第15話

「それで、話って?」


 ささくれた木のテーブルの上に、ふちの欠けたティーカップが置かれる。中身はお茶ではなく白湯のようだったが、ありがたくいただくことにした。


「……何から話せばいいのかしら」


 まずは、私が今置かれている状況を話した方がいいだろう。私が殿下と再婚約を結ぶという事実が、ローゼにどの程度の衝撃を与えるのか見当もつかず、言葉に迷ってしまう。


 隣ではリーンハルトさんが穏やかに微笑んで私たちの会話を見守っていた。エリクはゆりかごのそばに座って、赤子の様子を見ている。


「じゃあまず、その綺麗な男のひとは誰? まさか、お姉さまの恋人? 殿下を捨てたの?」


「ち、違うわ。リーンハルトさんは、あなたを探す手伝いをしてくれたの。今はふたりきりだけれど、今朝までリーンハルトさんの妹さんとも一緒に行動していたのよ」


「ふうん……お姉さまの好みって、そういう優しげなひとなのかと思っていたわ。殿下と並んでいるときよりお似合いよ」


 棘のある言葉に、わずかに視線を伏せてしまった。その反応が気に食わなかったのか、ローゼが大袈裟なため息をつくのがわかった。


「……お姉さまは、いつお目覚めになったの?」


「春が始まるころよ。そこで、あなたの失踪と……私が殿下と、もういちど婚約を結ぶ話を聞いたわ。あなたがあまりにも見つからないから、代わりに私が殿下と婚約することになったの」


 ぎゅ、とワンピースを握りしめて、ローゼの反応を待つ。ローゼとあまり会話を交わしてこなかったせいで、何が彼女の逆鱗に触れるかわからず怖かった。


 だが、続く言葉は予想外のものだった。


「……私がいなくなったことで、お姉さまと殿下は『元通り』になれたのね。お姉さまにとってはいいことだったかわからないけれど……でも、よかった」


「元通り、ですって……?」


 ローゼに、そんなことを言われるとは夢にも思っていなかった。悲しいのか虚しいのか、よくわからない感情で胸が詰まる。


「殿下は……今もあなたを捜しているわ。私は、あなたの身代わりでしかない」


 澄み渡る空色の瞳を、まっすぐに見据えた。こぼれ落ちそうなほどに大きな瞳が、驚いたように見開かれている。


「お姉さまが私の身代わりですって? お姉さまって、お勉強はできるくせに本当に人の感情には鈍いのね。そこまで重症だといっそ殿下が憐れだわ」


「殿下に大切にされていることはわかっているわ。……でも、あなたたちには敵わない。あなたたちは、夜を共にするほどに、深く愛しあっていたのでしょう?」


 あの話を聞いたときの衝撃がまざまざと蘇って、目眩がしそうだった。重苦しい沈黙が、場を支配する。


 ……あのゆりかごの中で眠る子が殿下の御子なのだとしたら、このままローゼとあの子を連れ帰るしかないわ。


 あの夜、殿下の従者も言っていたことだが、王家の血を継ぐ子どもを、野放しにするわけにはいかない。ローゼが逃げたことにも訳があるのだろうから心苦しいが、それだけは譲るわけにいかなかった。


 だが、ローゼはくすくすと呆れたような笑い声を上げた。


 軽く小首を傾げながら、口もとに指先を当てて笑う様子は、可憐でありながらぞっとするほど妖艶だった。化粧気がないのに赤い唇は、よく見ればどこか自嘲気味にも見える。


「……殿下が私を愛してくださったことなどいちどもないわ。視界にすら、まともに入っていなかったんじゃない?」


 ローゼは笑いながら震えるため息をついて、空色の瞳で私を捉えた。


「お姉さま、私ね、殿下に一目惚れしたの。あんなに美しいひとがこの世にいるのかって、驚いたのよ。でも、殿下はすでにお姉さまの婚約者だったから、ああ、邪魔だなあ、と思ったの。……だから私、殿下とお姉さまがお出かけする日にちょっとした事故を起こそうと思ったの。使用人にすこし甘い言葉を囁いて、馬に興奮剤を与えてね」


 ……殿下と私が出かける日? それって、二年半前のあの事故のことを言っているの?


 さあ、と血の気が失せていく。ローゼは、そんな私とは対照的にくすくすと笑いながら言葉を続けた。


「思った以上にうまくいってしまって笑いが止まらなかったわ。お姉さまはいつ覚めるともしれない眠りについて、私は殿下の婚約者。ようやくお姉さまという目障りなものが消えて清々したの。これでなんの障害もなく、殿下と愛し合える、そう思ったのに……」


 ふっと、ローゼの表情が翳る。まるで、思い出すのもつらいと言わんばかりに、空色の瞳に憂いがにじんでいた。


「お姉さまが眠りについてからの殿下は、ひどいものだった。抜け殻みたいだったの。公務はなんとか果たしていたけれど、殿下が感情らしいものを見せる場面を見たことがなかった。……殿下の心も、お姉さまと一緒に眠りについてしまったのだと思ったわ。私が話しかけても、くちづけても、殿下は私のことなんて一瞬たりとも見なかった」


 空色の瞳が、憂いを帯びたままに鋭くなる。彼女は、まるで睨みつけるように私を見据えた。


「殿下はそれだけ、お姉さまを想っていらっしゃるのよ」


「……っ」


 すぐには、信じられなかった。殿下はいつでも私の前では凛然としているから、抜け殻のような姿はすこしも想像できない。


 ただ、あの綺麗な蒼色の瞳に光が宿らない様だけは、不思議と思い浮かべることができた。彼の翳ったまなざしを見たことがあるからだろうか。


 ……あんな目でお過ごしになっていたのだとしたら、それはとても苦しいことだわ。


 本人にとっても、彼を慕う者たちにとっても。


「結局のところ、私がお姉さまに敵うところは何もなかったのよね。それからはだんだん自暴自棄になっていって……陰でいろんな遊びをしたわ。その中で私、護衛騎士のエリクの優しさに惹かれたの。それでつい一線を越えちゃった」


