この世の果てまで

狭霧

第1話 雨谷水琴

雨谷水琴あまやみこと単独展』


 正面玄関脇に提げられた垂れ幕を見上げ、学芸員の森崎達哉は腕組みをした。

「変なものでも食べてお腹でも痛いの?」

 声に振り返ると二年先輩の同僚・松山麻子が腰に手を当てて立っていた。籍を置く「秋元美術館」の既定よりは短めのタイトスカートから伸びた脚が健康的な自称・美人学芸員だ。

「食ってないし痛くもないよ!それより麻子さん、帰りが遅いって宇津木次長が怒ってたぜ。物販の品出しがまだ終わってないって。アイツは館外に出ると欠陥ブーメランだからな――だってさ」

「ウツボカズラの奴、言ってくれるじゃないの」

「だってその通りだろ?」

「後輩のくせに、そういう生意気な口きいてるともう〈いいこと〉して上げないからね?」

「人聞き悪いよ!」

 達哉は辺りを見回して舌打ちをした。

「いつ誰がそんな〈いいこと〉してくれたってのさ!」

 フフンと鼻を鳴らして麻子は垂れ幕を見上げた。

「雨谷省吾の遺伝子――」

 振り返り、達哉も垂れ幕の巨大な文字を見上げた。

「美しすぎる天才画家」

 鼻に皺を作り、麻子は苦笑いを見せた。

「芸能誌ってホント、ボキャブラリー欠如よね。言葉を豊富に持たないヤツって、どうにも好きになれないわ」

「出版社とのタイアップ案件なんだから、そんな大きな声で…。でも実際写真で見た感じは美人だよ」

「あぁ、そっか、森崎はベルギー行ってて〈生・天谷水琴〉には会ってないんだっけ?」

「次長から写メは見せられたよ。六十のバーコード頭が美女の隣で顔真っ赤で遠慮がちにVサインしてる奴。彼女の方は大人っぽいね。静かに佇んでいるって感じで」

 同時に思いだし、プッと吹いた。

「で、その美女は中学三年で〈ル・サロン〉(フランスの公募展)入選でしょ?神さまってさあ…」

「二物も三物も与えて貰ってる人って居るから。麻子さんもそうじゃない?」

「あら!なに?どうしたのよ?やっと私の本質が分かったの?」

 腰を振り、胸を誇示するように腕組みをしてみせた麻子に達哉は笑って言った。

「溢れんばかりの色気と底なしの食い気と」

 麻子は切れ長の目を細めて達哉を睨んだ。

「と――なによ」

「審美眼」

 達哉の言葉にキョトンとし、にんまりと笑った。

「そこは認めてるよ、俺は」

「あら…なに?〈いいこと〉して欲しいんだ?やっぱ」

「いや、全然」

 麻子は頬を膨らませ、止めてある館の軽自動車を親指で差した。

「ほら!上がってきた物販品運ぶの手伝って!どうせ暇なんでしょ!」

 軽の中には段ボールが詰め込まれている。

「うへ…凄い量だ」

「何言ってんの?まだあとから業者が納品に来るわよ。なにせ大人気の子だからね。明日の初日には本人も来館してテレビと雑誌の取材もあるってさ。どーしてこう男達って美女に弱いかね?どうせ縁なんか無いってのにさぁ」

「だから逆に安心なんじゃない?ほら、推しとのガチ恋ってあるだろ?実際に仲良しになれないんだからリアルにフラれることもないしね」

 ドアを開けて台車を降ろし、荷を積み始めた達哉をボンヤリと見て麻子は呟いた。

「へえ…。身のほどは分かってるのね。でもさぁ、接近出来ないのに熱愛発覚かなんかでフラれ気分――ってあるみたいよ?無駄に悲しいよね、それ」

 達哉は肩を竦めた。

「学習反射的自己保護行動を身に付けないとだね」

 麻子は「やれやれ」というジェスチャーで笑った。

「ほんとにまあ男ってのは」

 クルマ一杯の荷を二人で運び終わるのに二十分かかった。弥生の春風が正面広場で綻び始めたミモザを揺らす午後だった。


 翌日――。

 最寄り駅から徒歩五分という立地にありながら鬱蒼とした木立に囲まれ、地元では「秋元皇居」と呼ばれ親しまれている美術館。その前には、開館一時間も前から二百人ほどが列を成していた。

