第11話
提携先のクリニックを後にすると、もう夕暮れ時だった。
むわっとする蒸し暑さと蝉の大合唱に迎えられながら、恋鐘と緑栄はオフィスに向かって歩き出す。
「彼のお母さん、付き添いには来てなかったですね」
緑栄は恋鐘より半歩ほど引いた位置でそう切り出した。今日はスクールカウンセラーの加藤だけが付き添いに来ていて、いつも一緒に行動していた母親はいなかった。
「やっぱり、洋平君と居るのが気まずいから、とか……?」
彼が引きこもっていた理由は両親の離婚問題に端を発していた。それが判明してしまった今、もう元の関係ではいられないだろう。
「ああ、それなら違う。付き添いに来なくていいと私から頼んだんだ」
恋鐘が事も無げに告げる。緑栄が目を丸くする隣で、彼女はポニーテールに結った長い髪を解いていた。
「何でですか?」
「今回の件は二次成長に伴う反抗期が原因だろう? ようは親が自分の一部ではなく、自分とは違う他人であると自覚していく通過儀礼が必要なんだ。一人で来させることだけでも、大人と一人で対面することだけでも、彼にとっては重要な一歩だ」
「へ、へー……」
まさかそんなことまで狙っていたなんて思いもよらなかった。この人は一体どこまで計算して動いているのだろう。
――いや待て。なにか妙な言い方をしていなかったか?
「あれ? 原因てご両親の離婚問題ですよね? なんで反抗期が原因になってるんですか」
「なんでもなにも、一目瞭然じゃないか。あの精神的に不安定な状態、両親に対する過敏ともいえる言動は反抗期の特徴だよ。彼は単に反抗期をこじらせてただけ」
緑栄が立ち止まる。
しかし恋鐘は無視してずんずん進んでいく。緑栄は慌てて彼女に追いつく。
「で、でも! 洋平君にはそんなこと一言も言ってないですよね?」
「本人がそれじゃ納得しないからね。でも私は違う説明をした覚えはないよ。思春期とは自分のアイデンティティを確立する時期で、右にも左にも極端に揺れ動くものだ。それを端的に説明すると反抗期と言い換えられるだけで」
「反抗期って誰もがなるやつじゃないですか。それであんなに病むものですか」
「君は一体これまで何を聞いてきたんだ?」
恋鐘が露骨に嘆息する。
「心の有り様なんて人それぞれ。人によって病気をしにくい、寒さに強いなんて個体差があるが、心だって同じだ。誰もが経験するからといって誰もが無事に通過できるわけじゃない。何でも無いことで傷つき、寝込む人だっている。受け取り方だってその人の経験や性格でがらりと変わる。そういう偏見はなくしていきなさい」
ピシャリとたしなめられた。一部の隙もない説明には、納得するしかない。
「う……すいません」
「君はこの仕事で食べていくんだからしっかりしなさい」
「そうですね――って違うでしょ! 僕は三ヶ月の限定雇用ですよ!」
恋鐘が明後日の方向を向きながら「ちっ、気づいたか」なんて舌打ちしている。どさくさ紛れに何か約束させられそうになっていた。危ない。
まったく、と溜息を吐いた緑栄は、夏の空気を吸い込む。胸にあったモヤモヤが、少し軽くなるのを感じた。
「じゃあやっぱり、母親は付いて来たがってたんでしょうか」
「それはね。数ヶ月引きこもっていた息子が急に一人で外に出るのは不安がるものだよ。でもそれも治療の一貫として我慢してもらった。それに、彼女は彼女で自分と向き合う時間が必要だろう。今頃は戸紀子さんの紹介したカウンセラーと会っているはずだよ」
「そうですか。なら良かった」
「心配しなくても、血の繋がらない息子のためにあれほど愛情を注げる人なんだから。今更よそよそしくなんてならないさ。大丈夫だよ、あの二人なら」
恋鐘の言葉が素直に嬉しかった。
二人の関係がこれからどう変わっていくかは分からない。けれど、洋平少年の言葉通りの未来が来れば良いなと、心から願う。
自分達のようにはなってほしくない――そんな悔恨を抱えながら、緑栄は少しだけ微笑んだ。
「さぁ、帰ったら別の案件をまとめないと」伸びをしながら恋鐘がぼやく。
「まだ仕事するんですか?」
「クライエントがいる限りはな」
ともすれば同性すら惚れてしまいそうな格好いい台詞だった。あるいは社畜すぎるとドン引きか。
しかし緑栄には分かっていた。彼女が決して疲れ知らずの超人ではないことを。
単に睡眠や風呂などの人間らしい部分を削って仕事をしているだけで、傍目から見ると色々と破綻している。
たとえ充実しているにしても、緑栄には理解できない。
