死んだ貴方は星じゃなくて夜になるのね(4)

 高い木の向こうには、への字型の高い建物がそびえていて、茂る枝葉の隙間からははためく日の丸が見えていた。場違いではないだろうか。そんな思いを抱きながら、制服のブレザーの裾をきゅっと引っ張った。

 すーぱーささきちゃんはわたしを招待したあと、自分のアカウントを使って大々的に追悼オフの開催を呼びかけた。もちろんみんな最初は半信半疑だったけれど、しばらくしてアップされた棺に納められたコスモくんとの顔を伏せたツーショットによって、すーぱーささきちゃんを疑う声はぴたりと止んだ。かくいうわたし自身もそのツーショットですーぱーささきちゃんの落札を信じることができた人間の一人で、けれどついこの前まで同じファンだと思っていたすーぱーささきちゃんの家に今コスモくんがいるのだと思うと、なんというかとても不思議な気分だった。

 そして今日――一〇月二九日、わたしは追悼オフに出席するため、紀尾井町のホテルニューオータニを訪れていた。

 ゆるやかなスロープを上ってエントランスへ向かう。停まっている車はどれも高級そうだし、スロープを下ってくる人たちはみんなこなれた様子でお洒落に見えた。わたしはやっぱり場違いだとしか思えなくてすごく帰りたくなったけれど、それ以上にコスモくんに一目でいいから会いたいという気持ちが勝ってわたしをホテルへと進ませた。入口には鎧みたいな制服を着こんだ警備員や毛一本の乱れすら許さなそうな七三分けのホテルマンとかが立っていて、やたらと大きな荷物を持ったマダムを案内したり、背筋の伸びたスーツ姿のおじさんを見送っている。ガラスの扉の向こうにはすごく綺麗な字で〈八乙女コスモ様追悼オフ会〉の文字と会場を示す案内が用意されていた。

 鶴の間という大きな会場へ辿り着き、喪服を着こんだ女性に受付をしてもらう。追悼オフ会なのでドレスコードは通常の弔事と同じで、高校生であるわたしにとっては学校の制服が正装だった。

 既に会場に集まっているのはざっと二〇〇人くらい。これが多いのか少ないのかは見方によって意見が分かれるのだろうけど、チャンネル登録者数がついこの前まで二桁だったコスモくんを知っているわたしとしては、彼の追悼と銘打たれたイベントにこれだけの人が集まっているという事実だけで感慨深いものがある。ちなみにどうして人数が分かったのかと言えば、学年集会で集まったときと同じくらいのような規模感というか、人の密度のような気がしたからだ。もちろん会場の豪華さも集まっている人たちの様子も、学校とは全然違うんだけれど。

 わたしは会場のはじっこに並べられた椅子の一つに腰かける。みんなはそれぞれに割と真ん中あたりに集まって、自己紹介とかをしているみたいだったけど、なにかに寄りかかっていないと落ち着かなくて、わたしはその輪のなかには混ざれなかった。わたしは小さく息を吐いて会場を見回す。まだオフ会が始まる様子はなく、コスモくんの遺体の姿も見えなかった。すーぱーささきちゃんがあらかじめ教えてくれたスケジュールにはコスモくんへの献花の時間が設けられている。わたしは一体、コスモくんにどんな言葉を伝えるべきなのか、または伝えたいのか、今日までずっと考え続けていたけれど、ちっとも決まっていなかった。そもそも、コスモくんが宝石病になってからずっと抱えているもやもやを引き摺ったまま、彼の死を悼んだり悲しんだりすることをしてもいいのかすら、わたしには自信がなかった。


「まきこちゃん?」


 声を掛けられてわたしは顔を上げる。たぶん驚いた顔をしていたと思う。だってわたしはSNSでプライベートな話をほとんどしないから、女子高生の牧田波奈子とSNS上のまきこを結び付けられる人なんているはずがないと思っていたから。

 顔を上げたわたしの視線の先に立っていたのは、鮮やかな金髪が目を引くショートカットの女性だった。切れ長の目ときゅっと引き絞られた弓みたいな唇。シースルーの黒いドレスと薄っすらと透ける白い肌はまるで雲がかかって霞んだ朧月のようで、わたしはきれいな人だなと素直な感想を抱いた。彼女は目が合うと小さく微笑んで、それから耳につけたウサギのしっぽみたいなピアスを揺らしながらわたしに歩み寄ってくる。


