第8話

 翌日、殿下に招かれて足を踏み入れた王城の温室は、それはもう見事なものだった。

 

 殿下は真っ先に、私をアネモネの前に案内してくださった。私の好きな花を、いちばんに見せてくださったのだ。


「なんて綺麗な色なんでしょう。見ているだけで、心が慰められるようです」


 思わずアネモネの前にしゃがみ込み、間近でその美しさを堪能する。赤も紫もどこか柔らかな色合いで、刺繍糸や絵の具では表せない繊細な色彩だった。


 ……もうすこし手が動くようになったら、刺繍も再開してみようかしら。


 殿下の婚約者として求められる礼儀作法やら文字の美しさやらを優先して練習していたから、趣味には未だ手をつけられていなかった。二年前のようにはいかないかもしれないが、すこしずつ始めていこう。


「……気に入ったなら、摘んで帰ればいい」


 そう言いながら、殿下も何気ない仕草で私の隣にしゃがみ込んだ。これには思わず恐縮してしまう。


「殿下……そのように、かがみ込む必要は――」


「――レイラは、この間の約束をもう忘れてしまったのか?」


 そう言われて、はっとする。つい癖で「殿下」と呼んでしまうが、私的な場では名前で呼ぶと誓ったばかりだった。


 ちらりとあたりを伺って、人の配置を確認する。気づけば、私たちに影のように付き従っていた殿下の騎士やジェシカの姿がない。完全に私たちをふたりきりにするとも思えないので、こちらからは見えないだけでそばにはいるのだろうが、人目を気にするという建前は使えなくなってしまった。


「周りの目など気にしなくていい。君はもういちど、僕の婚約者になるひとだ」


「え、ええ……ルイ、ス」


 言った途端に、火が出るのではないかと思うほどに顔が熱くなる。何も、周りの目だけを気にして名前を呼ぶのを躊躇っていたわけではないのだ。


 ……ただ、気恥ずかしかったのだもの。まだ慣れないわ。


 心の中では何度も呼んでいるくせに、こうして本人を目の前にするとまるでだめだ。心臓が、小動物のもののように早鐘を打ってしかたがない。緊張で、まつ毛が小刻みに震えていた。


 殿下は思ったよりも近い距離にいるようで、息遣いまでも聞こえてくるようだった。花の香りの中でも、あの爽やかで品のある優しい匂いがそばにあるとわかってしまう。それだけで、くすぐったいような、落ち着かない気持ちになってならなかった。


 ふと、伏せた視界の中に、殿下の手が伸びてきた。はっとして顔を上げると、その指先はどうやら私の髪に触れたようだ。


「……花びらが」


 殿下はそう言って、一枚の薄桃色の花びらを私に見せた。どこからか風に乗って流れてきたのだろう。


 ……思えば幼いころも、こんなふうに殿下に花びらをとってもらったことがあったわ。


 懐かしさに、自然と頬が緩む。あのころの私は、殿下にお会いするたびにひどく緊張していたものだ。


「以前もあったな。こんなこと」


 殿下もまた、懐かしむようなまなざしでかつての思い出を口にした。


 まさか、こんなささやかなことまで覚えていてくださったなんて。殿下は聡明な方だとわかっているが、記憶力も相当なものらしい。


「私もちょうど今、同じことを思い出しておりました。あの日は、殿下が笑ってくださったからとても嬉しかった……」


 まだずいぶんと幼かったから、あのとき抱いた感情は恋情ではなかったのかもしれないが、それでも、あの日の殿下の微笑みは私の宝物になっていた。初めて心を許してもらえたような気がしたのだ。


