Episode.Fünfundzwanzig.Fear≠Terror.ver.1.1

「──は──まだ──ねぇ、か?」

 鈍い金属音に混じって、低い男の声が聞こえます。薄目を開けて見ると──お世辞にもきれいとは言えない天井が視界に映りました。そして私から少し離れた場所では、一組の男女が口論を繰り広げています。

 感情的に捲し立てる女性とは対照的に、男の方は冷静な口調でした。

「だからアタシは連絡したんだって! ちゃんと記録にもあるじゃない!」

「ならどうして解体屋が来ねぇ。ちゃんとアポは取ったんだろう?」

「知らないわよ! とにかくアタシは連絡したんだ、アタシは悪くない!」

 ──解体屋。その単語を耳にした途端、まるで身体中の血が凍ったかのような感覚に見舞われました。早く逃げないと、あの時の様に手足を盗られてしまう──そう、考えた途端にあの時の光景が瞬時に蘇ったのです。

「──っ、う……!」

 ソレは意図しないタイミングでの呼吸でした。息が詰まる程に鋭く短い吸気は、間の抜けた音となって二人の耳に届いてしまったのです。

「まさか、目が覚めたのか?」

「は? 嘘でしょ?! 麻酔がキレるにしたって早すぎるじゃん!」

「まぁ落ち着けよ、拘束帯もしてるんだ。すぐに逃げられる訳じゃない」

 手足が動かなかったのはそういう理由が──なんて考えてる暇はありません。また意識を失う前に逃げ出さなければ、きっと私は帰れなくなる。それは嫌、絶対に嫌なのです。


 ──ブチッ。


 身を捩った瞬間、嫌な音がしました。そして不思議なことに左腕の圧迫感が消えていたのです。

「…………嘘だろ? ジュディ、お前これ、対人造人間Monster用のベルトじゃない奴で縛りやがったな!?」

「はぁ?! ちゃんと緑色ので縛ったし! 間違えるわけないでしょ!」

 二人の声には焦りが色濃く感じられました。そして二人の手には、なんの道具もありません。だと言うのに──ジュディと呼ばれた方の女が、こちらに向かってきたのです。拘束は全て解けているとはいえ、このままでは押し倒されてしまう。

「イヤ……! 来ない、で!」

「馬鹿だね、アンタも! 人造人間Frankenstein・Monsterは人間様に手を出せな────」


 ──ぶちゅっ。


「は……?」

 何が起こったのか、理解できない。男の方はそんな感じの声と表情で固まっていました。そしてそれは──私も同じ。掌に伝わった感覚が、今まで味わったことの無いものだったから。払い除けようとしただけなのに、相手の体が壊れてしまったのです。

 ──私の肌を彩る紅色。

 床に落ちた何かの一部分──あれは、下顎でしょうか。

 そして私の目前では、失くした下顎のあたりを両手でおさえ蹌踉めく女の姿がありました。声にならない嗚咽を漏らし、しとどに溢れる血が地面に血溜まりを作る。蹌踉めき苦しむ彼女が息をする度に、ごぽごぽと響く音。それがなんだか水槽のエアポンプにも似ていて、酷く現実味が薄いのです。

 ……そのどれもが現実離れしている様に感じられました。

 けれど──それは紛れもない現実なのだ──と、掌に残る感触と熱が告げているのです。鼻腔に刺さるこの鉄臭くも生臭い香りが、現実であると囁くのです。そうして女が2、3蹈鞴を踏むと──バタリと倒れ、動かなくなってしまいました。


「──……何なんだよ、お前!」

 叫ぶような怒声と共に、顔面を酷い衝撃が襲いました。殴られたのだと理解した次の瞬間には、腹部を貫かれたのかと錯覚するほどの衝撃が襲います。激昂した男の暴力を前に、私は動くことが出来ませんでした。先程まではちゃんと力が入っていた筈なのに──顔を殴られたあたりから力が入らなくなったのです。それでも身体は痛みを感じ、奇妙な熱を宿し始めました。

「クソが! 無安全装置ノン•セーフティめ!」

 吐き捨てるかのような口調と共に放たれた、爪先蹴りトゥ•キックが鳩尾に刺さる。その一撃に噎せたと同時、一気に口腔内が鉄臭くなりました。そしてこの頃にはもう、指一本たりとも動かせる気がしなくなっていたのです。麻酔の時とは違って、意識はしっかりとしているのに全身が熱っぽい。その上、全ての動作が緩慢で鉛のように重く怠いのです。息をするのもやっとな上、少し息を吸うだけでも鈍く重い痛みが全身に広がっていく。

「……テメェは許さねぇ。四肢だけで勘弁してやろうかと思ったが止めだ」

 彼の視線と声は、頭の奥だけを凍らせるような錯覚を引き起こしたのです。身体中に残る嫌な熱っぽさも、関節が軋むような痛みもそのままに。あの時の兎とは異なる恐ろしさが、彼から感じたのです。

 そんな彼の手には、大鉈が握られていました。

「いや……、たすけ、て────!」

「うるせぇよ。ここにゃ助けなんて───────?!」


 振り上げたと同時、甲高い音と共に大鉈は明後日の方向へと飛んでいったのです。何が起こったのかはわかりませんが、男は鉈を持っていた方の手を抑え膝をついたのです。

「────うちのに何してんだ? ん?」

 底冷えするような声と共に、奥の方から現れたのはトートでした。彼女は私を一瞥するとそのまま男の方へと歩み寄り、なんの前触れもなくその頭を蹴り上げたのです。彼女は仰向けにひっくり返った男の胸を踏みつけると、その手に握った銃を相手の額へと押し付けました。

「何処の誰だか知らねえけどよ。随分とまぁ可愛がってくれたなぁ、おい?」

「うるへ───っ、あぁァァァ!」

 呂律の回りきっていない舌で答えている最中──一発の銃声が鳴り響くと男は声にならない悲鳴を上げました。よく見れば、男の右耳からは酷い出血が起きています。

「……なぁ? 先に手出ししたのはお前らだろ?」

 男が反論しようとした瞬間、彼女は相手の鼻っ面を容赦なく殴りました。それから暫く、男が何かを口にしようとする度に彼女は男の鼻っ面を殴り続けたのです。時折狙いがずれるのか、稀に白い欠片が飛び散ることもありました。これが十数回程繰り返された後、男は謝るような素振りを見せたのですが……何か喋ろうとする度に、顔面を強く殴られたのです。


「────まぁ、こんなもんでいいか」

 そうして男の鼻が完全にひしゃげ、歯の数本を失ったあたりで彼女はその手を止めました。彼女は男から離れると上着を脱ぎ、それを私に羽織らせてから私を背負い歩き始めたのです。


「悪かったな。怖い思いをさせて」

 暫し歩いた辺りで、彼女は突然そんな事を口にしました。その怖い思いというのが、一体どちらを指しているのか──尋ねずともわかります。けれど私は、どう答えたら良いのかわかりませんでした。

 ……きっと、素直に『怖かった』と答えるだけでも良かったのかも知れません。けれど、そのたった五文字を口にするには──些か時間が経ちすぎていました。

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