 その様子を館の最上階にある館長室から見下ろしていたのは純白の顎髭を蓄えた館長の秋元悦司と年若い女。そして女に寄り添うように立つ巨体の壮年だ。

「前売りは全日分完売です。特に今日の分は特典もあるせいでネット上では秒でソールドアウトだったそうです。ウチはキャパの関係で、今回は公開時間を午前午後でも指定していますからまだこんなものですが、今日明日の土日は閉館間際まで当日券を求めて来られるお客様で列が絶えないでしょう」

 穏やかな眼差しで列を見やり、秋元は微笑んだ。

「いや、大したものです。雨谷先生」

 振り返り、雨谷水琴に笑みを向けた。

「それは――」

 言いかけた水琴の言葉を遮って、脇に立つ男が応えた。

「まあ当然の話ですよ、秋元さん。世間は今、水琴に夢中ですからな!」

 ホッソリとした水琴の前に立ったら水琴がスッポリと隠れてしまう巨漢は身体を揺らして笑った。

――「世間は」か。美術ファンや画壇は、ではなく…。

 それでも秋元は苦笑し、頷いて見せた。

「雨谷先生の実力も勿論ですが、桑原さん」

 桑原と呼ばれた巨漢は「ん?」と顔を上げた。

「桑原さんのお力も大きい。これは否定なさらんでしょう?」

 日本五大製紙会社の一角『桑原製紙』会長・桑原丈治は水琴を見てニヤリと笑った。その表情が秋元には神社の狛犬に見えた。

「まあね。幾らこの子が雨谷省吾の一人娘とはいっても、見いだしたのは私だ。〈ル・サロン展〉への応募も私が後押しをしたわけだし、その意味では確かにこの子が今あるのも私のお蔭と言えるだろう」

 謙虚という言葉を知らないか、知る必要の無い立場に居る者一流の物言いに、秋元は内心で顔をしかめていた。

 ノックの音がした。ドアから顔を出したのは麻子だった。

「失礼します。館長、東日テレビさん、準備できたそうです」

「うん。わかった。では雨谷先生、中央ホールへ参りましょう。そこで十分ほどのインタビューがあります。その後、初日特別予約券購入の三十名様用にサインをお願いして――」

 秋元は水琴を見やった。

「先生にはお疲れとは存じますがどうか…」

「大丈夫です。有難いことですから――」

 澄んだ声で言い、水琴は微笑んだ。

 先に立った秋元の後ろに水琴と桑原が続いた。桑原の手が水琴の腰にあるのを見て麻子は俯き、眉を顰めた。

 その桑原が麻子の前を通る際、制服姿の麻子を見て小声で囁いた。

「ほお!なかなか素晴らしい女性がおるね。どうかね、今度酒でも飲みながら美術談義など――」

 深々とお辞儀をしながら麻子は舌を出した。

 笑いながらエレベーターに向かう桑原の後ろ姿に麻子は小さく呟いた。

「あーら、大会社の会長様ともなるとマナーも何も無い〈おゲス〉でらっしゃいますこと」


 観覧前の時間を使って行われた取材対応は問題なく進んだ。

 入り口の大ガラス前では開館を待つ客が中を窺っている。話題の美人画家を一目見たい――その思いで詰めかけたのだから当然だ。

 つつがなくテレビへの対応が終わった。

 水琴はホールに設えたサイン会場の椅子に掛けた。ようやく開館され、最初にサイン会予約券購入者の一団が誘導されて物販コーナーに向かう。手に取るのは絵画展に付きものの図録だ。展覧会パンフレットと呼ばれることもあるが、そう呼ぶには厚すぎるものも多い。通常は展示作品がカラー図版などで収められ、作家の来歴も詳細に記されている。当該画家のファンの書棚には必須アイテムの一つだが、客の中には〈どう見ても〉美術ファンとは言いがたい者も居た。

 基本的に撮影が禁止されている美術展にも拘わらず、その胸にプロ仕様のレンズを付けたカメラをぶら下げている青年がいた。買ったカタログを丸めて持っている。それを見て案内役の学芸員もため息を吐いた。

