晋書巻84 東晋末の群雄

王恭1  將來の伯舅

王恭おうきょう、字は孝伯こうはく太原たいげん王氏の名士、王蘊おううんの子であり、孝武帝こうぶていのはじめの皇后、定皇后ていこうごうの兄。すなわち外戚である。幼い頃より名声高く、そのすきっとしたふるまいは人並み外れていた。また、自身もその才覚および家門から、宰相として国政をあずかるべきである、と自認していた。太原王氏の別房である王忱おうしんと名声を等しくし、親交を重ね、ひと世代上の名士として第一流と讃えられていた劉惔りゅうたんの人となりを特に慕った。謝安しゃあんもまた語っている。

「王恭の人となり、そして家門。後に皇帝の親族として、よくよく国を守るべき男である」


王恭は普段會稽かいけいに暮らしていたが、あるとき父に連れられ建康けんこうに訪れた。そこに、普段は手紙のみのやり取りであったろう王忱が訪問。このとき王恭は六尺ほどの長さの敷物の上に座っていた。その敷物がよほど見事な模様だったのだろう、王忱は、もしその敷物が余っていたら欲しいのだが、と願い出る。すると王恭、すぐさま敷物から立ち、周りのものに取りまとめさせ、王忱に敷物を送る。その上で「さあ、座りたまえよ」と勧めた。王忱はそれを聞き大いに驚いたのだが、王恭は更に言う。

「別に、良いものにこだわるつもりもないのだよ」

そのシンプルでスマートなこと、おおよそがこのような感じであったと言う。


初任官としては、佐著作郎さちょさくろうの官位が提示された。しかし王恭は嘆息して言う。

「士官したところで宰相になれねば、どうして我が才、我が志を全うできようか!」

このため病と称し、この提示を蹴った。


その後、今度は秘書丞ひしょじょうとして取り立てられ、間もなくして中書郎ちゅうしょろうに転じるよう辞令が出たが、職務に就く直前に父が死亡。喪に服した。喪が明けたところで吏部郎りぶろう建威將軍けんいしょうぐんを歴任した。孝武帝の治世下では沈嘉しんかに変わり丹陽尹たんよういんとなり、中書令ちゅうしょれいに。太子詹事たいしせんじをも兼任した。




王恭,字孝伯,光祿大夫蘊子,定皇后之兄也。少有美譽,清操過人,自負才地高華,恆有宰輔之望。與王忱齊名友善,慕劉惔之為人。謝安常曰:「王恭人地可以為將來伯舅。」嘗從其父自會稽至都,忱訪之,見恭所坐六尺簟,忱謂其有餘,因求之。恭輒以送焉,遂坐薦上。忱聞而大驚,恭曰:「吾平生無長物。」其簡率如此。

起家為佐著作郎,歎曰:「仕宦不為宰相,才志何足以騁!」因以疾辭。俄為秘書丞,轉中書郎,未拜,遭父憂。服闋,除吏部郎,曆建威將軍。太元中,代沈嘉為丹陽尹,遷中書令,領太子詹事。


(晋書84-1)



東晋末のおもしろムーブ名士王恭くんです。なんかもういきなり振る舞いがギャグ。「オレこそが宰相だ!」って本気? ちょっと周囲がちやほやしすぎじゃない?


■世説新語

「吾平生無長物。」

德行44。

https://kakuyomu.jp/works/1177354054884883338/episodes/1177354054888469663



■斠注

中書令、領太子詹事。

太平御覽たいへいぎょらん二百四十五の引く『晉起居注しんききょちゅう』には「孝武帝以王恭爲丹陽尹,領詹事,恭讓表曰:今皇儲始建,四方是式,總司之任,崇替所由,宜妙簡賢才,盡一時之勝,豈臣最庸所可叨忝。」とあるそうです。

孝武帝が王恭を丹陽尹兼太子詹事に任じようとしたとき、王恭はいちど固辞したそうなんですね。その時の書状が残されています。いわく、「陛下が親政をお始めになるにあたり、四方の統治を整えるべきにございます。そのすべてをお取り仕切りになる陛下におかれましては、新たにお役目をお任せとなるものには今この時にその賢才を広く認められておる者であるべきです。どうして臣のような凡才に斯様な大任が務まりましょう」

へ~~~????

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