第9話

 それから殿下とは、明確に距離が近くなった。世間一般の恋人たちがどんな様子なのかはよくわからないけれど、私の想像する「恋人」の関係に限りなく近い距離感だった。


 殿下は相変わらず言葉数は多くないものの、いつでも私を気遣ってくださるし、私の好きなものも何気なく呟いた言葉すらも覚えていてくれる。返すものを持たないことを、申し訳なく思うくらいには。


 だからせめて療養には励もうと、日々努力を欠かさなかった。事故に遭う前と同じくらいつらい思いもしたが、不思議とあのころより重苦しくない。これが、俗にいう恋の力というものなのだろうか。


 夏が終わるころには、体もほとんど元通りと言って遜色ないほどに回復した。殿下の介助がなくとも、満足に歩けるようになったのだ。それを少し寂しく思うくらいには、私は日々殿下に惹かれていた。


「では、婚約式の日取りはひと月後に」


 国王陛下のお言葉に、私と殿下で息を合わせて礼をする。殿下との再婚約の話が上がってから、こうして定期的に陛下に挨拶に伺っていた。


 王妃さまは、今日も姿を見せていない。もともと最重要の式典にしか姿を見せない方だから、殿下と長年婚約関係を続けている私でも、実際にお姿を拝見したのは両手で数えられるほどしかなかった。


 殿下のエスコートを受けながら、謁見の間を出る。上質な絨毯の敷かれた廊下は一面大きなガラス張りの窓が埋め込まれており、外の様子がよく伺えた。


「雨になってしまったな」


「はい」


 朝から雲行きが怪しかったが、陛下との謁見を待っているうちにずいぶんな大雨になってしまった。王都内の屋敷に戻るにしても、苦労するだろう。


 ……雨の日の馬車は、あまり好きじゃないわ。


 そもそも目覚めてからというもの、馬車自体好んでいなかった。おそらく、二年前のあの事故を心のどこかでいまだに恐れているのだと思う。


「……今日は城に泊まっていくといい。客室は空いている」


 他にも私と同じように足止めされている貴族がいるのだろう。心なしか、王城の侍女たちが忙しそうに駆け回っているような気がした。


「よければ食事をともにしよう」


 それは魅力的なお誘いだ。ご迷惑になるのでは、と遠慮する気持ちよりも、少しでも長く殿下と一緒にいたい気持ちがまさってしまう。


「……では、お言葉に甘えて、一晩お邪魔いたします」


 ドレスをつまんで礼をすれば、殿下はわずかに表情をほころばせた。目覚めてからというもの、殿下の表情は劇的に柔らかくなっている気がする。


 ……すこしは私といることを、楽しく思ってくださっていると考えていいかしら。


 明確な言葉はないけれど、私に触れる殿下の手もくちびるもあまりに優しいものだから、それを信じていたくなる。


 殿下は、どうでもいい相手にくちづけをするようなひとではないはずだ。それが親愛か、幼馴染としての情から来るものなのかはわからないが、一種の愛情は向けられていると考えるのはそう大きな間違いではないはずだ。


 ……できれば、私と同じ恋情であれば嬉しいけれど。


 今もこんなにも幸せだというのに、欲張りになってしまってよくない。気持ちを切り替えるように、ぎゅと目を瞑って前を向いた。


「レイラ?」


 二、三歩先で、殿下が手を差し出して待っていてくださる。その手がとても優しく温かいことを、私は知っている。それだけでもう、十分な気がした。


 

 ◇



 殿下とともに穏やかな晩餐の時間を過ごした後、私は湯浴みを済ませ、ゆったりとしたワンピースに着替えてから再び殿下にお会いしていた。まさか眠る直前のひとときまでご一緒できるとは思っていなかった。


 とはいいつつも、ふたりで何かをしているわけではない。ソファーに並んで座りながら、殿下は読書を、私は刺繍をして過ごしていた。隣に彼がいるというだけで、ひとりで黙々と刺繍に取り組んでいるときとは比べ物にならないほど楽しい。


「……手は、もう以前のように動かせるのか」


 隣で、ぽつりと殿下が独り言のような問いかけを口にした。刺繍の手を休め、軽く姿勢を正す。


「はい。おかげさまで、この通りです」


 ちょうどよかった。この数週間作り続けていた作品がようやく仕上がったところだ。糸を切り、出来栄えをさっと確認してから、殿下に手渡す。


「以前、殿下に見せていただいたアネモネを刺繍いたしました。……もしよろしければ、お受け取りください」


「……いいのか?」

 

「はい。……本当にささやかなものですが、日頃のお礼です」


 一針一針丁寧に刺繍したが、こんなものではとうていお礼になっていないほど、殿下にはよくしていただいている。


「……君は目覚めたあの日に、僕の一生ぶんの祝福を運んできた。礼など考える必要はない」


 殿下はそう言いながらも、手渡した飾り布を柔らかなまなざしで見つめた。


「でも、ありがとう。……大切にする」


 どうやら迷惑ではなかったようで安心した。殿下のそんな表情が見られるのならば、毎日だって刺繍作品を贈りたくなる。


「そんなに喜んでいただけて私も嬉しいです。……他に、私ができることはありませんか?」


 軽く小首を傾げて、殿下の表情を伺う。柔らかな燭台の灯に照らされて、普段見る姿よりもどことなく無防備に見えた。


 殿下はふっと視線を伏せると、手にしていた本をぱらぱらと捲った。


「……なんでもしてくれるのか?」


「私にできることでしたら」


 にこりと微笑めば、殿下は私たちの間に空いていた隙間を埋めるように距離を詰めた。ふわりと漂う優しい香りに、どきりとした。


「この本を、朗読してくほしい」

 

「朗読、ですか……」


 受け取って題名を確認してみたところ、このところ王都で流行っている詩人の詩集のようだった。物語のように感情を乗せる必要はなさそうだ。これならば私にも読めるかもしれない。


「練習したことはありませんので、聞き苦しいかとは思いますが……」


「レイラの声を聴いていたいだけだから構わない」


 そう言って、殿下は私が表紙を開くのを待ち侘びるように私の手もとを覗き込んだ。その反応にすら、心臓が早鐘を打っていく。


 ……殿下は、口数はすくないけれど、時折、とても大胆なことをおっしゃるわ。


 私の声なんて、そう綺麗なものでもないだろうに、不思議な方だ。


 ……ああ、でも、私の声はローゼとよく似ているのだったわ。


 つきり、と胸の奥を鋭い氷で刺されたような気がした。今も見つからない彼女のことを、心配するより先にこんなふうに嫉妬してしまう私は姉失格なのだろう。


「……レイラ?」


 はっとして、慌てて微笑みを取り繕う。どんなかたちであれ、殿下は確実に私のことも「愛」してくださっているはずなのだ。こんなふうに嫉妬するのは醜いだけだろう。


 ……そうよ、今、殿下のおそばにいることを許されているのは、私だもの。


 軽くまつ毛を伏せ、もやもやとした気持ちを押し込んで詩の朗読を始める。優しく幸せな気持ちで読みたかったのに、どうしても声には憂いがにじんだままだった。

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