「……君はいつも笑っているな。僕といるときも――誰の前でも」


 殿下の指先が、先ほど花びらがついていた亜麻色の髪に伸びる。


 そのまま指先に絡めるように毛先を弄ばれ、ふたりの距離が縮む。顔に影がかかっているせいか、蒼色の瞳は翳るように深く見えた。


 絡めとるようなまなざしにどきりとしたが、それも長くは続かなかった。殿下は私の手を取ると、私を支えながら立ち上がったのだ。


「温室の奥に休める場所がある。そちらですこし休憩しよう」


「はい、ルイス」


 彼のエスコートを受けて、整然と花々が咲く道を進む。繋いだ指先から伝わる温もりは、伝い上がるようにじわりと熱く感じてならなかった。



 殿下に案内されて進んだ温室の奥には、小さなソファーとテーブル、そして背の低い本棚が置かれていた。ソファーには、繊細な花模様が刺繍された布が張られている。女性のために用意されたものといった印象だ。


 ソファーやテーブルは丁寧に手入れされているが、よく見れば本棚は年季が入っているように見えた。昨日や今日用意されたものではないのだろう。


 殿下に促されるままにソファーに腰を下ろせば、すぐ隣に殿下もお座りになった。小さなソファーだから、手を座面に下ろすと触れてしまうくらいの距離だ。


「すてきな場所ですね」


 花のある場所とはガラスで区切られているが、花の美しさを楽しむことはできる。ここで読書をしたり、刺繍をしたりするのはいい休息になるだろう。


「ここはかつて、母が使っていた場所らしい。王太子妃だった時代に、よくここで父と会っていたそうだ」


「王妃さまが……」


 殿下の口からご両親の話が出るのは珍しかった。アシュベリー公爵家のように複雑な関係というわけではないが、互いに多忙なために公の場以外での交流はほとんどないと聞いている。


「そのような特別な場所に連れてきてくださって、ありがとうございます。ルイス」


「特別な場所……と言えばそうなのかもしれないが、母にとっていい思い出がある場所なのかはよくわからない。この温室にいたのは、おそらく母の意思ではなかっただろうから」


 不思議な言い方をする。王妃さまの意思でなかったとしたら、誰の意思だというのだろう。


 ティーテーブルの上に静かに用意されていくお茶と焼き菓子を眺めながら、ぼんやりと考え込んだ。花とは違う甘い香りが鼻腔をくすぐる。


「……君は将来、僕を快い気持ちで懐かしんでくれるだろうか。思い出すたびに心を蝕むような、ひどい悪夢にならないか……それだけが、心配でならない」


 悪夢だなんて、ずいぶん大袈裟な表現だ。殿下の前だというのに、思わずくすりと笑ってしまいたくなった。


「殿下と過ごす一日を夢のようだとは思っても、悪い夢と思うことはきっとありません」


「……僕はたぶん、君を繋ぎ止めるためならばどんなことでもできてしまう。それがたとえ、君を傷つけるようなことであっても」


 殿下のまなざしに明確な翳りが宿る。先ほど日陰のせいと思ったその暗さは、どうやら殿下の心によるものだったらしい。


 そんな目で見られたことは、初めてだ。切実で、縋るような熱を帯びたまなざしに、ゆっくりと絡めとられていくような感覚を覚える。


 殿下の手が、迷うことなく私の首筋に触れた。脈打つ血管を確かめるように、爪の先が薄い皮膚を捉える。力が込められているわけではないから、決して痛くはないが、触れられた箇所からぴりぴりと痺れるような気がした。


 殿下は、何を恐れているのだろう。こんなふうに詰め寄られても、怖いと思うよりも先に触れられたことを嬉しいと思うくらいには、私は昔から殿下に惹かれているのに。


 彼の目をじっと見つめたまま、首筋に添えられた手に自らの手を重ねる。片手ではとても包み込めない、立派な青年の手だ。


「先ほどの質問に、私がお答えできることはひとつだけです」


 首筋に添えられた殿下の手を、両手で支えながらそっと自らの横顔に移動させる。躊躇いつつも、そのままその大きな手のひらに、甘えるように頬を擦り寄せた。


「あなたと過ごした時間を、夢のように思っても、悪夢のように思っても――あなたを、懐かしむことはしたくない。思い出にしたくありません。……この先の未来のどの瞬間にも、あなたがいてくださいますように」

