第3話
ふわり、と爽やかなハーブティーが香る。いつもであれば、ほう、と息をつくところだけれど、殿下の前ではとてもじゃないが気は休まらない。
殿下からいただいた花束は、早速侍女たちに生けてもらった。今は部屋の隅に控えるジェシカのそばに飾られている。
お茶が注がれても、焼き菓子が並べられても、私たちの間に会話はなかった。昔から沈黙は珍しいことではないが、状況が状況なだけに気まずさは残る。
重苦しい静寂を誤魔化すように、痩せ細った指でティーカップに手を伸ばす。
だが、指が震えてうまく持ち上がらない。殿下の前で零すわけにはいかないから、ここは無理をしない方がいいだろう。
なんてことないように手を引っ込めて、膝の上に揃える。テーブルを挟んだ向こう側で、かちゃりとティーカップが置かれる音がした。
「……万全ではないと聞いていたが、予想以上だ。横にならなくても平気なのか」
鋭い殿下が、見逃してくれるはずもなかった。かあっと顔が熱くなるのを感じながら、視線を伏せる。
「お見苦しいところをお見せしてしまい、申し訳ございません。物を持ったり動かしたりするのはまだうまくできませんが……こうして座っているぶんには平気です」
「そうか……。だから、手紙も代筆だったんだな」
「え……?」
これには思わず、はっとして殿下の顔を見つめてしまう。視線が合うなり彼は怪訝そうな顔をした。
「……先日の手紙は、君が書いたわけじゃないだろう?」
「え、ええ……」
……私の字ではないと、気づいてくださっていたなんて。
またひとつ、じわりと心の中が温まるような気がした。聡明な殿下のことだ。愛情の有無に関わらず、元婚約者の筆跡を覚えていたというだけのことかもしれないが、私には嬉しくてならなかった。
……これ以上未練を増やす前に、本題に入ったほうがよさそうね。
軽く呼吸を整えてから、姿勢を正して殿下を見据える。鋭い蒼のまなざしが、すぐに私を捉えた。
「殿下……両親からローゼのことを聞きました。殿下の婚約者という立場でありながら、行方を眩ますなんて、姉として、どう謝罪してよいか……。大変なご迷惑をおかけしてしまい、本当に申し訳ございません」
「君が謝らなければならないことはひとつもない。ローゼのことで、責任など感じるな」
淀みなく紡がれた言葉に、彼が本当に私を責めるつもりはないのだと悟る。愛するローゼが失踪した今もこうして毅然とした態度を保っておられるのだから、立派な方だ。
「公爵家も全力を挙げて捜しております。一刻も早く、未来の王太子夫妻が再会できることを願うばかりです」
何か誤解やすれ違いがあったにせよ、ローゼを見つけないことには始まらないのだ。一日も早く彼女の消息を掴みたいと願う気持ちに嘘はなかった。
だが殿下はぴくりと眉を動かして、氷のように冷えきった声音で告げる。
「……君からそんな言葉は聞きたくない」
「申し訳ございません……」
どうやら私の言葉選びが気に障ったようだ。捉えようによっては嫌味に受け取られてしまっただろうか。
「それに……王家としてはもうローゼを王太子妃の座につかせるつもりはない。これだけ捜しても見つからない以上、表向きには病で亡くなったことにするつもりだ」
「――え?」
あまりに衝撃的な告白に、目を見開いて殿下を見つめてしまう。一方の彼は顔色ひとつ変えずに、淡々と言葉を紡いだ。
「そこで、異例なことだが……君に、もういちど僕の婚約者になってもらいたい。今日は、そういう話をしにきた」
……私が、もういちど殿下の婚約者に?
どくん、と心臓が大きく跳ねる。思ってもみなかった展開に、呼吸まで乱れてしまいそうだ。
「……ありがたいお話ですが、私に務まるとは思えません」
今の私は、二年前とは違う。額には事故で負った傷跡が残っているし、公務に励めるほどに体調が回復する保証もない。子どもだって、産めるかどうかもわからないのだ。
「君は事故に遭う直前まで、妃教育を受け、それを完璧にこなしてきた。王国中を捜しても、君に敵う令嬢はいないだろう」
殿下は滑らかに言葉を紡いだ。耳の奥では、どくどくと心臓の音が鳴り続けている。
……王家はそれほどまでに、アシュベリー公爵家と縁を結びたいのかしら。
ずきり、と頭が痛むような気がした。思わず額に手を当て、ぎゅうと目をつぶる。
「……君の意に沿わない話だったとしても、これはほとんど決定事項だ。正式な婚約はもうすこし先になるだろうが……君を逃がすつもりはない」
ここにきて初めて、殿下はわずかに口もとを緩めた。自嘲気味にも捉えられるその微笑みに、この婚約自体、きっと彼の意に沿わないものなのだろうと察する。
……それもそうだわ。いわば、私はローゼの身代わりなのだもの。
がらくた同然と思っていた私の存在に、殿下の婚約者という大任が与えられるなんて、思ってもみない名誉だが、殿下はこれでいいのだろうか。
……いえ、殿下のことだもの。それでいいとおっしゃるのでしょうね。
なんだか、夢を見ているような心地だ。殿下との再度の婚約話が衝撃的すぎて、私自身、嬉しいのか嫌なのかもよくわからない。
……でも、お別れをせずにすむのね。
その事実に、心のどこかで安堵を覚えたことだけは、確かだった。
「しばらくは、婚約の準備を進めながら君の様子を見にくる。無理をせずに、ゆっくり療養するんだ」
「……はい。ありがとうございます」
面会が終わる気配を感じて、彼を送り出すべく無理やり笑みを取り繕う。
彼は私の心の奥を見透かすように、じっとこちらを見つめていた。だがそれもほんの数秒のことで、彼はすっと立ち上がり、すぐに背を向けてしまう。
「また近いうちに来る。何か困ったことがあれば知らせてくれ」
「はい、王太子殿下」
先ほど立ち上がって咎められたことを思い出して、今度は座ったまま挨拶をした。
淀みなく扉の方へ足をすすめていた殿下だったが、ふと、退室間際にわずかにこちらを振り返る。
「手紙」
「え?」
「……次からは、ペンを持てるようになっていたら君が書くんだ。そのほうが、練習にもなるだろう」
それだけを言い残して、今度こそ彼は応接間から立ち去っていった。おそらく、今の話をお父さまやお母さまにもしに行くのだろう。
……練習でもいいから、自筆で書けなんて。
この国のどこに、殿下に宛てる手紙を練習台に使う人間がいるのだろう。
だが、私の状態を見て彼なりに気遣ってくれた結果なのかもしれないと思うと、冗談としては受け止められなかった。
……そうね、身代わりなりに、精いっぱいやってみようかしら。
どうせ逃げられないのならば、与えられた場所で最善を尽くすしかない。傷を負ってしまったこの身には到底ふさわしくない大任だが、必要とされる間は頑張ってみよう。
「まずは、ペンを動かす練習からかしらね……」
複雑な心境は拭えないものの、不思議と殿下とお会いする前よりもしゃんとした気分だ。部屋の隅で私たちの様子を見守っていたジェシカに小さく微笑みかけ、さっそく、ペンと紙を持ってきてもらうよう伝えた。
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