第10話
大きな手に、頭を撫でられている感触がある。優しげなその手つきに、とろりと甘い幸福を感じた。
丁寧な仕草で前髪をかき分けられたかと思うと、額の傷口をなぞるように指先が掠める。やがて指よりも柔らかな感触が傷痕の上に触れた。
「……レイラ」
まるで手に入らないものに恋焦がれるように、低く澄んだその声は私の名を呼んだ。微睡の中でも、それが恋慕うあのひとの声だとわかる。
……ああ、そうだ私、殿下に詩を朗読していて、それで――。
私を朗読している最中に、殿下は眠ってしまわれたのだ。私の肩に寄りかかるようにして眠る表情はどこか無防備で、私の隣で安らいでくださったのかもしれないと嬉しく思っているうちに、私もまた彼に寄り添うようにして眠りに落ちてしまった。
大方、部屋の隅で見守っていたジェシカか殿下の騎士が殿下を起こして、私を寝台に運んだのだろう。お礼をしなければと思うのに、瞼が重くてなかなか目を覚ませなかった。
「……おやすみ、レイラ。いい夢を」
囁くように彼は呟いたかと思うと、私の手のひらにくちづけを落とした。引き止める間もなく、気配は遠ざかっていく。
……本当に、いい夢がみられそうだわ。
幸せな心地でもういちど眠りに落ちようとしたとき、ふと、遠くからかすかに殿下の話し声が聞こえてきた。私に話しかけているわけではなく、従者とお話になっているようだ。
「――殿下……の報告に上がりました」
「……どうせ今日も見つからなかったのだろう」
「申し訳ございません」
わずかに、殿下が溜息をつくような音がする。
殿下と従者の会話だ。私が聞いていいはずもないのに、先ほどまでの微睡が嘘のように感覚が冴え渡ってしまった。
……盗み聞きなんていけないわ。眠らなくちゃ。
枕に手を伸ばし、顔を埋めるも、いちど耳に届いてしまった殿下の声はなかなか意識の外に追いやれない。
「……いったい、いつまで悩まされればいいんだ。もう、これ以上――――、耐えがたい」
「殿下……そう仰らず。……ローゼ嬢が殿下の御子を宿している可能性がある以上、野放しにはしておけません」
すっと、胸に冷たい刃物が突き刺さったような気がした。
……ローゼが、殿下の御子を?
枕をつかむ指先が震える。鼓動に合わせて、全身の血が凍りついていった。寝台に張り付いてしまったかのように、すこしも動けない。
やがて話し声は遠ざかり、ばたん、と扉が閉まる音を最後に室内は静寂に包まれた。
どれくらい、枕に顔を埋めていただろう。ゆっくりと上体を起こし、寝台の上にへたり、と座り込む。
いつの間に雨が止んだのか、広い窓を覆うカーテンの隙間からは、月影が差し込んでいた。まるで、殿下の髪のような美しい銀色だ。
わけもなく叫び出したかった。
声よりも先に、涙がぼろぼろとこぼれ落ちる。ネグリジェに、点々と濃い染みが浮かんでいった。
「あ……ああ……」
知らなかった。殿下とローゼが、そんなにも深い間柄だったなんて。夜を共にするほどに、愛し合っていたなんて。
公のしきたりだとか、婚前のふたりにはふさわしくない関係だとか、そんなことはもうどうでもよかった。ただ、ふたりの関係が私の想像以上に進んでいたことが、深く深く心に傷を残していく。
殿下のおそばに置いてもらえるのなら、身代わりでも、いちばんの愛情を向けられなくても構わないと思っていたのに、いざ現実を突きつけられるとそんな覚悟はいとも簡単に揺らいでしまう。
「どう……して……」
私のほうが、ずっと前から殿下をお慕いしていたのに。ずっと、殿下だけを見ていたのに。
私が、私のほうが、そんな自分本位な考えだけが頭の中を埋め尽くしていく。このところ感じていた蜂蜜のように甘い幸せはぜんぶ、紛いもののように思えてならなかった。
……殿下は、ずっとローゼの面影を求めていらしたのかしら。
私の声が聞きたいとおっしゃったのも、やはり、ローゼに似ているからなのだろう。身代わりとは、こういうことをいうのだとわかっていても、心がみるみるうちに削られていくようだった。
ぎゅう、と爪を立てるようにしてシーツを握りしめる。嗚咽を漏らしながら、ただただ寝台の上でひとり泣き続けた。
……こんな思いをするくらいなら、目覚めなければよかった。
あの日私が目覚めたことを、あなたは祝福だと言ったが、私には呪いのように思えてならない。
せめて目覚めたあの瞬間に、この事実を知らされたならよかったのに。そうしたら、淡い初恋が燃え上がる前に、姿を消すことができたのに。
今の私では、離れることができない。こんなにも、あなたに恋焦がれてしまった、今ではもう。
