六 狸と傷心の酔っ払い

「ごめんね、他に好きな人ができちゃったの」


 そう告げる彼女の目には愛情が宿っているように見えたが、その焦点はきっと俺には合っていないんだろう。


 ◇


「どゔじでぇ……どゔじでぇ……俺の゙何が駄目だっだの゙ぉ゙……」

「そういう女々しいとこじゃね」

「追い打ちやめろよぉ!」


 彼女の前では格好つけて「幸せになれよ」なんて言って立ち去ったけど、結局友人を呼びだし居酒屋で号泣している。彼女のことを忘れて新しい恋に生きることは簡単には出来そうもない。


「俺、そろそろ帰るな」


 いつの間にか帰り支度を整えていた友人が薄情なことを告げる。


「えっ……終電まだだよ?」

「九時四十二分の直通に乗りたいんだよ、楽だから」

「俺と乗換えせずに帰れる電車、どっちが大事なのぉ!」

「電車」


 即答した友人は改札の中に消え、俺は一人街に残される。大好きな彼女との思い出が詰まった街に独りぼっちだ。


 彼女と訪れた写真屋、土産屋、ちょっとレトロなアーケード街。桜が見事な神社と、その向かいにある和菓子屋。人工島へ向かう赤い大きな橋。おんぶして渡ると結ばれるという伝説があるけど、その後の保証なんてされてなかったってことか。恋人の聖地などと書いてある石碑や愛を誓ってフェンスに付けた南京錠は、以前と変わらずそこにある。


 恋しい気持ちから足の赴くまま散歩をしたけど、余計に寂しくなっただけだった。もういっそ身投げしてしまおうかと暗い海を覗きこむ。覗き込んで、身を乗り出して、結局やめた。こういう意気地の無さや優柔不断さがフラれる原因だったのかな。


 さすがにそろそろ帰ろうと、溜息を一つついて踵を返した。すると、どこからか賑やかな歌声が聞こえてくる。


――つん、つん、月夜だ

――みんな出て来い、来い、来い


 聞き覚えのあるメロディーに、太鼓を叩く音まで混ざっている。

 終電の時間はもう過ぎてしまった。乗り逃した酔っ払いか、それとも地元の愉快な奴が騒いでいるのか。


――てん、てん、天狗

――ゆっ、ゆっ、雪女

――おー、おー、鬼


 寺の境内は薄暗いけど、辛うじてシルエットが見える。背に羽があるのが天狗で、大柄な体の奴は鬼だろうか。なんだか妙に角が丸い気もするけど。そして真ん中に立つ小柄な人物がおそらく雪女。勢揃いじゃないか。人恋しい夜だ。俺も混ぜてもらおう!


「にん、にん、人間!」


 妙な節をつけながら登場すると、天狗と雪女と鬼は一斉に俺を見た。そして悲鳴を上げると同時に爆発音と煙が上がる。


 いったい何が起きた? 煙に咳込みながら前方を見ると、板碑の後ろから何かがこちらを伺っている。丸みを帯びた耳に黒い目元、長い鼻先。そんな三匹が再び板碑の後ろに姿を隠すと「人間に見つかっちまったよ!」「どうすんだよ兄貴ィ!」「落ち着け、堂々としてりゃあ大丈夫だ」などと話す声が聞こえてくる。丸聞こえなんだが?


「ヤァ、兄さん。今日は良い月夜だねェ」


 何事もなかったかのように袴姿の男が出てきて挨拶をする。額と頬に傷があるけどかなりのイケメンだ。そして隣には青海波の着物を着た女が寄り添っていた。二人に遅れて出てきた着流し姿の男には……、丸い耳と太い尻尾がついている。


「コラッ、ヤス! アンタまた隠せてないよ!」

「ヤスゥ! 頑張れ、隠せ!」


 先に出ていた二人に頭や尻尾をもみくちゃにされる様子を見て、思わず声をあげて笑ってしまった。三対の目がまたもやこちらを心配そうに伺う。もう、何だっていいや。俺は手に持っていたビニール袋を掲げた。中には先程無意識に買ってしまった、彼女の好物だった缶チューハイとピーナッツが入っている。


「月見酒でもしようじゃないか、可愛い尻尾のお三方」

「エッ!? 酒!?」


 ヤスと呼ばれていた男が興味津々に声を上げた。二人はヤスを制するが、顔を見合わせたのち半分諦めたように息を吐いて笑う。



 袴姿のイケメンがサブロウ、寄り添う彼女がトミコ、もみくちゃにされボサボサ頭になったのがヤス。それぞれ名乗ってからはもう愉快な酒盛りの始まりだ。


 宴もたけなわという頃、サブロウとトミコによる即興劇が始まった。囚われのトミコを救いだそうとするも失敗し瀕死の重傷を負うサブロウ、一方でトミコも逃げ落ちる途中で追い詰められ海に転落。一命をとりとめた二人は再会を果たし愛を誓う。サブロウが「命がありゃあ、話せるなァ」とトミコを抱き寄せた場面は涙なしには見られず、ヤスの尻尾で拭いてしまった。


 そして終いには、俺も狸も腹を叩いて馬鹿騒ぎ。ぽんぽこぽんぽこ大騒ぎ。こんなに楽しい夜はない。しかし眠気には抗えず、うとうとしてきた俺の耳に最後に届いたのはサブロウの言葉だった。気に入ったのか何度も繰り返しているやつだ。


「命がありゃあ、何だって出来るよ。命がありゃあ……」



 気づけば、俺は店頭に置かれた信楽焼の狸に寄りかかって寝ていた。狸の腹をぺちぺちと叩いても撫でても、陶器の冷たい感触しか伝わってこない。

 夢のように楽しい時間は、本当に夢だったのだろうか。そりゃそうだ、狸が歌ったり変化したりだなんて所詮は物語でしかない。でも、あの楽しい時間を想えば、少しだけ前向きになれるような気がした。


 天狗や雪女や鬼だって隣人になったんだし、そのうち狸もそうなったりしてな。なったらいいなぁ、なんて考えながら駅へ向かう。

 この時こっそり様子を伺っていた三匹の狸に、俺は気づいていなかった。仲良しの毛玉たちは駅前モニュメントの影から密かに手を振って友を見送り、早朝の清々しい空気の中をじゃれ合いながら帰っていった。

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