「えっと、その、どちら様、ですか」


 戸惑うわたしに身を乗り出した女性がにっと白い歯を見せる。それでなんとなく彼女の正体に察しがついたのだけど、それはあまりに意外だったから、わたしはすぐに反応することができなかった。


「うちだよ、うち。すーぱーささきちゃんでぇす」


 口元を指差した人差し指のネイルは金粉を散りばめた濃紫色で、それは間違いなくコスモくんの命を奪ったラピスラズリをイメージしたものなのだろうけど、ちょっと悪趣味というか、わたしはどんな顔をすればいいのかが分からなかった。


「はじめましてだねぇ、まきこちゃん。高校生だったとはまさかだよん」


 DMのときとほとんど変わらない語り口。すーぱーささきちゃんは席を一つ空けてわたしの隣りに腰を下ろす。


「あ、どうしてわかったの~って顔だねぇ。だってわたし主催者だよ? 受付で名前伝えてたの見つけたから、すぐに分かっちゃうのだ。ふっふっふ~」


 研ぎ澄ました刃物みたいにクールな見た目とDMの雰囲気そのままの口調が全然噛み合っていなくて、わたしはどうしたものかと困惑しながら、それを誤魔化そうとすーぱーささきちゃんの耳元で揺れているピアスをじっと見つめた。


「すーぱーささきちゃんさん、お金持ちだったんですね」


 いちおうの初対面で、あんまり黙っているのも失礼かと思って、わたしはそう言ったけれどむしろお金の話のほうが失礼だったかもしれない。案の定、すーぱーささきちゃんは顎に人差し指を当てて小さく唸ると、ぱっと顔を上げてわたしに向けた。


「ちゃんさん」

「はい?」

「ちゃんさんておかしいじゃぁん。今まで通りすーぱーささきちゃんて呼んでよ」

「あ、はい。じゃあ……すーぱーささきちゃん」

「よろしい」


 すーぱーささきちゃんは満足そうにそう言って頷いた。なんだかわたしの質問というか問いかけは、うまくはぐらかされてしまったようだった。


「あの、コスモくんは、これからどうなるんですか?」


 わたしは別の質問を重ねた。すーぱーささきちゃんは椅子にからだを預けて、それから右手を斜め上に掲げる。綺麗な夜空で彩られた人差し指と親指のあいだに、コスモくんだった夜のかけらがあった。


「今は冷凍保存してる。今日が終わったら、ラピスラズリの部分は取り除いて、ちゃんと火葬して、お墓立てるんだぁ。ラピスラズリはそうだなぁ、加工してオブジェにでもして飾ろうかな」


 すーぱーささきちゃんは急に平坦になった声でそろりと言った。それはエレベーターに乗ったときの自動音声みたいな人間味のなさで、わたしは少し寒くなった。


「すーぱーささきちゃんはどうして、コスモくんを買ったんですか?」


 わたしは訊いた。訊かなければならないような気がした。コスモくんが文字通り人生を削って手に入れようとしたすべての、行き着く先を、一ファンとして見届けたかった。


「んーとね、買えたから?」


 こう言うとおこがましい気もするけれど、すーぱーささきちゃんから返ってきた答えはわたしがこうあるべきだと勝手に思っていたものとは少し違った。すーぱーささきちゃんはへらりと笑う。


「だってぇ、どこの誰かも分からない人がコスモくんのこと買うなんてやだもん。ほら、だってこれって愛でしょ。死んでいく俺を買ってってコスモくんの最後のファンサ。だったらぁ、ファンとしてはやっぱりその愛に応えないとねぇ。えへへへ」


 すーぱーささきちゃんの緩んだ口元から白い歯と真っ赤な舌が覗く。切れ長の目はとろんとしていて、確かにわたしを見ているはずなのにどこでもないどこかを映しているような、そんな気分にさせられた。


「うちとコスモくんはようやく結ばれるんだぁ。家族になるんだよ、家族。宝石病が、うちたちを家族にしてくれたの」


 いたずらを思いついた子供みたいに小さく笑って、すーぱーささきちゃんはコスモくんのかけらを愛おしそうに胸に引き寄せて、それからそのかけらを胸の谷間に仕舞った。

 わたしは顔がかっと熱くなるのを感じて、だけど何も言えなくて、それじゃ楽しんでねぇん、と手を振って立ち去っていくすーぱーささきちゃんを黙って見送った。すーぱーささきちゃんがいなくなっても、わたしは椅子に座ったまま、太ももの上に置いた両手を真っ白になるほどに握っていた。だって違うのだ。コスモくんが自分の身体を売ってまでして伝えたかったことはきっとそうじゃない。それはファンへの愛なんかじゃなくて、きっともっと切実な、部屋の隅で小さく震える子供のか細い声のような、そういう願いなのだ。