 レジを済ませた客が水琴の前に列を作る。中にはスマホで水琴の姿を写真に収めようと試み、「始まるまでご遠慮下さい」と注意を受ける者も一人や二人では無い。

 テレビカメラが右往左往するその様子を満足そうに眺めている桑原は――と言えば、これも禁止されている携帯での通話をずっと続けていた。話の内容は株価のことや仕事上の指示などだったが、協賛を受けている手前、傍に居る秋元も小さく咳払いをするに留めた。

「サインを貰った者は社員のガイド付きで見て回れるのだそうだな?」

 電話を切るや、桑原は秋元に尋ねた。

「はい。一グループ十五人で組ませて頂いて『学芸員』が案内をさせて頂く手筈で――あぁ、もう最初のグループが巡覧に出ますね」

 秋元は「社員」と言った桑原に敢えて「学芸員」と言い直したが、桑原が意に介した様子はなかった。

 二人の前を一団が過ぎていく。第一グループの先導は麻子だ。スマホの青年は麻子の後ろ姿も撮影している。

 それから五分と経たずに三十人目のサインも終わった。

「では館長、第二グループの巡覧を始めます」

 ガイド役の達哉が十五人にイヤフォンを配り終えてそう言った。

「うん、よろしく頼む」

 頷き、達哉が歩き出しかけた時、水琴が立ち上がった。

「私も皆さんとご一緒していいですか?」

 驚いたのは達哉だけではない。秋元も桑原も顔を見合わせたが、第二グループからは歓声が上がった。

「あの…お邪魔はしませんから」

 消え入りそうな声で水琴は俯いてしまった。

「私は構いませんが――」

 達哉は秋元と桑原に視線を送った。

「ふん…いいんじゃ無いか?まあ折角の初日だしな。私も午後一の文科大臣との会食が流れたし……」

 そう言って腕時計を確認する桑原に秋元が言った。

「でしたらどうですか、桑原会長。お口に合いますかどうかは分かりませんが、私どもの館内レストランで早めのお昼をご一緒していただけませんか?」

 誘われて桑原は秘書を見た。

「十一時の奥様のお買い物までお時間はあります」

 との答えに、桑原は突き出た腹を撫でて言った。

「お薦めは何かね?私は昼前には肉は食わん主義なんだが」

「それでしたら丁度宜しかったです。ウチのシェフが懇意にしている茨城のレンコン農家から数百個に一つあるかないかの――」

 話しながら立ち去る二人を見送ると達哉は水琴を見た。いつの間にか十五人に取り囲まれ、小柄な身体を更に縮めていた。

「じゃあスタートしましょう。作家の先生が巡覧にご同行下さる機会はそうありませんから、前のグループとも合流したいですしね」

 そう言って達哉が先頭に立った。何故かしきりに恐縮している水琴がおかしくてクスリと笑った時、顔を上げた水琴と目が合った。

「ありがとうございます」

「え?」

「いえ、ギャラリートークに参加していただいて」

 水琴は自分より三十センチほど背の高い達哉を見上げた。

「作家ご本人の前での説明は緊張しますけどね」

 そう続け、笑う達哉を見つめながら水琴は静かに首を振った。

「いえ…。私こそ有難いから」

「え?それは――」

 訊ねかけたところで最初の絵の前にやって来た。達哉は話を止め、一団の前に出た。周囲にはフリーの観覧者が大勢居たが、水琴の登場に驚いた人々が集まり始めたため、既にグループ観覧ではなくなっていた。

 一枚目はF五十号の作品だった。

「では、ご説明させていただきます。皆様よくご存じの作品ではありますが、こちらが〈ル・サロン展〉で金賞の最年少記録を打ち立てた雨谷水琴先生の代表作〈荒野〉です。受賞時点で先生は十六才ということでしたので、現地でも大変な話題となりました。なにせ〈ル・サロン展〉といえば、かのルイ・十四世の時代に誕生した王立絵画・彫刻アカデミー…現在のフランス学士院ですが――この団体が、ルーブル宮殿のご近所さんだったパレ・ロワイヤルで〈官展〉を開催してから連綿と続く歴史と伝統ある展覧会が大元なのですから。つまり〈サロン・ド・パリ〉ですね。ちなみに皆様もよくご存じのパレ・ロワイヤルですが、元々はルイ十三世の代の宰相・リシュリューが建てた自分用の屋敷でした。これを死後、王家に寄贈したことからその名も〈ロワイヤル〉となったわけです。この、今からザッと三百五十年ほども前に生まれた展覧会ですが、現在はパレ・ロワイヤルからグラン・パレに場を移し、世界最大級の公募展として名を馳せております。そこに名を連ねる作家は正に綺羅星。例えばマネやジェリコ、モネやルノワールも出品者でしたし――というトリビアはまたの機会にして、先ずは先生の作品解説ですね」