 

 震える声で、今の私の思いを正直に告白した。ただ「好き」と思うには複雑な感情も経緯もありすぎるけれど、それでも、そばにいたいと願うことに嘘はない。


 横顔に触れた殿下の手が、ゆっくりと確かめるような仕草で頬を撫でる。その感触が心地よくて、思わず頬を緩めながらまつ毛を伏せた。


 すぐにもう片方の手が、前髪をかき上げ、指先で傷痕をなぞるのがわかった。


 殿下は以前この傷で私の価値が損なわれることはないとおっしゃったが、それでも恥ずかしいものは恥ずかしい。頬を熱くしながら抗議の意味も込めてそっと殿下を見上げれば、彼はためらいなく額の傷痕にくちづけを落とした。


「……っ」


 ゆっくりと、くちびるの熱を刻みつけるように繰り返されるくちづけに、今にも溶けてしまいそうだった。傷痕がじくじくと疼くように感じるのに、まるで祝福を与えられているような心地になる。


 とても姿勢を保っていられず、ソファーの背もたれに体重を預ければ、遠のいたぶんだけ殿下は距離を詰めてきた。そのまま何度か傷痕にくちづけられ、呼吸を整える一瞬でふたりの視線が絡み合う。


 上気した頬を指先で撫でられれば、熱に浮かされたように自然と涙がにじんだ。視界がぼやけたのは、むしろよかったのかもしれない。この状況で、殿下のお顔をまともに見られる気がしない。


 再び影を落とすように殿下は距離を縮めたかと思うと、今度は涙の溜まった目尻にくちづけを落とした。驚きの声を上げる間もなく、それはなんども繰り返される。


 それでもあふれてしまった涙の粒を追うように、くちづけは目尻から頬にかけて移動していった。頬に添えられていた彼の指先が、くちびるを掠める。


 再び、視線が重なるのを感じた。あまりに甘やかな触れ合いのせいで、まるでのぼせたように意識はぼんやりとしていたが、それでも彼がじっと私を見ているのはわかる。


「ル、イス……」


 なんとか彼の名前を口にすれば、頬に添えられていた手がはっとしたように震えるのがわかった。


「……すまない、婚約式の前なのに」


 そう言って、彼はようやく私から離れた。


 てっきりこのまま唇も重ねるのかと思っていただけに、安心したような、ほんのすこし物足りないような気持ちになってしまう。


 ……物足りない? 


 なんて、はしたないことを考えてしまったのだろう。ますます顔が熱くなって、目眩がした。


 あまりの気恥ずかしさと、くちづけの熱のせいで、私から言葉を発することはとてもできなかった。


 だから代わりに、座面に手を下ろしたのだ。そこに、殿下の手があることを知った上で。


 私の手では彼の手を覆うことはできないから、代わりに小指を軽く握りしめた。言葉は返せないけれど、この幸せなひとときを殿下の謝罪で終わらせたくはなかった。


「レイラ……」


 殿下に名前を呼ばれても、とてもじゃないが目を見ることは叶わなかった。返事すらも返さないなんて、許されない無礼だとわかっている。それでも今は、彼の指を握ることで答えることしかできない。


 殿下も私の胸中を察してくださったのか、それ以上言葉にはせず、代わりに手のひらを返してそっと私の手を握った。どちらからともなく、指先だけを絡めあう。


 ……やはりあなたと過ごす一日は、夢のようです、殿下。


 悪い夢になど、なり得るはずがなかった。背もたれに預けていた体重の一部を、ほんのすこしだけ殿下の肩にのせる。それに応えるように、殿下もまた私にそっと寄りかかった。


 そのまま私たちは、言葉もなく寄り添いあっていた。


 紅茶にも焼き菓子にも手をつけなかったけれど、きっと今まででいちばん甘く特別なお茶会だった。

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