。決して強くもなく、弱くもない──丁度よい塩梅で私の手を握ったまま、椅子に腰掛けて眠っていたのです。

 左手に感じる彼女の温もりは心地よくありました──けれど、そう思ったのも束の間。次の瞬間には胸を妬くような不快感と、蛇が背筋を這うかのような怖気が走ったのです。それとほぼ同時、先刻の出来事が鮮明に蘇りました。フラッシュ暗算にも似た速さで、細切れの記憶が駆け抜けていく。

「────ん、なんだ。目が覚めたか」

 息を呑んだと同時、彼女が目を覚ましました。そして私の手を握ったまま、軽い欠伸を一つ漏らしながら「手を握り返してみろ」と口にしたのです。

 ……けど、私は手に力を入れることが出来ません。出来ないというより、怖いのです。故意ではなかったにせよ、私は名も知らないあの人の下顎を叩き飛ばしてしまった。人間の身体が、プリンのように柔く簡単に壊れてしまうと知った。あの時だって、全力で叩いたつもりはなかったのです。

 だと言うのに、あんな結果になってしまった────!


「シオ、なにがあった?」

 仰向けのまま、握り返す事もせずに居ると顔を覗き込まれました。逆光の中であれ、彼女の表情はわかります。一瞬見えた猜疑の色は、瞬く間もなく懸念の色へと変わり──どこか、後ろめたいモノを感じさせるモノへと変化しました。

「……お前が酷い目にあったのはわかるが──」

「──違う……! 違うの、トート」

 上体を起こす勢いそのままに言い返してしまった。そう気付いたのは、彼女の驚いた顔を見たから。そして私の言葉からややあって「何が違うんだ?」と、優しい声で聞いてきたのです。

「私、私が……あの人を」

「……あの人?」

「下顎の、ない人……女の、ヒト」

「──……あぁ、あれか。アレがどうした?」

 変わらず声は優しく、その目には慈しむかのような色をしていました。けれどその瞳の奥には、何か冷たいモノが潜んでいるように見えたのです。

 だから、迷いました。事実を告げなければならない。創造主たる人類には、嘘偽りなく誠実に付き合わなければならないとされているから。

 …………いいえ。そんな建前は抜きにしても、私は事実を伝えたくないのです。その事実を口にしてしまえば、きっと彼女は私を棄てるでしょうから。

 だから、言葉にならなかったのです。頭では何を口にするべきなのかは理解しているのに、それが声にならないのです。言葉に成らないのです。まるで体が「喋る」ということを忘れてしまったかのように、口を動かすことが出来ないのです。

 それでも彼女は待っていてくれました。きっと、私が何を口にしようとしているのか──私があそこでなにをしたのかもわかっているのに。私の手を握って、まっすぐに私を見つめながら待っているのです。


「────………殺して、しまったの。私が、この手で」


 それはあまりにも稚拙で、みっともない声でした。上擦っていて、震えていて。今にも消えそうな程、弱々しい。こんな私の声を聞いて彼女はたった一言「そうか」と、だけ口にしたのです。

 そんな答えは想像していませんでした。と言うより、こんな答えが返ってくるなど誰が想像したでしょうか。人間の道具として造られた人造人間Frankenstein•Monsterが、創造主たる生きた人間を手に掛けたというのに。それは最大の禁忌だと、誰もが知っているはずなのに────彼女は激怒する事も、恐れる事も、糾弾する事もしませんでした。

「お前だって、殺したくて殺したわけじゃないんだろ?」

「それは、そう……だけど」

「だけど?」

「結果として、あの人は……あの人を、殺した。そこに、変わりは、ない」

 そう。その事実だけは揺るぎません。私が手を振ったから、あの人の下顎は砕け、ちぎれました。そんな怪我をさせたのです。当然出血は酷く、その傷口もキレイなものではありません。

「…………あの時、私が──」

「──抵抗しなければ良かった、とでも言うのか?」

「…………うん」

 恐らくは、それが最善手だったのです。あのまま何もしなければ、あの人が死ぬ事はありませんでした。私が動いたから、最悪の結末を生み出したのです。

「────お前が無抵抗だったとしても、死ぬ事に変わりはなかったとしたら?」

 そんな風に考えていたら、全く以って予想外の言葉が飛んできました。確かに寿命や事故、病気、怪我によって人間は必ず死にます。けれど──彼女のいう死は、そのどれとも違うものだと感じさせるだけの圧がありました。