 達哉は長い髪を掻き上げ、絵に向かった。

 数秒、達哉は黙り込んだ。取り囲んで解説を待っている人々から静かなざわめきが起こる。水琴も達哉の背中を黙って見ていた。

「あ……すみません、ちょっとあの…」

 それまでの饒舌が、急にしどろもどろになって達哉は頭を掻いた。

「スミマセン、では改めまして――」

 咳払いをして解説が始まった。

「描かれた題材は自然の荒野ではなく、明らかに人工物が崩れ落ち、頽廃した文化を象徴する風景としての荒れ野です。人間の文明の本質を、弛みなく繰り返すビルドとディストラクションの中に見る視点が、単に文明批判の域を超えて透明感ある――」

 達哉の解説を水琴は黙って聴いていた。その目を見た時、達哉は奇妙な感覚に囚われた。

――なんだ?あの目…。あの目は何処を見てるんだ?絵じゃない…。俺ってワケでも無い。あの目は…キャンバスのもっと先の…。

 

 その後、連絡して巡覧のペースを落とさせていた第一グループと合流し、麻子と達哉二人による掛け合いのギャラリートークが展開された。

 時には、小声ではあるが水琴自身の口から作品背景が語られるなどして静寂の中にも盛り上がりを見せ、特別巡覧は無事に終了した。

 絵描き自身と観覧する機会を得た客は、皆一様に満足した表情で土産品を売るコーナーへと去って行った。

 ロビー中央の巨大円柱を囲んでいる円形ソファーに達哉と水琴は腰を下ろした。麻子はわざとらしい咳払いで達哉を挟んで水琴とは反対の側に腰掛けた。

「お疲れになったでしょう?」

 脚を伸ばしてリラックスする達哉に、水琴は首を横に振った。

「いいえ。とても楽しかったです」

 何か言おうとしたが、言葉を飲んだ。

「今二十歳なんですよね?」

 麻子は顔を突き出すと達哉越しに水琴を覗き込んで訊ねた。仕草はまるで姉が妹にするようなものだった。

「えっと…あの…来月二十歳になります…」

 麻子はそれを聞いてフッと笑った。

「こんな言い方、失礼かも知れませんけど、雨谷先生ってとても静かなんですね?」

 達哉が肘で麻子を突いた。

「なによぉ…」

「失礼だろそれ…」

「良い意味で言ったの!」

「でもさ」

「あの…。あの、大丈夫です。その通りだし、それに私こんなだからハッキリとした感じのそちらの女性――」

「麻子です。松山麻子!これを機会によろしくお見知りおきください」

 畳みかける勢いに思わず水琴が笑った。

「あ、やっぱり笑顔が素敵!じゃないかなーって思ったのよ」

「麻子さん、ホンットに失礼だって、そういうの」

 言い返そうとする麻子を見て水琴がまた笑った。

「松山さんみたいな女性って好きです。緊張してるから助かります」

「え?緊張?」

 達哉と麻子がハモった。

「はい。個展は何度も開かせていただいてますけど、全然慣れなくて…」

 二人の学芸員は顔を見合わせた。

「それは意外ですね。場数は勿論、その質だって普通の十六歳から二十歳までの間に出来る経験ではないでしょう?慣れませんか?」

 達哉の問いに水琴は大きく頷いた。その仕草が水琴の印象を幼く見せる。前髪が額に掛かる。唇は桜貝の朱をエナメルに溶かした艶やかさだ。

「全然です。もう、何を話せば良いのかも分からないし。それに偉い人から専門用語で何か褒められたりしてもピンとこないし…。第一、周りにいるのはいつも私よりもずっと大人な方ばかりで…」

 指を折り、フロアに視線を落として話していた水琴がハッとしたように顔を上げた。不思議そうに自分を見ている二人と目が合うと顔を赤らめ、俯いた。

「なるほど。この言い方が失礼で無いと良いのですけど、早熟の天才というのは得てしてそうしたものなのかも知れませんね。悲しいかな凡俗の私にはなかなか実感としては――」

