第7話

 それからも、殿下の優しさに触れる日々は続いた。顔を合わせていない日でも、彼は私を気遣ってことあるごとに手紙をくれる。手紙には、必ずちょっとした贈り物が添えられていた。


 ……この手紙を、どうしてかつての私は代筆だと思っていたのかしら。


 テーブルに置かれた燭台の灯を頼りに、すでに何度も読み返した殿下からのお手紙に目を通す。夜も更けているせいか、部屋の中はぼんやりと薄暗かった。


 流れるように美しい筆跡を指先でなぞり、感嘆のため息ともしれぬ小さな息を吐く。この手紙は、この間のお茶会で約束した通り、私を王城の温室に招待するという旨のものだった。


 手紙と一緒に、美しいアネモネの絵も届いた。王城に出入りする画家に描かせたものなのだろう。複雑な色合いで描かれた枯れぬアネモネは、いつまででも見ていられるような気がした。


「お嬢さま、また殿下からのお手紙をご覧になっていらしたのですね」


 私の就寝準備を終えたジェシカが、穏やかな微笑みをたたえてすぐそばへやってくる。返事の代わりに私も微笑んで、文末に記された殿下のお名前にそっと触れた。


 ……ルイス。


 心の中で名前を呼ぶだけで、ほんのりと胸が温かくなるようだ。まるで事故に遭う以前の関係性に戻ったかのように心が弾んでいた。


 ……いいえ、それどころか、殿下は以前よりずっとお優しくなったわ。


 二年前と比べて、明らかに私に対する態度が和らいでいる。それは、療養中の私に対する気遣いなのか、二年という月日が彼を丸くしたのかわからないが、私にとっては嬉しい変化だ。


 ……あるいは、ローゼという婚約者を得て愛を知ったから?


 だからこその優しさなのだとしたら、殿下はローゼに対してはどれだけ甘く優しく接するのだろう。久しぶりにふたりが並ぶ姿を想像してしまい、弾んでいた心にすっと冷ややかなものが差した気がした。


「……ジェシカ、ローゼの行方はまだわからないの?」


 突然に妹の消息を尋ねた私に、ジェシカは面食らったような反応を見せたが、すぐに答えてくれた。


「はい。全力でお捜ししておりますが、手がかりひとつ見つからず……。隣国へも、内密に捜索の手を広げているようなのですが……」


「……そう」


 あの美しい妹は、いったいどこへ消えてしまったのだろう。これだけ探しても見つからないなんて、よほどうまく逃げおおせているか、あるいは――。


 ……最悪の結末は、考えたくはないわ。


 ぎゅ、とネグリジェを握りしめて嫌な予感を振り払う。同時にそっと、肩に温かな手が置かれるのがわかった。


「……ジェシカ?」


 軽く首を傾けてジェシカを見上げれば、彼女は困ったように微笑んでいた。


「お嬢さま……ローゼお嬢さまのことで、あまり深くお悩みにならないでください。せっかくお目覚めになったのですもの‥…今度こそ、ご自分の幸せについてお考えください」


「私の……幸せ」


 事故に遭う前は未来の「王太子妃」としてふさわしい教養を身につけるのに必死で、そんなことは考えたこともなかった。目覚めてからも療養に励むばかりで似たようなものだ。


「はい。お嬢さまの思い描くままの幸せを、どうか追い求めていただきたいのです。ここで見つからないのならば、探しに行くのもよいですね。私は、どこまででもお供いたします。たとえ幻の王都へだって」


「まあ、幻の王都にまで?」


 ジェシカの出したたとえ話に、くすくすと笑い声を上げてしまった。私に忠実なこの侍女は、私が望めばお伽話の世界にまでついてきてくれるらしい。


 ジェシカに言われるがままに、何が私にとって幸せなのかぼんやりと思い描いてみた。


 王都ではない他の場所へ行ってみたくないかと問われれば嘘になる。そこで、何者でもないただの「レイラ」として暮らせたら、生まれてからずっとこの身を縛る鎖から解放されて、私は初めて息ができるように思うかもしれない。


 だが、今はその夢のような光景を思い描くと、じくり、と額の傷が疼くような気がした。殿下が、労るようにくちづけをくださったところだ。


 ――次に会える日を、楽しみにしている。レイラ。


 美しい文字で記されたその言葉は、ひょっとするとただの社交辞令なのかもしれない。アシュベリー公爵家との縁を結ぶ最後の鍵である私を、逃さないための策略と考えるほうが妥当だ。


 ……でも、それでもいいと思えるほど、私はこの言葉が嬉しいわ。


 だから、私の幸せはきっと――。


 ぎゅう、と手紙を胸に抱き締める。すぐそばでジェシカが吐息混じりに優しく笑ったのがわかった。


「……今のお嬢さまのお姿を拝見している限り、お伽噺の中にまで幸せを探しに行く必要はなさそうですね。お嬢さまの幸せは、こんなにも近くにあるのですもの」


「ジェシカ……」


 気恥ずかしさに顔を熱くする私を、ジェシカはやっぱり柔らかなまなざしで見守っていた。彼女だけは、いつでも私の味方だ。


「私は、殿下の幸せも、お嬢さまが願うもののそばにあればいいと思っております。……さあ、そろそろおやすみになりませんと。夜更かしはいけませんよ、お嬢さま」


 まつ毛を伏せるようにして、私に就寝を促すジェシカの言葉に、ふっと頬が緩んだ。


 ……ジェシカは本当に、お母さまみたいだわ。


 年齢差からして姉妹と言った方がふさわしいだろうが、私にとってジェシカは心の親だといっても過言ではないひとだった。


 ……ジェシカがこんなにも願ってくれているのだもの。


 私は、私の幸せを追い求めてみても、いいのかもしれない。


 サイドテーブルの上に置かれた殿下からの手紙を、もういちど手に取る。バルコニーから差した月影にかざせば、はっきりとは読み取れずとも美しい筆跡はぼんやりとわかった。


「ルイ、ス……」

 

 掠れた声で、初恋のひとの名を呼ぶ。胸にじわりと広がる温かな感情のまま、美しい文字の上にそっとくちづけを落とした。

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