ビニール傘

 傘を間違えたことに気づいたのは喫茶店を出てしばらくたってからだった。


 どこにでもあるビニール傘だったが、柄の部分に赤いシールが巻き付いている。誰のモノかはわからないが、私のものでないことだけは確かだ。そう思って改めて見返すと、自分の持っていた傘より少し新しい。ビニールにもどこかハリがある。


 もともとくたびれ具合しか手がかりのない傘だったから、今までも何度か取り違えをしてきたかもしれないが、こうもはっきりと証拠がのこっていると少しばつが悪い。


 どうして気づかなかったのだろう。緊張でもしているのだろうか。今更? なんだか笑えてくる。


 ちらちらと視界に入る赤色が目障りで、爪をひっかける。少しだけ力を入れると思いのほかあっさりとシールははがれて濡れたアスファルトの上に落ちる。

 

 これでこの傘は完全に私のものになった。

 というより、誰のものでもありうるようになった。


 雨足は弱く、風に流されて水滴がまっすぐ落ちてこない。衣服を湿らせるだけの雨は鬱陶しく、ぐずついた靴下は私をみじめな気分にさせる。傘に当たる雨音がノイズとして響き、頭の中をぼうっとさせる。


 よくないことをしている自覚はある。もう彼の家に行くつもりはなかった。なのに身体は道筋をすっかり覚えていて、ほとんど自分の意思とは関係なく足が進んでいく。


 灰色のマンションが見えてくる。読めないけどオシャレなのであろうフランス語の名前は、その外観に似つかわしくない。


 入り口で傘を閉じ、雑に水滴を払う。もう、誰かの傘だったことは忘れかけている。傘にあたる雨音はなくなったが、頭の中のノイズは収まらない。


 エレベーターに乗って「3」のボタンを押す。それだけでどっと疲れた。「今ならまだ引き返せる」と「今更もう遅い」の二つが心の中で首をもたげる。が、どちらもどこか惰性じみていて、激しい葛藤を生むこともなく二つともノイズの中に飲み込まれた。


 扉の前。302号室。インターホンのボタンに指が触れる。指先から走るためらいも、どこか遠い出来事のようだ。傘はいつの間にか透明感を失っていて見るからに安っぽい。もうすっかり私のものだ。


 突然扉が開く。


 ボタンを押す前だったので少し驚いたが、現れた男のどこか冷めた顔を見たら、なんだか全てがどうでもよくなってしまった。


「……入って」


 促されるままに玄関に入る。小さな部屋だ。傘立てなんてない。ドアノブに柄をひっかける。


「雨、降ってた?」


 興味の無さそうな男の声。頭の中がノイズで満たされる。自分が自分から遠のいて、目の前の光景からリアリティがなくなっていく。


 私は誰のものでもない。

 もう私のものでさえない。

 何も考えられない。考えたくない。


「……少しね」


 私はそう言いながら、後ろ手でそっと指輪をはずした。

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