 その達哉の言葉を遮るように水琴が訊ねた。

「お訊きしてもいいですか?」

「はい?なんでしょう?」

 達哉は水琴の方へ身体を向けて小首を傾げた。興味深そうに麻子も覗き込む。

「あの…あの…」

「なんでもどうぞ?私でお答え出来ることでしたら――」

「さっき、〈荒野〉の前でなぜ暫く黙って居たんですか?」

 麻子は初耳なので「ほお?」と小声を漏らして達哉を見た。

「あ…ああ、あれは…」

 言葉を探す表情で天井を見上げた。特殊ガラスを通して差し込む日差しは澄んだ水の底で揺れる春陽の様に柔らかい。達哉の横顔を見つめ、水琴は答えを待った。

「絵って、恐ろしいものです」

 意外な言葉に水琴は訊き返した。

「恐ろしい?絵が?」

「はい。恐ろしいですよ。何が――って、暴かれるから」

 麻子は両手を座面に突き、柱に背を凭れて大理石の床を見つめた。

「絵を描こうとする時、先生は最初どうします?」

「え…最初…」

「何を描くか決めますよね?」

「それは…はい」

「その時描こうとする対象はもう描き手の中にあります。心なのか、脳なのかは分かりませんけど。もうあると思うんです」

 麻子と水琴は小さく頷いて見せた。

「あって、それをキャンバスなりに置いていく。技能はその為にある。自分の中に在るものを表現するために必要なのが技能です。奇妙なことに技能のない者は心にある描きたい対象も明確には見えないものです」

 それにも二人は頷いた。

「だから、絵には全部が現れるんです。画家が描きたい物も、それを自分というイメージセンサーがどう捉えたかも。そしてそのイメージから逃れることも出来ないし、逃れる気も無い。それは画家の本能として」

 水琴は達哉が見上げる天井を見つめた。規則性のない直線が四方から走って交差している。それを何本かの波打つ曲線が横切る。セルの一つ一つに白と灰色と黒の彩色がされている。不連続であるにも拘わらず奇妙に心落ち着く模様だ――と、水琴は内心で感じていた。

「特に感性の鋭い――と言って感性の鈍い画家も居ないでしょうが――そうした者は隠せないものですよ。描きたい物の本質をどう捉えたか――を」

 視線を動かさず、膝に置いたバッグのストラップを水琴が握りしめるのを、麻子は横目で見た。

「何故黙ったのか――でしたよね?先生の〈荒野〉は勿論前から存じていますが、今回搬入されて実物を初めて見た時、不思議に思ったんです」

「不思議に…?」

「ええ。なんだろうな…。上手く言えないんですけど、なにか描きたい本質を正体の分からないベールみたいな物が覆っているというか…。その感覚がさっきまた蘇ったというのか…」

 考え込むように呟き、数秒おいて達哉はハッと我に返った。

「あ…!す、すみません!失礼なことを…」

 麻子の苦笑が聞こえたのと同時に、静かな館内に似つかわしくない大きな声が響いた。

「おい、水琴!もう帰るぞ」

 希少レンコンのアレンジ料理に満足した桑原が機嫌良さそうにやって来た。

「そろそろ戻らんと美佐子の奴、喧しいからな」

 自分の言葉に一人で笑い、付き添ってきた秋元を振り返った。

「いやあ、秋元館長が自慢するだけのことはあってなかなか堪能できましたぞ。展示期間中にもう一度くらい味わいたいですな。さてと、岡部、車を回すように言ってくれ。水琴は屋敷で降りなさい。と言うことで、秋元館長、期間中よろしく頼みましたよ?」

 事務的な口調だった。言い残すと返事も待たずに正面玄関に向かって歩き出した。その後を秘書が、そして水琴が続いた。

 見送る三人が会釈をするなかで水琴が振り返った。その口が何か言いたげにしたのを達哉だけは見逃さなかった。


 雨谷水琴展二日目――

 作家本人の来展で異様な熱気のあった初日ほどでは無いにしても、館内には水琴の絵を楽しむ観覧者が引きも切らさなかった。

 事務所で雑務に追われる麻子とは別に、達哉は来館者の「監視」に忙殺されていた。

 普段は絵画に興味の無い者も多数集まる人気展ではよくあることだが、遮蔽物のない展示物へのマナーが「出来ていない客」は多い。性善説に則った程度の、形ばかりの柵を越えて近づく者も居れば、中には絵画そのものに触れようとする輩もいる。ガードマンも配してはいるが、それだけでは足りず、学芸員も巡視している。

