第三節 Außerhalb des Himmels

Episode.Sechs.出立──C.ver.1.1



「ッ……げほっ……」

 目覚めた時、私は砂利まみれの川岸で倒れていました。

 全身ずぶ濡れで、水分を含んだ衣類が肌に張り付いている感じがします。全身が重怠く、意識は朦朧としたまま──気を抜いてしまえばきっと、私は覚めることのない微睡の中に沈む。そんな予感だけは、はっきりと感じます。

「……っ、う……?!」

 そんな気がした矢先、左胸に激痛が走りました。その痛みは、意識を覚醒させるには充分過ぎるものです。一度知覚してしまえば決して無視できない、体の芯に響くような痛み。それが息を吸う度に襲い来るのです。

 ……呼吸しなければいけないとわかっている。けれど息をすれば激痛に見舞われる──いっその事気絶してしまえば楽になれるという確信すらありました。けれど気絶する事は許されない。視界が明滅するような状態でも、痛みが意識を叩き起すから。

「……?!」

 そんな痛みにも慣れ始めた頃、身体を起こそうとして失敗した。原因は恐らく左腕──右腕には感覚があるのに、左腕には感覚がなかったのです。

 その瞬間、体内を冷水が駆け抜ける感覚がしました。頭だけが冴えきっていて、他のすべてが鈍く、煩いとさえ感じる独特な感覚です。

 ──……よかった。まだ繋がってる。

 恐る恐る視線を左腕へと向け──しっかりと繋がっていた左腕を見て安心しました。

 最悪のケースは免れていましたが、全くの無傷という訳ではありません。裂けた衣類の隙間から見える肌には、深い裂傷が刻まれています。傷口からは、緩やかに出血が続いているようでした。

 胸を始めとして──……全身は未だ痛みはありますが、出来る範囲での治療自己補修はしなくてはいけません。そうしなければ、ここで壊れ朽ちる他ないのですから。

「─────っ、う……げぼっ……ごほっ」

 痛みを堪え上体を起こした瞬間、強い不快感と催吐感に見舞われました。腸の中身が丸々逆流するような感覚で、堪らえようとする気さえ起きません。グルグルと回る視界の中、頭に浮かんだのは仰向けのまま嘔吐してはいけないという事だけ。

 噎せながらもなんとか身体を横向きにして、迫り上がるモノをすべて吐き出します。その間中、胃酸が食道を焼く感覚や、未消化のナニかと混じった饐えた臭い──それらに加え、咳込み吐き出す度に生じる痛みが絶え間なく襲うのです。

 そうして性も根も付きかけた頃──……吐気は大分落ち着いていました。とはいえ、妙な浮遊感と倦怠感に加え、表現し難い苦しさは残っています。


 霞む視界に映るのは自らの吐瀉物。それは殆どは赤黒く、饐えた臭いの中に強烈な鉄臭さが混じっていました。その臭いに覚えはありませんが、なんとなくその正体は想像出来てしまうのでした。

 警備帰還者ガード・レウェルティから貰った一撃か、落下中の負傷かは不明です。けれど、内臓系に深刻なダメージを負ったという事実だけはなんとなく理解出来ました。そして恐らくこれは、限りなく致命傷に近いものです。

 帰還者レウェルティが生身の人間よりは丈夫だとはいえ、これが長く放置出来るものでは無い事はわかりました。

「……誰か、居ないの──?」

 掠れ嗄れた私の声は、川のせせらぎと木々の葉擦れに掻き消されてしまう。もう一度声を出して見たけれど、返ってくるモノはありません。辺りを見渡しても、人の影どころか動物の気配さえ無いのです。

 誰も居ない──そう感じたのと、寂しさを覚えたのは殆ど同じタイミングでした。どうしてかそう感じたのかまでは、わかりませんけれど。たしかにそう感じたのです。

 ここでは何故か、生命の気配……命の色は見えず、聞こえないのです。日が落ちたのもあってか、昏く冷たい気配だけがあって……体の芯よりも深い所が凍える様な気がしました。

 多くの人が心地好いものとされる川のせせらぎでさえ、今となっては恐ろしいモノに思えるのです。

「帰ら、な……きゃ……」

 ──助けは見込めない。自力でどうにかするしか無い。

 どうにか出来なければ、私は誰に知られるでもなくここで腐り、朽果てるしかない。死ぬ事は怖くないけれど……マスターに会えなくなるのだけは、嫌なのだ。

 ……ううん。会えなくなるだけならまだ、受け入れられます。死ねば二度と会えないと知っていますから。

 だから私は──最期の挨拶をしたいのです。別れの言葉もなしに別れるのは、それだけは到底受け入れられない。


 だから重体としか言い様のない身体に鞭打ち、意地と気力だけで立ち上がる。ただそれだけなのに、意識が飛びそうな程の激痛を覚えるけれど……諦める理由にはならないのです。

「痛い、けど……それ、が……なに……!」

 強がりだって事は、わかってる。けれどそうでもしないと、やってられないのです。

 数歩歩けば咳込み、軽度の吐血を繰り返すこんな状態だから。誰も居ない、何も居ない。たった一人で歩むしか無いから、自分で自分を鼓舞するしかないのです。

 もう口の中はずっと鉄臭いままで、視界も歪んでいるような気もするけれど。この歩みを止めるわけにはいかない。諦めたら、そこで全てが終わってしまうから。

「……っ、諦め……ら、だめ……だ、もの」

 鉛でも詰まっているのでしょうか? それとも鎖につながれているのでしょうか? そう思う程に重く、冷たい身体を引摺りどこまで歩み続けたのでしょう。そしてこのまま歩き続けたとして私はマスターのところへ帰れるのでしょうか?