「…………え? どういう、こと」

「お前を助ける為に、アタシがあの二人を殺す。そんな可能性だってあるってだけだ」

「でも、それは……」

「──事と次第によっちゃ躊躇わない。先に手を出したのは向こうで、アタシもお前も被害者なんだぞ?」

 彼女の目を見た途端、わかりました。トートは本気で言っているのです。人が人を殺す──普通であれば忌避されるべき手札カードを、彼女は初めから選択肢に入れている。それは有り得ない考え方なのに……私を助けてくれた人は、マスターの妹は、その有り得ない筈の考え方をしているのです。

「──────、だとしても、殺人は、許されない、はず。それは帰還者レウェルティも、人間も、変わらない……そう、だよね?」

 先の言葉が悪辣な冗談であったなら、どんなに良かった事でしょう。いつものように、無邪気な笑みで「冗談だ」と言いながら頭を撫でてくれたなら──そんな期待を胸に、絞り出された声は酷いものでした。

 ……震え、つっかえ、上擦った、今にも泣きそうな声で。暗闇の中、灯る幼火に縋るような私は──今の彼女の目に、どんな風に写っているのでしょう。


「…………アタシはたまに思うんだ、シオ。なぜ殺人行為はここまで忌避されるのだろうってな」

 私をまっすぐに見返す彼女の瞳は、昏く冷やかで──底の見えない海を連想させました。その視線は相手を萎縮させるようなモノではなくて、ただ向けられるだけで不安を煽り呼び起こす類のモノ。目を背けたいのに背けられない──今まで経験したことのない、異質な感情イロと熱を宿していました。

「そもそもとして、世間一般に殺人行為は許されないのは私もわかる。

 それが何故かと言われれば、殺人を罪とする常識や法律が存在しているからだ。これは法治国家でなくとも変わらない。ある程度の集団が一定の倫理観のようなものを持ち合わせていれば同族殺し──もとい、殺人という行為を咎める空気は出来上がる」

 そんな目で私を見据えたまま、彼女は淡々と言葉を続けます。語る内容におかしな所はないけれど、それらの言葉は本当に薄っぺらく感じてしまう。

 例えるのなら──刑事モノの映画などで、警官らが事実確認のために資料を読み合わせているシーンでしょうか。ここから話を続ける上で、必要だから声にしているだけ。そこに感情といったものは全く見えないのです。


「──だがそれは、あくまでも身内に対してのみだ。人間は大抵、敵が攻めてきたらなんの躊躇いもなく敵を殺す。まぁ多少の葛藤はあるらしいが、戦禍の最中にそんな事を気にするやつは殆ど居ない。殺人は許されない行為だと識っているのに、戦時下に置いては多くの敵を殺す事に心血を注ぐものだ。そして時には英雄として祀り上げ、沢山殺す事を美談にしてしまう」

 目の色も、口調も何もかも変わらない。淡々と言葉を紡ぐ彼女は、私の知る彼女では無いように見えました。

「たとえ戦時下になくとも、仇を討つ為に人は人を殺す事さえある。なにか共感する余地のある動機があれば、人は簡単に同族殺しという行為を容認する生き物だ」

「でも、それは……」

「……それは、なんだ? と言うか、お前も薄々感じていたんじゃないか? 人は人を傷つけていい理由を見つけた時、簡単にその選択肢カードを切るものだって事に。それに人を傷つけると言っても、必ずしも肉体の欠損を伴うわけじゃない。差別的な発言や扱いだって十分に人を傷つけるものだ。お前だってそういう経験の一つや二つはあるんじゃないか?」

 

 彼女の言うことは理解できます。けれどそういった経験の有無についてはよくわからないのです。生きている人間と私達帰還者レウェルティは異なる存在で、帰還者レウェルティは善き隣人であることを求められている人形でしかありません。

 だから、街の人達の反応は正しいものでした。彼らが私たちに対する態度は、どれも正しい反応だったはずなのです。

 ……それなのに、彼女の言い分を聞いてから妙な感覚に襲われるのです。私がこれまで区別だと思っていた言動は、実は差別的な言動だったのではないか? そんな疑問が、沸々と湧いてくる。今までの当たり前が、熱せられたバターのように溶けてカタチを失っていくのです。


「────……これもお前に限った話じゃないが、アタシもお前も自由に生きていいんだ。怒りに任せて何かを壊しても、人を殺したって構わない。働かずに一日酒を煽ってもいいし、ずっと本を読むのもありだ。此処ならなんでも許されている。誰もが自由に生きていける場所なんだよ」

 そう言い切ると、彼女は懐からスキットルを取り出し──片手で器用に蓋を開けて中身を煽りました。


「──ただそれにも条件はある。何をするにしたって、力をつけて正しく使う必要があるんだ。武力にせよ交渉にせよ、力の使い方を知らないと沢山のものを失う羽目になる。そんなのは嫌だろう?」

 

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