 開場がふつと暗転した。壇上にスポットライトが灯って、目を凝らすとマイクに向けて話しているすーぱーささきちゃんが見えた。コスモくんを落札したすーぱーささきちゃんでぇす。今日は、みんなでコスモくんを囲んで、いーっぱいお話しながら、コスモくんのことを見送りたいと思いまぁす。

 会場からはまばらな拍手が聞こえた。すーぱーささきちゃんはみんなの拍手に手を振って応えていて、その立ち振る舞いは群がるコバエを払いのけているように見えた。そしてたぶん、それはまったくの的外れというわけでもないのだろう。すーぱーささきちゃんはもうコスモくんに恋焦がれるだけのファンではなく、実質上も法律上も彼の所有者オーナーなのだから。

 オーナー、とわたしは頭のなかで繰り返して、ふと理解が湧いてくるのを感じた。それは水のなかに沈んでいたはずの浮き輪が宙へ飛び出すような勢いで浮き出すのと似ていた。

 開場がどっと沸いて、歓声が飛び交った。わたしは壇上のほうへと再び意識を向ける。歓喜の叫びには号泣して泣き崩れる人が混ざっていて、壇上にはもくもくと冷気を漏らしながら斜めに立てられた透明な棺があった。もちろん棺のなかにいるのはコスモくんで、遠目でも見えている顔のほとんどがラピスラズリの濃紫色に覆われているのが分かった。

 わたしはたぶん、泣き崩れている人たちと同じ気持ちだった。コスモくんは死んでしまったと頭では分かっていたはずのことだけど、心はまだそれを受け入れられてはいなくって、もう動くことのないコスモくんという現実を突きつけられてようやく、彼の不在を正しいかたちで受け入れられたのだ。わたしは泣き崩れている人たちと同じ気持ちのはずだった。それなのにやっぱり涙は出なくって、わたしは線がはっきりとした明瞭な視界にコスモくんを収め続けていた。

 涙を心の薬だと歌ったのは、たしか何かのアイドルグループだった。ならば涙が出ないわたしの心はどうやって癒されればいいのだろうか。負った傷は、生々しく痛んだまま治ることはないのだろうか。

 泣き声は、挨拶が終わって立食パーティーが始まってからも、あちこちから聞こえてきた。さっきまで上がっていた歓声や楽し気な会話の声も、きっとコスモくんは楽しく笑っているのが好きだったからと無理をしているみたいで、少しだけ痛かった。

 食事はバイキング形式で、ローストビーフとか名前は分からなかったけれど香ばしくて甘い匂いのする魚料理とか、普段のわたしの生活では到底お目にかかれないだろう品がテーブルに並んでいた。けれど手を伸ばす気にはなれなくて、結局わたしはウェイターにサーブされて反射的に受け取ってしまったオレンジジュースだけをちびちびと飲んだだけだった。

 そしてとうとう献花の時間がやってくる。

 わたしたちはすーぱーささきちゃんが用意したのであろう百合の花を受け取って、順番に棺に納めていく。なかには事前に伝えていたらしい、コスモくんが好きだったコアラのマーチとかドクターペッパーとかを一緒に収める人もいた。

 わたしの順番が近づく。前の人の動きに合わせてぞろり、と足を前に進める。

 みんなが泣いていた。しとしとと声を殺して泣く人も、今が世界の終わりだと言わんばかりに声を絞り出して泣く人もいたけれど、みんなが泣いていた。さっきまでの楽し気な雰囲気はどこかへ消えて、笑っていた人もみんな、泣いていた。

 たぶん泣いていないのはわたしだけ。もしかして泣かなくてはいけない、そういう宗教の儀式に迷い込んでしまったのかもしれないと、そんなことを考えて、悲しさはどんどん遠退いて、代わりに自分に対する異物感が膨れ上がって、わたしはますます涙から遠ざかっていった。