「──だ、め……弱気に、なった……ら──っ!」

 悲観的な思考を振り払うように、自然と頭を振ってしまった。それが引き金となったのでしょう。直後、頭蓋を貫かん程の頭痛を感じたのです。その痛みと共に蘇ったのは、先の逃走劇における断片な記憶──。

 焦燥感に呑まれたマスターの表情。左胸を抉った三発の銃弾の痛み。逃げ延びる為に、マスターがしたこと。傷付けた黒服の二人のこと。アンディオールという男から向けられた、強い恨みを感じたあの視線。

 ……そして、あの警備帰還者ガード・レウェルティから受けた一撃の痛み──


 あの時は逃げようとか、避けようとか……そう思う暇すらなかった。気付いた時にはマスターが発砲していて、それを防がれて──瞬きするよりも早く、彼は私の眼前に立っていた。その直後、私は殴り飛ばされたのです。受け身も防御も、何一つ出来なかった。

 ……だからきっと、私が彼に勝てる道理はありません。今ではもう、抗おうと思えないのです。抗った所で意味はないと痛感しました。

 ──だから、私は逃げるしかないのです。

 人間であるマスターと違い、帰還者レウェルティの私は捕まれば終わりです。凍結破壊処分を受け、何一つとして遺らないのでしょう。それは本当の終わり。蘇ることも出来ない、完全な私という個体の死滅。

「マス、ター……に、会いたい」

 心細さを感じた矢先、小石に躓いてしまった。普段なら反応出来たかも知れませんが、今の私には何も出来ないのです。咄嗟に手をつく事すら叶わず、そのまま前のめりに倒れました。

 その衝撃でハンドバッグの鍵が開いたらしく、蓋の外れた中身の一部が飛び出してしまったのです。慌ててそれを拾い集める最中、入れた覚えのない小さな手帳が目に止まりました。


「これ、は……手帳……?」

 その手帳は、クラミトンについて書かれていました。ニぺージ目には大まかな道程みちのりが記されており、ランドマークとなる物が事細かに記されています。そしてまた別のページには、クラミトンにおける注意事項らしきものが記されていました。


 ──看板持ちには気をつけろ。

 腐龍の腸を避け、欠けた竜骨を目指せ。

 兄妹はそこで待つ。


 また、この場において軛はなく、誰もが自由である。

 クラミトンは自由に呪われた罪人ツミビト達の街。

 故に、私達は何をしても良い。

 だが忘れることなかれ。

 自由であるとは、どういうことなのか──


 内容の大半は抽象的で、イマイチわかりません。欠けた竜骨、看板持ち──それらが何を指しているのか興味はありましたけど、もっと気になるところがあったのです。

「──マスターの字じゃ、ない……?」

 流暢な筆記体で書かれたソレは、マスターの綴る文字とは明らかに異なるのです。そもそも、マスターが筆記体でなにかを書いていた記憶もありません。

 では一体誰がこれを書いたのでしょう?

 それから暫しページを捲り続けましたが、書き主らしき名前は見つかりません。

 その代わりに見つけたのは、隠すように挟み込まれた小ぶりの便箋でした。表面にはマスターの筆跡で『親愛なる妹、トートへ』と書かれていて、裏面には大燭台のシーリングが捺されています。シーリングからやや離れた所には、赤い文字で親展と綴られていました。

「マスターに、妹……?」

 そんな話は一度たりとも聞いたことがありません。ご両親の事も、他の親族についても聞いた覚えもないのです。

 今にして思えば、変な話だと思います。

 自宅に飾られていた写真は全て、私とマスターの二人で写ったものばかり。他の誰かが写ったモノは、一つとしてなかったのですから。

「……この人なら、マスターを、助けてくれる……かな」

 トート。この名前だけは忘れずに、クラミトンへ向かうことにしよう。もしもこの手帳の書き主が彼女であるのなら、クラミトンに彼女がいる可能性も高い。そうでなくても、彼女の事を知る人がいる筈です。

 これだけは無くさないように、ハンドバッグの最奥にしまい込みました。

 そうして進む事数分、進行方向にランドマークと思わしきモノが見えたのです。地面から突き出した手のような、少しばかり不気味なものではありましたが……手帳にあった導に違いないのでしょう。


 ──……六指の腕など、そう目にするものではありませんから。







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