第4話

 それから私は、殿下と再会を果たす前以上に療養に励んだ。殿下の婚約者となる以上、求められる水準は跳ね上がる。すくなくとも、二年前の私と同程度に振る舞えるようにならなければならない。


「お嬢さま、ご無理はなさらないでくださいませね」


「ええ、心配しないで。このくらい平気よ」


 ジェシカに見守られながら、さらさらとペンを動かす。この数日で、またずいぶんと体が動くようになったように思う。目標があるというのは、思った以上に療養生活に良い効果をもたらすらしい。


 殿下と私の再度の婚約は、ほとんど決定事項として進行しているらしい。婚約式は私の体調の回復を見てから行われるが、半年以内が望ましいとの話だった。幸い、医師も驚くほどの早さで回復を見せているから、この調子でいけば無理な話でもないだろう。


「……なんとか、できたかしら」


 書き上げた手紙を陽の光にかざして、ふう、と息をつく。殿下との再会の日のあと、すぐに次の訪問日について手紙でお知らせしてくださったので、今度は自筆で返事をしたためたところだ。


 ……気をつけて書いたつもりだけれど、以前のようにはいかないわね。


 歯痒く思っていると横からジェシカが覗き込み、感嘆の声を上げる。


「素晴らしいです、お嬢さま! たった数日で、ここまで綺麗に書けるようになるなんて……」


「……そうね、きっと、神さまか魔術師さまが励ましてくださっているのよね」


 落ち着いたら、ルウェイン教の教会に礼拝に行こう。二年もの深い眠りから目覚めたことも、異様な早さで回復を見せていることも、到底私だけの力とは思えない。


「はい、私もお供いたします」


 優しいジェシカの言葉に、自然と頬が緩む。目覚めた直後は衝撃的な事実ばかり知らされて絶望していたが、ジェシカとこうして談笑できるようになったのだから不思議なものだ。自分の心でさえ、どんなふうに転がるかわからない。


「ジェシカ、今日は天気がいいから、お庭に出てみたいの。一緒に来てくれる?」


「もちろんです。ですが、すこしでもお疲れになっているご様子でしたら、すぐにお部屋にお戻しいたしますからね?」


「ふふ、過保護だわ」


 くすくすと笑い合いながら、彼女の手を借りてゆっくりと立ち上がる。この数日は、ジェシカに支えられながら、短い距離を歩けるようになっていた。


 まもなく春の盛りを迎えるアシュベリー公爵邸の庭は、それはもう美しいはずだ。ローゼがいた頃は、彼女と両親が好んで過ごしていた場所だったからあまり近づかなかったけれど、今はほとんど人の姿を見かけることはない。ローゼが失踪したことは、両親の心に深い傷を残しているらしく、ふたりはやむを得ない場面以外はほとんど自室に引きこもって過ごしているようだった。


 ……私を見舞ってくださったのも、目覚めたときと、殿下との再婚約の話をしにきたときだけだものね。


 両親からの関心の薄さを実感すると、つきりと胸が痛む気がするが、腕を支えてくれるジェシカの温もりがすぐにその痛みをやわらげてくれた。ジェシカのように心から私を大切に思ってくれるひとがそばにいるのだから、与えられない愛に、いつまでも縋り付く必要はない。


 ……もっとも、殿下のことをそんなふうに割り切れるかどうかはわからないけれど。


 眼裏に、月影を編み込んだような銀の髪を思い浮かべながら、中庭に続く連絡通路へ向かう。通路に繋がる角を曲がろうかというとき、見えない陰から若い侍女たちの声が聞こえてきた。


「ねえ、聞いた? レイラお嬢さまと王太子殿下の再婚約の話」


「ええ……殿下には、ローゼお嬢さまがいるのに、どうして……」

 

 どくん、と心臓が跳ね上がる。当然私と殿下の婚約話は屋敷中に広まっているだろうと思っていたが、こうして実際に話しているのを聞くのは初めてだ。自然と足が止まる。


「正直、レイラお嬢さまよりローゼお嬢さまのほうがお似合いだと思っていたわ」


「殿下はローゼお嬢さまとはいつも腕を組んで歩いていたものね。ローゼお嬢さま、とっても幸せそうだった」


「まるで絵画のようにお美しいふたりだったわ……。傷のあるレイラお嬢さまでは、ああはいかないでしょうね」


 口々に語られる私の知らないふたりの姿に、胸が抉られるように痛んだ。詳しく語られずとも、美しいふたりの姿はまざまざと眼裏に浮かび上がる。


 ……やっぱり、侍女たちから見ても、ローゼのほうが殿下にお似合いだと思うわよね。


 わかっていたことだが、「殿下の婚約者」という大任を与えられて弾んでいた心が、しぼんでいくような気がした。知らずのうちに私は、浮かれていたのかもしれない。


「なんと無礼な……! お嬢さま、彼女たちの言動は公爵さまにお伝えしておきます」


「いいのよ、ジェシカ。事実だもの。……私だって、殿下にはローゼのほうがお似合いだってわかってる」


 くるりと踵を返して、壁に手を伝うようにしてよろよろと歩き出す。


「お嬢さま、お散歩は……?」


「やっぱり、今日はやめておくわ。なんだか疲れてしまったの……」


 ゆっくりと自室に向かって歩みを進める私を、ジェシカが素早く支えてくれた。


「お嬢さま……私は、彼女たちのようには思いません。理知的な殿下には、レイラお嬢さまのように聡明な方がお似合いです。それに、殿下は……ローゼお嬢さまといるときよりも、お嬢さまとお過ごしになられているときのほうが……なんというか、強い感情に揺り動かされているような感じがします」


「ふふ……それだけ私に苛立っておられるのかもしれないわ」


「そうでしょうか……」


 いずれにせよ、私は殿下に安らぎを与える相手ではないということなのだろう。私では、ローゼの身代わりを充分に果たせそうにない。


 ……引き受けると決めたことだから後悔はないけれど、でも、寂しいわね。


 私が目覚めるよりも、ローゼが帰ってきたほうが、殿下も、両親も、侍女たちも喜んだのかもしれない。彼女がいなくなった今も、私はあの美しい妹に敵わないのだ。


 ……ローゼはきっと、こんな思いしたことはないのでしょうね。


 廊下の窓から、黄金色に輝く陽の光が差し込んでいる。それはどうしても、ローゼの美しい白金の髪を彷彿とさせた。


「……部屋に戻ったら、カーテンを閉めて。すこし、眠るから」


「かしこまりました」


 逃げるように陽の光に背を向けて、よろよろと自室に向かう。何もかもが惨めに思えて、ほんのすこしだけ、目尻に涙が滲んでいた。

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