 わたしの前のふくよかな女性が棺の横に立って、両手で顔を覆う。手に百合の花を持ったままだったので、花が鼻に潰されて、白い花びらがぽろりと落ちた。

 彼女が周りの人に支えられて献花を終えて、とうとうわたしの番が巡ってくる。両手で持った百合をぎゅっと握って、息を深く吸って、大またの一歩を踏み出して、棺のなかを覗き込む。

 コスモくんの表情は安らかで眠っているだけのようだったけど、やっぱり顔色に生気のようなものが感じられなくて、そこにもう命がないこと、死体というなのだということが改めて突き付けられたようだった。

 お腹の上で組まれた手に百合を添える。触れた指先に硬くて冷たくなったコスモくんを感じた。わたしは人差し指でコスモくんをなぞりながら、夜になった頬に触れる。手のひらをぴとりとつけて、きっとまだかすかに残っていると信じたかった何かを感じ取ろうと目を閉じる。そして、わたしは手にめいいっぱいの力と体重をかけて、コスモくんの耳を折った。


 ぱきん。


 少し間の抜けた音がして、わたしの手には夜を固めたラピスラズリーーコスモくんの耳が握られる。

 自分でも何をしているのか分からなくて、だけどそれ以上に会場じゅうのみんなは何が起きたのか分かっていなくて、わたしはコスモくんの耳を握り締めたまま、無我夢中でその場から逃げ出した。

 呆然としている誰かを突き飛ばす。悲鳴を置き去りにして鶴の間の入口を目指す。誰かがコスモくんの耳がなくなっていることに気づいて叫び声を上げた。取り押さえて、と声が迫った。わたしはそのぜんぶを振り払うように全力で走った。

 鶴の間を飛び出し、階段を駆け下りる。途中、掴まれた腕は力任せに振り払って、掴んだ相手がどうなったかなんて確認もしなかった。わたしはホテルニューオータニを後にして、点滅する信号にも構わず交差点を横切って、駅の改札へと飛び込む。ホームには間もなく電車が到着するとアナウンスが響いていた。


「どういう、つもりなのっ」


 息を整えていると、強い力で手首を掴まれた。振り払おうとしたけれど振り解くことはできなかった。ぼさぼさになった金髪の奥から覗く、すーぱーささきちゃんの鋭い視線から逃れるように顔を伏せる。


「なに、考えてんの、まきこちゃん」


 わたしが黙っているのを好機と思ったのか、すーぱーささきちゃんは語気を強め、手首を掴む手の力を強める。


「泣いたって許さないよ。なんてことしてくれたのっ」


 すーぱーささきちゃんに言われて、わたしは自分が泣けていることに気がついた。自由になる手で頬に触れる。濡れている。長年募っていた澱のようなものが一気に晴れていく一瞬のはずなのに、わたしは自分がいま泣いている理由に見当もつかなかったし、目の前ではすーぱーささきちゃんがわたしを睨んでいる。一つたしかなのは、後ろめたさはあるけれど怖いから泣いているわけではないということだった。それだけでほんの少しだけ安心できた。


「うちのコスモくん返して」


 すーぱーささきちゃんは自信に満ちた声で言って、わたしは全身を固くするように力を込めた。電車がホームに入ってきて、巻き起こった風がわたしのスカートを揺らしていった。


「コスモくんは誰のものでもないです」


 わたしはすーぱーささきちゃんを真っ直ぐに見て言った。すーぱーささきちゃんはほんの一瞬たじろいで、駅に発車のベルが響く。電車が走り出して、ゆっくりと空気がかき混ぜられていった。


「どうしたの、まきこちゃん。うちが金出して買ったんだから、うちのもんじゃん」


 きっと誰が見てもその通りで、すーぱーささきちゃんは間違っていなくて、間違っているのはわたしだった。だけどわたしはコスモくんのかけらを握るその手の力を絶対に緩めてあげるつもりなんて、これっぽっちだってなかった。たとえ致命的に間違ったことをしていても、守ってあげたい願いがあった。


「すーぱーささきちゃんって、いつからのファンですか?」


 わたしは訊いた。すーぱーささきちゃんは怪訝そうに眉をひそめた。


「なに? それが何か関係あんのー?」

「ううん。知らないならいいんです」


 わたしは腕を振った。すーぱーささきちゃんはそれでも離してくれなくて、わたしは向かい合っている彼女を突き飛ばすように前に踏み出した。

 すーぱーささきちゃんはバランスを崩して尻もちを突く。わたしは反対側のホームに到着した電車へと駆け込んだ。


「ちょっとっ」


 すーぱーささきちゃんが立ち上がるのを待たずに扉が閉まる。ゆっくりと走り出した電車のなかで、わたしは扉に寄りかかって、力が抜けていくのに任せてずるずるとその場に座り込んだ。