「恋鐘さんは、どうしてそんなにこの仕事に熱心なんですか」
何が彼女を突き動かすのか。どうしてこの仕事を選んだのか。喉元に引っかかっている疑問だった。
「海辺の撮影だって、別にCGで再現出来たじゃないですか。引っ越し映像だって。わざわざ現地まで行って撮影する必要はないですよね?」
恋鐘が行った作業のうち、コンピュータ技術や外注に依頼すれば済む話は多かった。確かに費用の問題はあるが、労力をかけすぎな気がする。
そう質問した緑栄に、恋鐘は流し目を送る。
「人間の認知機能を侮っちゃいけない。些細なことから偽物と本物の区別をつけてしまうこともある。小さな違和感が原因で没入できなかった経験、君にだってあるだろう?」
「それは、そうですけど」
「まぁ、君の言いたいこともわかる。技術が進歩すれば、そのうち現実の代替になり得るだろう。でもまだその段階じゃない。治療の障害になることはなるべく省きたいんだ」
「そうしないと仮想認知療法が世の中に広まらないから?」
「そうだね」
「なぜですか」
衝動的だったが、純粋に興味本位で聞いてみたかった。
「そこまでして仮想認知療法にこだわるのは、なぜ」
彼女がこだわる理由を、自分の人生を費やしてまで動き続けるその熱意の源泉を、知りたかった。
「それだけ苦しんでいる人が多いから――いや」
恋鐘が言い淀む。「綺麗事だ」と独白して、立ち止まる。
「嘘は良くないな。私は自分の記憶を取り戻すために、仮想認知療法を広めようとしている」
緑も立ち止まる。それから数歩ほど後ろにいる恋鐘へと、ゆっくり振り返る。
「私はね、緑栄。十二歳以前の記憶がまるで無い」
夕暮れの中、一瞬だけ、蝉の大合唱が遠のいた。
「気がついたら病院のベットの上だった。どうしてそこに居るのか、自分が何者なのか、両親はどうしたのか。そうした記憶が全て失われていた。それから十五年の歳月が経ってもまるで思い出せない。だから私は、自分の記憶を取り戻す方法を探し続けている」
「な……ない、って……本当に?」
緑栄が掠れた声で聞くと、恋鐘が笑う。どこか寂しげな笑みだった。
「そういう病気、なんですか?」
「解離性健忘だと診断されている。私の脳機能は正常だったからね。重度のストレスや心因的な原因で思い出せないのではないかと、そう言われている。ようは心の問題だ」
淡々と述べた恋鐘は、遠くを見つめる眼差しだった。
「治療には記憶想起法が用いられたが、私には効果が無かった。医薬も。私は何も思い出せないままだ。だから仮想認知療法に期待してる。この療法には認知症や記憶障害の治癒効果があるという研究結果も出てきている。それでもまだエビデンスが確立していない領域で、研究が進展していかないといけない」
そこまで言われて、恋鐘がこだわる理由の輪郭が読み取れた。
「だから、仮想認知療法を世の中に広めて、もっと研究が加速していくようにしている……?」
恋鐘は答えない。肩を竦めると、止めていた足を一歩踏み出す。
「ま、君には関係ない話さ。帰ろう」
恋鐘は何でもないように告げ、緑栄の横を通り越していく。そうして一人で帰り道を進んでいく。
残された緑栄は、双眸を細める。夕日の眩しさだけが理由ではない。恋鐘の後ろ姿を見ていると、なぜ彼女がこうまで動き続けられるのかわかった気がした。
血の繋がった存在も自分が誰なのかも分からず、記憶を思い出せないまま生き続けて。
それでも一縷の望みに賭けて、前を向いて進んでいる。
だから恋鐘は、心を痛め歪めてしまった人のことを想い、その人達のために動くことができる。自分がそうだから。助けてほしいと願っているから。
決して自分のためだけに時間を費やしているわけじゃない。
ただ、彼女を助けられるのは今のところ誰も居ない。
せめて、ひたすら前を進む彼女を支える誰かが、必要なのではないか。
「待ってください恋鐘さん!」
緑栄は走り出す。
そうは言っても、緑栄だって自分自身のことで精一杯だし、何ができるかは分からない。将来だって漠然としていて、仮想認知療法もつい最近知ったばかりで恋鐘ほどのこだわりは持てない。
だから、三ヶ月の間、恋鐘から目を離さないようにしていよう。
彼女が何を考え、何を行うのか。
自分に何ができるのか。
それを見極めたいと思う程度に、緑栄は惹かれつつあった。
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