 とてもじゃないが「つい」で許される内容ではない。


 指摘しようと口を開きかけたが、ローゼの静かな表情を見てやめた。彼女もわかっているのだ。


「殿下とはそんな関係になったことがないから、もしも子が宿っていたら私に待っているのは破滅だけ。だから、急いで殿下との関係を捏造しなければ……そう思って、私、殿下に睡眠薬を盛ったの。眠る殿下の横で下着姿で眠って、一緒に朝を迎えれば、関係を捏造できるでしょう?」


「……なんて酷いことを」


「私が酷いことばかりするのなんて今更でしょう? お姉さまを殺しかけた人間なのよ? 自分の身を守るためならば、なんだってやる……そう、思っていたのに」


 ローゼの表情に、ふっと淡い微笑みが浮かぶ。見ようによっては泣き出しそうな笑みに見えた。


「殿下との既成事実を捏造した夜、私、夢を見たの。このまま進めば私に待っているのは破滅だけ、って……あの子が教えてくれたのよ」


 ローゼの視線が、ちらりとゆりかごのほうへ向けられる。そのまなざしには、確かに愛しさが溶け込んでいた。


「なんだか私、そのときに、ああ、疲れたなって思ったの。犯した罪は消えないけれど、でも、これ以上重ねる前に殿下の前から消えようと……そう、思えたわ。……それに、お姉さまからも解放されたかった」


 彼女は小さな息をついた。何もかも諦めたようで、それでいて今もこうしてちゃんと日々を生きている彼女は、今までにない不思議な静謐さを纏っていた。


「……あの夜、やっぱり殿下と殿下の従者に見られていたのね。公爵家だけではなく王家の追手があることを不思議に思っていたけれど‥…そう、そういうことなのね」


 ゆりかごのほうから、ふやふやとぐずる声が聞こえてくる。エリクが軽くゆりかごを揺らしていたが、次第に泣き声は大きくなっていく。


 ローゼは席から立ち上がると、そっとゆりかごの中から赤子をすくい上げた。


 先ほどはおくるみに隠れてよく見えなかったが、子どもの髪色はエリクによく似た鳶色だった。


「だから、お姉さまが殿下と私に関係について悩む必要は一切ないのよ。この子は、殿下の子ではなく、エリクの子だもの」


 赤子をあやすローゼのすぐ隣で、エリクが愛おしげにふたりを見つめている。三人は、どこからどう見ても幸せな家族だった。


 このところずっと頭を悩ませていた問題が解決したというのに、ほっとする気持ちは湧き起こらなかった。


「……今の話だけで、あなたは二回処刑されてもおかしくないほどの大罪を犯しているわ。公爵家を取り潰されても、文句は言えないほどの罪よ」


 私がここで誰にも口外しなければ、この家族は守られるのだろう。だが、とても私一人で収めていい問題ではない。


「……このことは、殿下に報告するわ。あの方を巻き込んでしまった以上、黙っているわけにはいかないもの」


「お姉さまならそう言うと思った」


 ローゼは微笑んで、赤子をエリクに預けると、机の上に置いてあった短刀の鞘を抜いた。


「っ……ローゼ!?」


 がたん、と椅子から立ち上がると同時に、ローゼは自らの首もとに刃先を向けた。


 短刀の刃先が、ローゼの美しい白金の髪をぷつりと切り裂いていく。


「っ……!」


「自害なんてしないわよ、お姉さまって結構物騒ね」


 そう言って、ローゼは切り取った一房の髪を、リボンで結んで私に手渡した。すこし荒れているように思うが、やはり美しい白金だった。


「……もし、私を『死んだこと』にして見逃してもらえるのであれば……これを、私の死の証に。これだけあれば、王家にも公爵家にも渡せるでしょう」


 どうやら彼女はこれを、遺髪代わりに私に託したようだ。これを使うことになるかどうかは、殿下の判断次第だろう。


 ……いずれにせよ、お父さまとお母さまは深く悲しむでしょうね。


 二人の嘆きは想像に容易いが、もう、それを口にする段階ではないのだとわかっていた。彼女の髪と決意を重く受け止めながら、布に包んでシャルロッテさんから頂いた小さな鞄に仕舞い込む。


「さて、聞きたいことはそれだけかしら。だったらもう出ていってくれる? 私たちにも私たちの一日があるし、これ以上お姉さまの顔なんて眺めていたくないもの」


「……ええ、私もこれ以上、あなたと話すことはないわ」


 鞄を手に、テーブルから離れて最後にローゼの姿を目に収める。彼女もまっすぐに、私を見据えていた。


「……私、謝らないわよ。許されたいって思っていないもの」


「あなたらしいわ」


「でも、願うことはできるわ。お姉さまの想いはわからないけれど、あのひとに捕まってしまったなら捕まってしまったなりに‥…幸せになれるといいわね」


 あのひと、とは殿下のことなのだろうか。思わず、くすりと笑みがこぼれた。


「安心して。……私はずっと、殿下が好きよ」


 その言葉に、ローゼもふっと微笑んだ。それを最後に、小さな家を後にする。


 ローゼの処遇がどうなろうとも、彼女と会うのはこれが最後になるとわかっていた。わかっていて、別れの言葉は告げなかった。


 何も言わず歩く私の隣を、リーンハルトさんが静かに守ってくれる。


 風が、どこからか甘い薔薇の香りを運んできた気がした。

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