 いつもより遠回りをしながら家に帰ったわたしはおばあちゃんのごはんも食べず、周大の絡みも無視をして、すぐに部屋へと上がってベッドに突っ伏した。

 しばらくして恐る恐るSNSを開くと、すーぱーささきちゃんがわたしのアカウントを非難のコメントと一緒に晒していた。当然、DMは山のように届いていたけれど、わたしは読まずにアプリを閉じた。それからわたしはSNSもMy tubeも、コスモくんに関わるネットのわたしのすべてを削除した。あれだけ生活の大半を占めていたはずのものが指先一つで消えていくのはなんだか不思議な気分で、少し寂しいような気もしたけれど、気がしただけで、わたしの指は迷うことなく淡々と、ぜんぶで一五分とかからずに、わたしとコスモくんの目に見えるつながりを消していった。

しんと静まり返った部屋のなかで、夜のかけらだけが残ったものだった。


   †


 景色が歪んで見えるほど暑い、ある夏の日、住職は珍しい光景を見た。

 身寄りのない人を合同埋葬する無縁塚に人がやってきたのだ。かれこれ二〇年以上もこの寺で住職を務めているが、記憶違いがなければ初めてのことだった。

 いつものように社の周りを掃除していると、スーツ姿の女性に声を掛けられる。無縁塚にお参りをしたいのですが、場所を教えていただけませんか。驚きはあったし、不思議でもあったが断る理由はなかった。住職が丁寧に無縁塚までの道順を案内すると、女性は深々と頭を下げて立ち去っていった。胸に下げた大きな琥珀色のネックレスが綺麗で印象的だった。

 一時間もするとその女性が戻ってきた。無事にお参りできましたか。住職はそう声をかけようとして口を噤む。何か事情があるのかもしれない。目を真っ赤にして泣いている彼女を見てそう思った。

 日が傾き始めて、住職は無縁塚へと足を運んだ。あの女性がなぜ泣いていたのか、無縁塚を訪ねてきたことも相まって、どうしても気にかかっていたからだ。

 一人、黄金色の光が差す墓地を歩く。美しい夕陽に反し、墓地の様子は寂しげだ。汚れた卒塔婆。枯れた花。食い荒らされたお供え物。区画には雑草が茂り、墓石には鳥の糞がこびりついているのも珍しくない。遠くの空からは姿の見えないカラスの声がか細く聞こえていた。

 時代の流れ、なのだろうか。この二〇年で、お墓参りに訪れる人は目に見えるほどに減った。今を生きる人たちからすれば、管理の必要なお墓というのはただの重荷や枷でしかないのかもしれない。忘れられ、時間の波から少しずつこぼれ落ちていく死者たちのことを思うと胸が痛んだが、きっとそれは幸せなことでもあるのだろうと思う。死という喪失から立ち直り、生きる人々が未来へ進んでいく。近頃は少し、生き急ぎすぎているようにも感じられたが、それでもいつまでも過去に囚われ続けるよりはいいのかもしれない。

 無縁塚に辿り着く。無数の、生前から忘れ去られた魂が眠るこの場所は、墓地の他の場所と比べてもことさらに寂しげだった。枯れる花さえ手向けられることはなく、啄まれる饅頭の一つさえ供えられることもない。

 だけど今日はそんな無縁塚に、ぽつりと供えられるものがあった。一束の仏花とそれから間もなく訪れる夜をかすめ取ってきて固めたような一粒の石。

 一体誰に手向けられたものなのだろうか。考えたところで分かるはずもない。だがあの女性が少しでも心を軽くして歩いていけるのなら、それで十分だと思った。

 みゃぁお、と後ろで何かが鳴いた。住職は振り返る。黒猫が一匹、無縁塚の前で立ち止まっていた。その視線の先には二回り小さな黒い子猫がいて、母猫の呼ぶ声に応えるように小さく鳴いて跳ねるように駆け寄っていった。

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死んだ貴方は星じゃなくて夜になるのね やらずの @amaneasohgi

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