龍造寺恋鐘の自宅はとても汚い 下
「ちょっと散らかってるんだ」
家主はそう表現するが、ちょっとどころではない。
廊下にはペットボトルやごみ袋や服が散らばっている。玄関すぐの場所に台所があるが、そこにも使った形跡のあるフライパンや食器が山積みになっている。
廊下の奥には更に物が散乱していた。パッと見る限りでも書類や本が床を埋め、書類の束の上にノートPCが置かれている。配線やVR用のヘッドセットも無造作に転がっている。その合間にタッパーとか食器の容器とか服が混ざっている。
一言で言えば、汚部屋だ。オフィスの散らかり具合とほとんど変わらない。
「君、掃除は好き?」
呆然と眺めていると、恋鐘にそう問われる。
「好きか嫌いかでいえば、好きな方だとは思いますが」
「じゃあこの部屋を片付けてくれないか」
一瞬の間を置いて緑栄は声を上げる。「は?」
「なに言ってるんですか」
「片付けを頼んでいる」
「そんなことはわかります! なんで僕に頼むんですか」
「私はどうにも掃除というものが苦手でね。片付けを開始すると、なぜか散らばっている本を読み始めて夢中になってしまう」
その光景は容易く想像ができた。
「なので掃除が得意だという君に頼もうと判断した。合理的だろう」
「……まさかこれが今日の仕事ですか」
世の中には仕事と称して私的な手伝いや作業を命令する悪徳上司や企業が存在するという。我が身に降り掛かっているのはそれと同じだろうか、と緑栄は客観的に考える。
「そんなわけないだろう? 業務に関係ない範囲、内容のことを仕事とは言わない。そんなことをさせたら労働基準法違反で私が訴えられる」
存外にまともな返答がきてホッとする。
「なので別料金を支払う。もちろん業務時間外か休日に頼むよ」
そうでもなかった。
あまりにも嫌すぎるので別の方向に仕向ける。
「なんでハウスクリーニングを頼まないんですか」
「他人に自室をいじられるのはなんか嫌」
「僕だって他人ですが」
指摘すると、恋鐘が緑栄の方を向く。目を丸くしながら。「そういえばそうだな」
「でも君は嫌な気がしない」
「な、何でですか」
「うーん……」恋鐘は腕を組んで首を傾げる。
「たぶん、配慮できる人間と感じたからだと思う。デスクの中身までは触らなかったし、君に任せれば嫌な思いをしない気がする。一方で業者だと人となりが分からない。だから不安なんだ」
理屈は分からなくもなかったが、プロのハウスクリーニングの方が安心という意味では上ではないだろうか。異性に自分の部屋を任せる方が安心だなんて、彼女の基準が本当に理解できない。
そうは言ってもキッパリ断れる性分ではない緑栄は、頼られたら弱い。その人間性ゆえにインターンから逃れられなかったようなものだ。
改めて廊下の奥を覗き見る。掃除くらいなら、と甘い考えが過ぎった瞬間、ベージュ色の下着らしきものを目にした。
「だめ! 無理ですやりません!」
「ええー、せっかく頼れると思ったのに」
露骨にしょんぼりされると胸が痛むが、恋鐘が良くても緑栄自身の倫理観と羞恥心的にNGだった。
「給料とは別に支払うと言っても駄目?」
「ダメです。金額の問題じゃないので」
「じゃあ別の対価があればいいのか」
そういう問題ではないのだが、恋鐘は玄関の壁にもたれかかって腕を組み、真剣に考え始めてしまう。
「うーん、君が求めているものか。さすがに付き合いが短すぎてパッとは出てこないな」
「だからなにを言われてもやりませんって」
「古来より人を動かすのは物欲の他に性欲か名誉欲と相場が決まっている。名誉はすぐには与えられないから、性欲だな」
「人の話聞いてますか?」
「確かに君は年頃の男子だ。二十六歳の私はそういう対象に入るかもしれない。だが社会通念的にも企業倫理的にも人道的にも許しがたい。君にも好みがあるだろう。やはりクリティカルな欲求を見つけるには面談を通さないと限界があるな」
「――二十六歳?」
緑栄の呟きに、考え込んでいた恋鐘がつられて視線を向ける。
「恋鐘さん、二十六歳なんですか?」
「言ってなかったかな」
「はい……いや、本当に?」
「こんなとき嘘をついてどうする。あ、今年二十七歳になるからという意味の指摘か?」
違う、そうじゃない。問題は恋鐘の大学在籍時の年齢だ。
恋鐘は十年前に大学に在籍していたと言っていた。逆算すると十六歳で、日本では高校生の年齢になる。普通に考えればその年齢で大学生になっているはずがない、というかなれるはずがない。
普通に考えれば。
「あの、恋鐘さんて何歳で大学に入ったんですか」
「大学? 確か十七歳」
「大学は十八歳からですよね?」
「そうなんだよ、この国の煩わしい制度の一つだ。諸外国では違うというのにな。まぁ飛び級という制度があるだけマシだったが」
緑栄は呆気にとられる。恋鐘は飛び級を使ったと暗に示している。
だがそこで矛盾に気づく。十年前に研究室のOBだと言っていたが、十年前に大学に入ったばかりならOBにはなれない。
「じゃあ、OBになったのは実際は六年前くらいってことですか」
「ん? いや、研究室に入ったのはきっかり十年前だが」
「それだと入学時点で研究室に入ったことになりますけど」
「そうだけど? 頼んだらすんなりいけた」
「………………」
出てくる話がどこもかしこも規格外すぎる。
つまり恋鐘は、十七歳で大学に入れるほどの才女で、大学一年生から研究室に所属するくらいの能力があることになる。
この汚部屋の主が。
神はキャラメイクを間違えたのではないだろうか。
「私の経歴の話なんかどうでもいいだろ。今は君がどうやったら引き受けてくれるかだ」
緑栄は我に返る。「まだ言ってるんですか……」
「あ、いいことを思いついた。掃除をしてくれたら君の心の悩みを解決してあげよう。無料で」
人の話をまったく聞いていない恋鐘はぽんと手を叩く。
いい加減無視しても良かったのだが、緑栄はつい聞いてしまった。
「悩みがなかったらどうするんです」
「そんな人はいないよ」
恋鐘が言い切る。
「人は必ず悩みを、心の問題を抱えている。それに立ち向かう勇気を与え補助するのが私の仕事だ。身をもって体験するということも、この仕事を理解する手伝いになる」
恋鐘が見つめてくる。その黒曜石のような瞳に見つめられていると、心の奥底を覗かれているようで胸の奥がざわめいた。
脳裏を過るのは母と兄。そして父の背中。
ズキリと、胃のあたりに鈍痛が走る。
「――そうなんですね」緑栄は咄嗟に視線を反らし、当たり障りのない返事をした。
「その気になったら言ってくれ」
「僕が掃除の仕方を教えるというのはどうです」
「却下」
味気なく取り下げた恋鐘は廊下の方へ出ていく。よっぽど掃除が嫌いらしい。
ため息を吐いた緑栄は、また散らかっている部屋を見つめる。
特別な人間というのは本当に、常識では計り知れない。
龍造寺恋鐘は気づかせたい 伊神一稀 @ikami_kazuki
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