 客のそうした動きがよく見えるポイントを作って展示物を配置するのも美術館のセンスだ。達哉はそんなポイントの一つに立ち、浮かない顔で客の流れを見ていた。

「美術品の多くは目で味わう料理だ。スーパーの惣菜コーナーに並んでる剥き出しの惣菜だって買う前に立ち食いする奴は居ないのに、なんで俺はこんな見張りなんかしてなくちゃならないんだ?」

 男の声真似をした女の声。それは達哉の声ではなかった。驚いて隣を見ると、顔も隠れるほど巨大な帽子を被った来館者が並んで立っていた。達哉よりも三十センチほど小柄なその女はスキニーなジーンズを穿き、マニッシュなジャケットの上からバッグを斜に掛けて達哉と同じ方向を向いている。帽子で顔は見えないが、それが誰か達哉にはすぐに分かった。

「え?あ、雨…」

「質問していいですか?」

 声の主は、雨谷水琴だった。水琴は達哉の返事を待たずに訊ねた。

「私の絵――変ですか?」

 周囲を気にして抑えてはいるが、澄んだ水の流れを思わせる明瞭な声だった。

「変――?」

 達哉は初日の事を思いだした。「描きたいものの本質を正体の分からないベールが覆っている」と作家に言ったことを。

「あ、あれは〈変〉とかそんな意味じゃ――」

 帽子の中でクスリと笑う声がした。

「いいんです。って言うか、当てられたような気がして嬉しかったから」

「え?」

 他の客が注目しないように達哉は前を向いたまま驚いた。

「嬉しい――んですか?当てられるって、一体…」

「絵描きには作品の傾向で括られる群がある――って聞いたことがあります」

 水琴の言いたいことが掴めず、達哉はただ「ええ…まあ…」と答えた。水琴が言葉を続けずに考え込む気配を出したので、達哉は小さなため息を吐いてから言った。

「好んで使う色で括られたり、好んで描くモチーフで括られたり、あるいは活動時期や作風自体で括られたりと色々ですけど、ありますね。確かに」

 ソッと顔を上げ、客の向こうに微かに見える自分の絵を眺め、水琴は他人事を評するような口調で言った。

「私、雨谷水琴の絵って大嫌いなんです」

 達哉はギョッとして言葉を失った。古典や近代の有名画家の展覧会には多数の客が訪れる。だが現代美術となると、それも特に存命中の若い作家ともなると客足も客層も変わる。その絵描きを本当に好んでいる者や美術愛好家が訪れるくらいで、長蛇の列――というのはあまり望めない。マスコミが取材に来る――等ということもほぼ無い。

――だが雨谷水琴は違う。存命だが、その絵を好む者も多く、美術愛好家や評論家の間でも実力は折り紙付きだ。それなのに本人は自分の絵が嫌いだ?なんだろう、それは…。本人が望んだことでは無いかも知れないが、マスコミも注目する容姿まで備えていて、我が世の春――と考え、有頂天になっても良さそうなのに――。

 ボンヤリとそんなことを思っている達哉の心を見透かすように、水琴は続けた。

「有名になるとか、高く売れるとか、そうした〈結果〉に元々興味が持てなくって。でも私の周りは〈荒野〉の受賞から激変しました。雨谷水琴は四年前のあの時生まれたんですよ。生まれて、そして育たないまま今に至る――です。だから私、雨谷水琴という〈名で括られる全作品が〉好きではありません。描いても描いてもどれも私が描きたかった物では〈なくなる〉んですよね。雨谷水琴の絵になってしまう。だから――」

 黙って聴いている達哉に、言葉を切った水琴は顔を上げて訊ねた。

「絵って…どうやって描くんでしたっけ」

 静かに話していたのでまさか泣いているとは思わなかった。薄紅の水琴の頬は涙に濡れ、アゴから滴るしずくでジャケットの襟も濡れていた。

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