閑話
龍造寺恋鐘の自宅はとても汚い 上
――それは、緑栄がインターンシップを決めた次の日のこと。
「――うわっ」
オフィスのドアが開くと同時に聞こえたのは、驚きの声だった。
会社の主より先に来ていたオフィスで待ち構えていた緑栄は、予想通りの反応に内心でほくそ笑みながら振り返る。
「どうです。かなり綺麗になったで――」
緑栄の続く言葉が途中で途切れる。オフィスに入ってきた人物があまりにも予想外の姿だったからだ。
玄関に立っているのは上下スウェット姿の恋鐘。髪の毛はまた寝起きみたいにボサボサで、化粧もしていない。布団からそのまま抜け出してきたような格好が予想外すぎて、驚かせるつもりの緑栄の方が固まってしまった。
「凄いな。これ全部、君がやったのか」
そんな緑栄の様子など頓着せず、感心したように呟く恋鐘が、スリッパに履き替えて近づいてくる。そして自分のデスク――昨日まであらゆる物が積まれていた山脈――が、一般的な量かつきちんと整理整頓されている様を唖然と眺めた。
綺麗にしたのはもちろん緑栄だ。指示は自分の机周りの片づけだけだったのだが、掃除しているうちにどうしても恋鐘の方が気になってしまい、手を出さずにはいられなくなってしまった。本棚やラックや床も掃除し始めると退勤時間を過ぎてしまったのだが、綺麗にできたので満足感のほうが強い。
「すみません勝手なことをして。あ、重要そうなものは見てないしケースにまとめただけですから」
「それはいいけど……君、ハウスキーパーの経験でも?」
「いえ。単に掃除するのが苦手じゃないってだけです」
「苦手じゃないってだけでこんなにできるんだ。君も変わった人だなぁ」
恋鐘は心底不思議そうにしながら自分のデスクの上を指でなぞっている。何だか言われてはいけない人に言われた気がする。
「ていうか恋鐘さんこそ、あの、格好が」
「格好?」恋鐘が緑栄に向き直り、首を傾げる。
「私の格好が気になる?」
「いつもその格好で仕事してるんですか」
「はは、まさか。これは寝間着だよ。パジャマさ」
恋鐘は笑い飛ばしながら、スウェットの中に手を入れて脇腹をぽりぽり掻く。実家にいるようなだらしなさ、もとい自然体だ。
「パジャマのまま会社に来てるんですか」
「うん」
スウェット姿の恋鐘が電車に揺られている姿が浮かぶ。
「……目立ちませんか」
「そりゃ人に見られたらね。さすがの私も恥ずかしいよ」
何やら会話が噛み合っていない。
人に見られたらというが、電車では必ず人目につくだろう。対面している
恋鐘はおもむろに手を打つ。「ああ、そうか」
「君、もしかして私がこのまま通勤してると思ってるな?」
「違うんですか」
「違うに決まってるだろう」
恋鐘が嘆息する。
「私はこのオフィスの上の階に部屋を借りて住んでる。文字通り起きたままオフィスに来てるだけだよ」
「なるほど、びっくりしたぁ」
「びっくりしたのはこっちだ。確かに説明してなかったけど、上に住んでることくらい気づくだろう普通」
無理なことを言われている気がする。
恋鐘はやれやれと首を振った。
「登紀子さんがいらっしゃった後に着替えてきただろう。オフィスの配置的に着替えのスペースなんかないんだから、どこか違う場所に行った、それも私が身支度できる場所と考えれば自ずと候補は限られる」
緑栄は廊下の方に目を向ける。確か昨日の恋鐘は廊下の奥へと消えていった。そこには非常階段がある。非常階段を通って自室に戻り着替えてきたわけだ。
別の階で着替えてきたことまでは予測していたが、身綺麗にするにはそれなりのパーソナルな場所であることが伺える。それとスウェット姿でやってきたことを紐づければ自室ないし自室に近い場所がこのビルにある、と結びつく。
ただそれは今こうして指摘されないと分からなかったというか、昨日あまりにも色々なことがあったしスウェット姿が強烈すぎて、はっきり言ってそこまで頭が回らなかった。
「君はもう少し観察眼とか考察力を磨いた方がいいな。第一、スウェット姿で通勤するような人間に見えるのか、私が?」
「はい」
「はいって言ったか」
「デスクに積まれてた書類はファイリングに挟んだだけなので順番は適当です。後で確認してください。PC関係の機材はラックに分類して置きました」
危ないとみた緑栄は咄嗟に話題を切り替える。恋鐘はじーっと半目で見つめてきたが「まぁいい」と一息吐く。
それから本棚やラック、デスクの下などをひとしきり確認する。どこか不機嫌そうな様子だったので、片付け方が不満だったのかと思えてきた。
「あの、勝手に変えてすみません。場所とか配置が嫌だったら自由に変えてください。参照用の一覧表も作ります」
「別にいい。片付けられたのは意外だったけど、最適な仕分けだと思う。それにもう覚えた」
「覚えた?」
「どこになにが置いてあるのか大体わかったから、君に聞くことはない」
恋鐘は自分の椅子に座って引き出しを引く。「さすがにここは片付いてないね」
「触られたくないと思ったので……って、本当に覚えたんですか?」
「しつこいな。覚えたと言ってる」
ムッとしている恋鐘に嘘をついている感じはない。そんな芸当が人間に可能なのだろうか。
しばらく自分の机を確かめていた恋鐘だが、なにかに気づいたように顔を上げた。「そうだ」
「ちょっと来てくれ」
恋鐘が席を立ち、廊下の方へ歩いていく。付いていくと、彼女は非常口の扉を開けて外へと出る。そのまま簡素な階段を登っていくので緑栄も続いた。
階段を登った先には廊下があり、玄関と思われる扉が二つあるのが見えた。よくある雑居ビルの形で、一階や二階はテナントに貸し出しその上は所有者の自宅、あるいは賃貸で部屋を貸出をしているタイプのようだった。
恋鐘は鍵を取り出し、無造作に玄関の扉を開ける。さっきの話だと恋鐘の自宅があることになる。さすがに無遠慮に近づくことはできない。
しかし緑栄が立ち止まっていることに気づくや恋鐘は振り返って手招きする。「なにしてるの、早く来なさい」
自宅に入れさせるつもりなのか。意図が分からなさすぎて不安になりながらも、緑栄は彼女の方に近づき、そっと玄関から中を覗く。
――そこはカオスだった。
前にも同じ感想を抱いた気がする。なんだろう、デジャブだ。
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