第14話

 澄み渡る青空を見上げ、すう、と深呼吸をする。翌朝は、旅日和の快晴だった。


 薄水色の空は、ローゼの美しい瞳を思い起こさせる。これから会いに行くのだと思うと、不思議な心地だった。まだ、実感が湧かない。


「それじゃあ、行こうか」


 隣にリーンハルトさんが並び立つ。シャルロッテさんのワンピースを譲り受け、小さな鞄までいただいてしまった私は、彼とこうして並べば兄妹のように見えるだろうか。


「はい、今日はよろしくお願いいたします。リーンハルトさん」


 シャルロッテさんには、すでに別れの挨拶を済ませた。彼女は育児やお店の管理に忙しいひとであり、この一週間私の看病をするのも大変だっただろうと推察する。見ず知らずの私に心から親切にしてくれて、どれほど感謝してもしきれなかった。


「気持ち悪くなったら、すぐに鞄の中の薬を飲むんだよ。シャルロッテと僕の部下で作ったものだから、効果はお墨付きだ」


「何から何まで、ありがとうございます」


 彼の穏やかな笑みに応えるように、私もにこりと笑みを浮かべる。エスコートするように差し出された手に、そっと自らの手を重ねた。


「目を瞑って」


 リーンハルトさんの指示に従い、ゆっくりと瞼を閉じる。最後に目に焼きつけた幻の王都は、絵本の挿絵よりもなお美しかった。



 次に目を覚ましたときには、私たちは深い森の中にいた。ざわざわと葉が擦れる音や小鳥の鳴き声が聞こえる。


「気分はどう?」


 リーンハルトさんは軽く身をかがめて私の様子を伺っていた。すこし目眩がするが、このくらいはどうということはない。


「問題ありません。お気遣い恐れ入ります」


「じゃあ、行こうか。すこし歩くけど、抱き上げなくて大丈夫?」


 冗談めかす様子はなく、心底心配そうに彼は提案してきた。


 昨日、公爵家の生まれであることや、事故にあって二年間眠りについていたことを話したせいで、それまでにも増して態度が過保護になった気がする。


「もちろん、大丈夫です。ありがとうございます、リーンハルトさん」


 くすりと笑って、彼と並んで歩き始めた。リーンハルトさんやシャルロッテさんの言葉は、不思議とするりと心の中に入り込んできて、心地よい。


 ……こういうのを、波長が合うというのね、きっと。


 私の周りには、いなかった類のひとたちだ。気を抜けば、王都で待ち構える現実を忘れて、いつまでもふたりと一緒に過ごしてしまいそうで怖い。


 ……それでも、ローゼや殿下のことは忘れられるはずもないのだけれど。


 リーンハルトさんに私の身の上話は打ち明けたが、ローゼと殿下の関係はお話ししていない。これは、私ひとりで収めておくべき話題だとわかっていた。


 殿下にまつわることを考えるだけで、脈が早まってしまっていけない。軽くまつ毛を伏せて、呼吸を整える。


「……君には、とても大切なひとがいるんだね」


「え?」


 話しかけられたと思ったが、リーンハルトさんは穏やかな表情で前を向いていた。気のせいだっただろうか。


「ああ、見えてきたよ。あの家だ」


 森を抜けると、リーンハルトさんは小高い丘の上にある一軒家を指さした。


「あの家に……ローゼが?」


「そう。白金の髪に、空色の瞳の女の子がいるよ」


 想像と違いすぎて、返す言葉が見つからない。


 小さな町の外れにある家にいる、という情報は聞いていたが、華やかな場所を好むローゼのことだ。てっきり領主の館やそれに準ずる場所に身を寄せているのだと思っていた。


 だが、リーンハルトさんが指さした一軒家は、飾り気のない、ごく一般的な平民の家だった。ところどころ補強したような跡もあり、建築されてからかなりの年数が経っているように見受けられる。