一筋の月影が差したままに、雨音が響く。
心の中は、この天気よりもぐちゃぐちゃに乱れてもう取り返しがつかなかった。
……燃え上がるこの初恋が灰になれば私はようやく、身代わりの人形になれるのかしら。
声もなく、震えながら泣き続けた。薄ぼんやりとした朝の光が差すまで、ずっと。
◇
翌朝。泣き腫らした目をジェシカに誤魔化してもらい、私は殿下の指示で朝食の席に向かっていた。泣いた理由をジェシカに問われたが、正直に話すわけにはいかない。
……ローゼが殿下と夜を共にするほど深い関係であることは、両親でさえ知らない様子だったわ。
おそらくは、殿下とその側近しか知らない事実なのだろう。王家を揺るがす重大な事実であるだけに、下手に口外するわけにはいかなかった。
……私は、どうすればいいのかしら。
どこかぼんやりとした気持ちのまま、朝食の席に着く。殿下は先に待っていてくださったようだ。
「おはよう、レイラ。よく眠れたか」
「……ええ」
嘘だ。結局あのあと朝まで一睡もできなかった。それでも眠いと思わないくらいには、心の傷がじくじくと膿んで痛む。
砂を嚙むような心地で、淡々と朝食を進める。時折殿下が話しかけてくださったが、どうしても会話を長く続ける気にはならなかった。
食後のお茶をいただき、ぼんやりと窓の外を眺める。昨日ほどではないが、まだ小雨が降っているようだった。
「雨が止むまで、ゆっくりしていけばいい」
殿下の申し出に、ゆるゆると首を横にふる。今日はもうこれ以上、殿下と顔を合わせているのは苦しかった。
「……長くお邪魔するわけには参りません。支度を終えたら、下がらせていただきます」
自分で思っているよりもずっと暗い声が出た。普段通りに振る舞いたいのに、眠っていないせいもあって、どうしても覇気がない。
「レイラ……?」
鋭い殿下が、私の変化に気づかないわけがなかった。彼はすっと席を立つと、私の前に歩み寄ってきた。
「……今朝は、すこし様子がおかしい。どうしたんだ? 体調がすぐれないなら、すぐに医師を呼ぶ」
「いえ……医師は必要ありません」
殿下の表情がわかりやすく雲る。事故に遭う前からは、考えられないほど表情豊かになった。
……殿下を表情豊かにしたのも、ローゼなのよね、きっと。
もう、何もかもから彼女を思い出してしまって苦しかった。殿下の視線から逃れるように、ティーカップを手にする。
「何か……気に障っただろうか」
「いいえ……何も。殿下が気になさることは、何もないのです」
ティーカップを置いて、私もすっと席を立った。殿下と向き合うようなかたちだ。深い蒼のまなざしは、珍しく戸惑うように揺れていた。
「ただすこし……距離を置かせてください。婚約者としての務めは、きちんと果たしますから」
それだけ言うのが精いっぱいだった。殿下の前で退室の礼をして、彼の隣を通り過ぎる。
だが、彼の腕はそれを許してくれなかった。
「……何があった? 誰かに何かを言われたか? 何が君をそんなに翳らせる?」
殿下がここまで狼狽えるのを見るのは初めてだ。それも私の態度のせいかと思うと心が痛んだが、あまり長くここにいると泣き出してしまいそうで怖いのだ。
揺さぶるように私の肩を掴んだ殿下の手を、そっと振り払う。それ以上何も言えずに、視線を伏せたまま礼をした。
今度は、殿下も私を引き止めることはしなかった。
雨空のせいでどんよりと薄暗い廊下を、侍女の先導で歩く。客間に向かううちに、私の心は決まっていた。
「お嬢さま……? お早いおかえりですね」
私の荷物の整理をしていたらしいジェシカが、屈託のない微笑みを見せる。彼女の表情を見て、張り詰めていた緊張の糸がほんのすこしほどけるような気がした。
「ジェシカ、屋敷に戻ったら、ローゼ捜索にまつわる資料を見せて」
「資料、でございますか?」
「……私も、彼女を捜すわ」
小雨が降り続ける窓の外を、まっすぐに見つめる。
このままでは、私は黒い感情に囚われたまま動けなくなってしまう。
だから、そうなる前にローゼに会いに行こう。殿下とローゼの間にあったことをすべて聞いて、そうして私が進むべき道を選ぶのだ。
……ローゼが殿下のもとへ帰ってくる気があるなら、私は――。
「――ついでに、どんな者でも受け入れてくれるという噂の修道院についても、調べておいてほしいの」
ぎゅう、と指先を握り込む。昨夜殿下にくちづけられた手のひらはまだこんなに熱を帯びているのに、現実はこんなにも冷たく灰色だ。
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