第6話
中庭に設置されたティーテーブルで簡単にお茶をしながら、婚約の進捗状況について確認しあったあと、私は再び殿下に支えられながら庭を散歩していた。
「すこし見ない間に、ずいぶん回復したみたいだな。手紙も書けるようになっていて驚いた」
「以前のようには書けず、お恥ずかしい限りです」
「……気にするな。代筆よりずっといい」
淡々とした声音で、殿下は告げた。まるで、なんてことないように。
……本当に、殿下にとってはなんてことない言葉なのかもしれないけれど、でも、嬉しいわ。
殿下に優しい言葉をいただけて、春の盛りの庭の中でエスコートしてもらうなんて、まるで夢のような一日だ。
思わず、ふ、と微笑みがこぼれる。目覚めてから、こんなにも自然な笑みを浮かべたことがあっただろうか。
「その表情、久しぶりに見た。……綺麗な花があれば、君はそんなふうに笑うんだな」
ふと、殿下は納得したように呟くと、どこか和らいだまなざしで私を見下ろした。はたから見ればほとんど表情は変わっていないだろうが、これは微笑んでいるとも捉えられる柔らかな表情だ。
……花だけのせいでは、ないのだけれど。
だがそれを正直に説明するのも気恥ずかしくて、視線を伏せて受け流した。
「王家の温室に、アネモネが咲いている。ここにはないようだから、次は君を温室に招待しよう」
「ありがとうございます。……先日の花束といい、私の好きな花を覚えていてくださったのですね」
「忘れられるはずがない」
ふいに、重なった指先に力がこもる。殿下はどこか遠くを見つめるように、ぽつりと呟いた。
「……君が眠っていた二年間は、アネモネを見るのもつらかった」
「え……?」
戸惑うように肩を震わせたその瞬間、膝の力が抜ける。がくり、とその一瞬で姿勢を崩してしまった。
だが、花々の中に倒れ込む前に、腰に回された彼の腕が力強く私を引き上げる。
「……っ大丈夫か?」
「え、ええ……」
ひどく焦ったように、殿下は私を見つめていた。そこに縋るような切ない表情を見つけ出した気がして、いっそう脈が早まっていく。
「まだ万全の状態じゃないんだ。無理はするな」
「いえ……今のはただ、驚いただけで……」
だが、私の言葉は彼の耳に届いていなかったらしい。そのままふわりと抱き上げられてしまい、ますます体の力が抜けてしまう。
「で、殿下……?」
「二度目の婚約だ。……そろそろ名前で呼んでくれ」
抱き上げられたままの体勢で、彼は私の顔を覗き込んでささやかな願いを口にした。
……私なんかに名前で呼ばれて、殿下に何かいいことがあるのかしら?
それでも、他ならぬ殿下の頼みごとなのだから、無視するわけにはいかない。どこか落ち着かない気持ちのまま、恐る恐る口を開く。
「ルイス王太子殿下……」
「敬称はなしだ」
有無を言わせぬまなざしに、ゆっくりと囚われていくようだ。あまりの恐れ多さに震えながらも、それでもそっと、淡い初恋の相手の名前を口にした。
「……ルイス」
身を縮めるようにして、窺うように彼の表情を覗き見れば、端正な顔立ちに明白な微笑が浮かび上がるのがわかった。
「……っ」
……殿下がここまで表情を表すのは珍しいわ。
「これからはそう呼んでくれ」
「……では……私的な場では、そうお呼びいたします」
「ああ」
殿下はどこか満足げに返事を返すと、私を抱き上げたまま元来た道を歩き始めた。このまま屋敷まで私を送り届けるつもりらしい。きっと、大勢の使用人たちに見られている。
「殿下……先ほどは本当に驚いただけですので、歩けます」
気恥ずかしさから紡がれた私の抗議の声は、どうやら都合よく殿下の耳には届いていないらしい。ざくざくと芝生を踏みしめる彼の足音と、頭の後ろに飾られた髪飾りが揺れる音だけが響く。
殿下はそのまま屋敷まで戻ると、ジェシカの先導で私を部屋まで送り届けてくれた。
彼は丁重な仕草でソファーの上に私を下ろし、そのまま亜麻色の髪を一筋指で梳くようにして撫でた。
「その髪飾り、レイラによく似合っている。……本当は、二年前に言いたかった」
それだけ告げると、彼はそっと私の前髪を書き上げ、額にくちづけを落とした。
おそらくは、事故で負った傷痕がある場所だ。
「……っ、殿下……!」
「名前で呼ぶように言ったはずだ」
「……ルイス、その、醜い傷痕ですから、そのようなことはなさらないで……」
「君はそんな傷ひとつで価値を損なう人間じゃない」
「……っ!」
彼は撫でるようにして私の前髪を整えると、すっと姿勢を正した。その表情はやっぱりどことなく和らいでいて、目が合うだけで心臓が暴れ出してしまう。
「疲れただろう。今日はこれで失礼する。また近いうちに会おう、レイラ」
そのあと、どうやって殿下を見送ったのかはよく覚えていない。ばくばくと高鳴ったままの心臓がうるさすぎて、何もかも現実のことのようには思えなかったのだ。
……夢を、見ていたのかしら。そうよ、都合のいい夢よ。
寝台にうつ伏せに倒れ込んで、ぎゅう、とシーツを掴む。
滑らかな絹は、ひやりと冷たいはずなのに、頬に帯びた熱も、くちづけられた傷痕の疼きも、すこしも冷ましてはくれなかった。
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