 生活するには十分かもしれないが、あの場所にローゼがいるとはどうしても信じられなかった。リーンハルトさんは、別の美しい少女をローゼと思っているのではないだろうか。


 疑念は膨らむ一方だったが、歩き続けるしかなかった。丘をゆっくりと上りながらも、小さな家から視線を逸らすことはできない。


 家の扉に飾られた花飾りの色が見えるくらいまで近づいたそのとき、古びたドアが軋む音を立てながらゆっくりと開かれていく。


「じゃあ、水を汲んでくるよ」


 家の中にいる誰かに笑顔でそう告げながら、ひとりの青年が扉の向こうから姿を表した。


 すらりと背が高く、引き締まった体つきをしている。鳶色の髪は少し癖があって、青年の浮かべる溌剌とした笑みによく似合っていた。


 青年はすぐに私たちの姿を認めたようだった。みるみるうちに、鳶色の瞳に怯えの色が混じっていく。


「レイラ……お嬢さま……?」


 水を汲むために持っていたらしい桶が、からからと音を立てて転がっていく。


 農夫のような格好からはすぐに連想できなかったが、私は彼を知っている。


 ローゼと同時期に姿を消した、彼女の護衛騎士だ。アシュベリー邸で直接会話をしたことはなかったが、いつでもローゼに付き従っていたから顔は覚えていた。

 

 護衛騎士は、私の後ろに立つリーンハルトさんに目を止めると、懐から短剣を取り出した。そのまま私たちから視線をそらすことなく、よく通る声で叫ぶ。


「ローゼ! 逃げろ!」


 ……今、ローゼ、と呼んだの?


 護衛騎士である彼が、ローゼを呼び捨てにしたことに衝撃を受けた。


 それも今とっさに出たような響きではない。ずいぶんと呼び慣れているように感じる。


 嫌な予感が、むくむくと膨らんでいくのがわかった。


「姉妹仲はあんまりよくないみたいだね? 僕が応戦するよ」


 リーンハルトさんは穏やかな笑みを崩さぬままに、すっと私の前に歩み出た。だが、そっと彼の腕に手を添えて、首を横にふる。


「先に私が話してみます」


 リーンハルトさんにそう告げると同時に、開いた扉の先で白金の髪が揺れた気がした。


 はっとして目を見開けば、中から美しい少女が姿を表す。


「エリク、急にどういうこと? 逃げろだなんて……」


 鈴を転がすような可憐な声に、どくん、と心臓が跳ね上がる。


 ローゼだ。


 気づけば私は、吸い寄せられるようにふらふらとローゼのほうへ近づいていた。


 護衛騎士の背後で、ローゼが空色の目を見開く。


 平民のような格好をして、何か大きな荷物を抱えていても、彼女は美しかった。


「お姉、さま……?」


「ローゼ……探したわ。あなたに、会いにきたの。どうしても、話がしたくて」


 その瞬間、ローゼの腕の中から泣き声が響いた。重苦しい空気を切り裂くように、元気な声だ。


 だが、気分は軽くなるどころか、すっと血の気が引いていくのがわかった。


 ローゼは慌てて腕の中に視線を移して、ゆったりと自身の体を揺らし始める。


「驚いたのね、大丈夫よ」


 腕の中の何かを見つめるローゼの横顔は、深く清らかな慈愛に満ちていた。


 私は、あの表情を知っている。お母さまがローゼを見つめるときに、よくあんな微笑みを浮かべていた。


 それを、ローゼが腕の中のものに向けているというのは、いったいどういうことなのだろう。


「あ……ロー、ゼ……」


 それは、その、腕の中のものは。


 ……その子は、あなたと殿下の子どもなの?


 ローゼはおくるみに包まれた赤子をあやしながら、ちらりと私に視線を向けた。


「……二度と会いたくなかったのに」


 ローゼは赤子を大切そうに抱き抱えたまま、私たちに背を向け家の中に入っていった。エリクと呼ばれた彼女の護衛騎士も水を汲む桶を扉の横に置き、慎ましく礼をして、覚悟を決めたように私たちを迎え入れた。

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