王恭2  北府の将

孝武帝こうぶてい王恭おうきょうを義兄として重んじていた。あるとき袁悅之えんえつし司馬道子しばどうしに取り入っていた。王恭はそのことを孝武帝に報告。袁悦之は処刑された。


また司馬道子が東府城とうふじょうに名士らを集め、酒宴を開いたときのことである。参列した、当時尚書令しょうしょれい謝石しゃせきが酔いに任せて巷の流行歌を歌い出す。すると王恭が居住まいを正した上で言う。

「畏れ多くも陛下のお側を守るお方が、陛下の弟君のお館にて斯様にだらしのない姿をさらけ出しておいて、どうして群下を従えられるとお思いか!」

謝石はこの一件で王恭を深く恨むようになった。


淮陵內史わいりょうないし虞珧ぐようの子の妻である裴氏はいしは服食の術、要は五斗米道周りのあれこれに詳しく、常に黃衣を身にまとい、その振る舞いはさながら宗教指導者のようであった。そんな裴氏のふるまいを司馬道子は非常に好み、人々と対話させ、その多くを感化させた。

こうした事態に、王恭は苦言を呈する。

「宰相のおられる席に場にたわけたふるまいの人妻がおるなぞ、前代未聞のことではないか?」

この発言に、その場にいた賓客たちは誰も、王恭の方に向けなくなり、司馬道子も大いに恥じ入った。


とは言え、司馬道子はその後も権勢を広げ、孝武帝を圧迫する。それに対抗するため孝武帝も名望家たちを地方統帥につけて対抗せんとし、王恭を都督ととく兗青冀幽并えんせいきゆうへい徐州じょしゅう晉陵しんりょう諸軍事しょぐんじ平北將軍へいほくしょうぐん兗青えんせい二州刺史にしゅうしし假節かせつとし、京口けいこうに赴任させた。すなわち、北府軍ほくふぐんの長である。


なお北府の都督につくに際し、将軍号に「北」を帯びた者が相次いで不幸に遭ったため、桓沖かんちゅう王坦之おうたんし刁彝ちょういはみな鎮北の号を嫌った。王恭もまた分不相応の抜擢であるからと表向き言い出しつつも、実質そういった前例を嫌がり、前將軍ぜんしょうぐんに改めてつけられた。


慕容垂ぼようすい青州せいしゅうを荒らすと、王恭は配下軍を動かし迎撃にあたったが、敗北。輔國將軍ほこくしょうぐんに降格となった。

いやこれたぶん慕容徳ぼようとくだよね?




孝武帝以恭後兄,深相欽重。時陳郡袁悅之以傾巧事會稽王道子,恭言之於帝,遂誅之。道子嘗集朝士,置酒於東府,尚書令謝石因醉為委巷之歌,恭正色曰:「居端右之重,集籓王之第,而肆淫聲,欲令群下何所取則!」石深銜之。淮陵內史虞珧子妻裴氏有服食之術,常衣黃衣,狀如天師,道子甚悅之,令與賓客談論,時人皆為降節。恭抗言曰:「未聞宰相之坐有失行婦人。」坐賓莫不反側,道子甚愧之。其後帝將擢時望以為籓屏,乃以恭為都督兗青冀幽并徐州晉陵諸軍事、平北將軍、兗青二州刺史、假節,鎮京口。初,都督以「北」為號者,累有不祥,故桓沖、王坦之、刁彝之徒不受鎮北之號。恭表讓軍號,以超受為辭,而實惡其名,於是改號前將軍。慕容垂入青州,恭遣偏師禦之,失利,降號輔國將軍。


(晋書84-2)



■斠注


・假節、鎭京口。

廿二史攷異にじゅうにしこうい』二十二に淝水以後の徐州兗州の統治の変遷について書かれています。要するに北府軍の統括役の話ですね。


徐 王蘊おううん京口けいこう

兗 謝玄しゃげん廣陵こうりょう

謝玄 二郡兼務

兗 朱序しゅじょ淮陰わいいん、青州と兼務)

徐 司馬道子

兗 司馬恬しばてん(京口、青州と兼務)

徐 司馬道子

兗 王恭

徐 司馬道子

王恭 二州兼務

兗 劉牢之りゅうろうし

徐 謝琰しゃえん

兗 劉牢之

徐 司馬元顯しばげんけん

桓脩かんしゅう 二州兼務

桓弘かんこうが靑州刺史として廣陵に。

徐 劉裕りゅうゆう

諸葛長民しょかつちょうみんが青州刺史として丹徒たんとに。

そうでは、

京口を南徐州みなみじょしゅう、広陵を南兗州みなみえんしゅうに。


以上をまとめると王恭が晉陵しんりょう(=ようは京口)に出たとき当時はまだ揚州ようしゅうだったでしょ、とツッコミが入っています。

いやたぶん「都督兗青冀幽并徐州/晉陵諸軍事」ってことだと思いますけどね? つまり晉陵は揚州だけど軍府を置く以上王恭にここも任せますよ、的な。



・不受鎭北之號。

同じく『廿二史攷異』二十二でここについてのツッコミが入っています。前段として、徐兗二州都督二は多く「北」の字の入る将軍が赴任しています。このため「北府」と呼ばれるようになりました。


褚裒ちょぼう征北大將軍せいほくだいしょうぐん

荀羨じゅんせん郗曇ちどん北中郞將きたちゅうろうじょう

ともに赴任先で死亡。


范汪はんおう安北將軍あんほくしょうぐん。罷免。

庾希ゆきは北中郞將。桓温に殺されました。

郗愔ちいん平北將軍へいほくしょうぐん。病を理由に退職。

ここまではみな桓沖かんちゅうよりも前。


刁彝は北中郞將として廣陵に赴任、翌年死亡。

王坦之が後任として赴任、翌年に死亡。

その後任として桓沖が鎭北將軍として赴任。ただし刁彝と王坦之が相次いで赴任直後に死んだことから鎭北ではなく中軍將軍として赴任することにしました。なので桓沖伝では北中郞府・中軍将軍として書かれます。

刁彝と王坦之はもともと鎭北将軍じゃないでしょ! 鎭北を突っぱねたのは桓沖だけ! この辺もうちょっと取材しておきなさいよ! と廿二史攷異の著者、銭大昕せんだいきんが怒り狂ってるわけですね。

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