第5話
姿見の前で、菫色のワンピースを着付けてもらう。腰の後ろにはワンピースよりもさらに薄い色のリボンが結ばれ、亜麻色の髪はアネモネの花をかたどった髪飾りでまとめてもらった。
……壊れていなくてよかった。
この髪飾りは、二年前、私が事故にあった日に身につけていたものだ。いわくつきのものと捉えられなくもないが、殿下から贈られた大切なものだから、しまいこんでおくのももったいない。
久しぶりに着飾っているわけは、他でもない。殿下とお会いする約束をしているからだ。目覚めてから、二回目の対面となる。
「大変お綺麗ですよ、お嬢さま」
ジェシカが、どこか満足げに微笑んで姿見を覗き込む。私を着飾らせるときの彼女は、いつもにもまして楽しそうだ。
「殿下もきっと、お喜びになるに違いありません」
ジェシカは本気でそう思って褒めてくれているのだろうけれど、どうしても苦々しい笑みが浮かんでしまった。
……綺麗に身なりは整っているけれど、ローゼを思わせる箇所はどこにもないわね。
ローゼは鮮やかな色を好んで身に纏っていたから、いつも大輪の薔薇のように華やかなひとだった。逃げ出した今も、美しい衣装を纏って微笑んでいるだろうか。
ローゼの行方は、相変わらず掴めないままだ。このまま進めば、私と殿下の婚約発表と同時期に、彼女の「病死」が公表される。
……それまでにローゼが見つかったら、きっと私と殿下の再婚約の話はなくなるわよね。
彼女の発見を願っているのか、恐れているのか、自分でもよくわからない。ただ、無事であってほしいと願う気持ちに嘘はなかった。
「お嬢さま、王太子殿下がまもなくご到着されます」
「ええ、行きましょう」
ジェシカの腕を借りて、自室からゆっくりと歩き出す。今日は天気がいいから、中庭にティーテーブルを用意してもらった。殿下とは、そこでお話をするつもりだ。
……ティーカップも問題なく持ち上げられるようになったし、何より介助があれば屋敷の中も動き回れるようになったわ。
最後に殿下にお会いしてから二週間、以前とは比べ物にならないくらい回復したと思う。殿下を煩わせることもないはずだ。
屋敷の門までジェシカとともに向かい、そこで王家の馬車を出迎えた。すこしの間ならばひとりで立っていられるから、一時的にジェシカは脇に控えている。
「王太子殿下、ようこそお越しくださいました」
馬車から降りてきた殿下の姿を認めるなり、ワンピースをつまんでゆったりと礼をする。二年前のようには行かないが、すこしずつ感覚を思い出し始めている気がした。
「……外に出て平気なのか」
尋問のような鋭い問いに、微笑みを浮かべて答える。
「はい、おかげさまで、かなり回復いたしました。中庭の花々が美しい時期ですので、今日はそちらにご案内させてください」
「君に任せる」
了承を得られたことにほっとしながら、そっとジェシカに視線を送る。歩行の介助を頼むためだ。
ジェシカは「失礼いたします」と断ってから、私の隣を陣取った。殿下とは反対側だ。
「歩くにはまだ介助が必要ですので、侍女の同行をお許しください」
視線を伏せて流れるように告げ、そっとジェシカの腕を取る。反対されるわけもないと思っていた。
だが、続く殿下の言葉は予想外のものだった。
「……わざわざ侍女を使わずとも、僕の腕に掴まればいい」
「え……?」
あまりに驚いて、殿下を見上げてしまう。わずかにもぶれることのない蒼色の瞳が、じっとこちらを見つめていた。
確かにエスコートの際は殿下の腕に触れたこともあるが、あれは軽く手を添えるくらいのものだ。
対して今は、足を動かすたびに、体重の一部を支えてもらうようにしてジェシカの腕に掴まっている。いわば、杖代わりと同義だった。
「僕では頼りないか?」
「い、いいえ……そのようなことは……」
……でも、殿下を杖代わりにするなんて……。
言い淀んでいるうちに、殿下の右手がそっと私の右手を取り、彼の左手は私を支えるように腰に回された。まるで彼に背後から包まれるようにして歩くかたちだ。
ふわり、と爽やかで品の良い香りが鼻腔をくすぐる。とたんに心臓が早鐘を打ち始めた。舞踏会で踊るときには殿下と密着したこともあったけれど、こんなふうにエスコートされるのは初めてだ。
……こんなに近かったら、心臓の音が聞こえてしまうのではないかしら。
恥ずかしさに、ぎゅうと目をつぶる。やけに暑く思えるのは、日差しのせいだけではないだろう。
「……手が震えている。無理をしているんじゃないのか」
頭上から降ってくる声にすら、びくりと肩が震えてしまった。殿下はやはりこんな些細な変化も見逃してくれないようだ。
「その……すこしだけ、緊張しているのです。殿下とこんなふうに歩くのは、久しぶりですから」
「そうだな。……君が、不快に思っていなければいいんだが」
「そのようなこと、思うはずがありません。……むしろ、とても嬉しく思います」
思わずはにかむように告げれば、ほんのすこしだけ、私の指先を握る彼の手に力がこもった気がした。
「それなら、よかった」
その声は、いつになく柔らかなものだった。彼は今、どんな表情でその言葉を告げたのだろう。
……向かい合っていなかったのが悔やまれるわ。
どくどくと、心臓はうるさいくらいに高鳴ったままだ。殿下との面会はまだ始まったばかりだというのに、すでに何日ぶんもの幸福を感じたように思える。
……私、今もやっぱり殿下が好きなのね。
燻るように微熱を持っていた淡い初恋に、またひとつ、小さな火が灯ったような気がした。
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