十五・〝髪〟
いっしょに暮らしてる女にせがまれ山奥の温泉へ出かけた。
女はめったに口をきかない。
なにか巡回の仕事をしていて、時々夜おそく出かけていったり、そうかと思うと昼間のおかしな時間に座敷で眠りこけていたりする。なのであまり世間との付きあいがない。
いままで自分から何かをもちかけてきたことなど一度もなかった。
その女がとつぜん休暇をとった。
ひょっとしたら、遅すぎた新婚旅行のつもりだったのだろうか。
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剥き出しの石灰層が切り立つ崖に面して宿屋は建っていた。
泊まり客はぼくらだけで、宿で出会ったのは歳のはっきりわからぬ陽気な仲居ひとりだった。
陽がくれて食事をとり、さきに風呂にはいって戻ってくると女が鏡台に向かっていた。
浴衣姿で畳にすわり髪をほどいている。
ひたいと頬を黒い奔流になかば覆われて鏡のなかでほほえむ女は、驚くほどあどけない顔をしていた。
もう思い出せぬくらい遠いむかしから一緒に暮らしていたが、いつのまにこれほど長く髪をのばしたのか、ぼくはまったく気づかずにいた。
女に風呂に入るよう勧めた。
ながい廊下を女がゆっくり遠ざかって行く。足音を聞き終えてから奥の間にはいり、蛍光灯を切って豆球を灯した。
まっくらな窓の外はすぐ裏山で、急な斜面では矮人のような木立ちがぶつかり合いざわざわ不器用に踊っている。ぼくは布団に入って暗い天井を見上げた。
なぜ女がこんなところへ来ようと言いだしたのか、その本当の理由を考えねばならない。しかし頭のなかまで夜風が吹きこんでくるようで、ぼくは考えのきっかけを掴むことさえできなかった。
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隣室の戸が幽かな音をたてて開いた。
物音はそれきりだった。
女はおもてでも見ているのだろうか。
そちらがわにある展望窓からはそそり立つ崖がみえる。崖の下に一つきり、マッチ棒ほどの街灯が点っていたはずだ。
寝室のふすまが開いた。おだやかな紅い光のなかを女がひっそりとやって来た。洗っておろした髪に隠れ顔はみえない。
ぼくは女に場所をあけて掛けぶとんを持ち上げた。滑るようにとなりへ身を入れてきた女をうしろから抱きしめると、その体は腕の中でなんの抵抗もなくぐにゃり、と崩れた。
ぎょっとして横顔をのぞきこむと、真っ黒で目も鼻も口もない。
浴衣のなかにあったのは、人のかたちをしたひとかたまりの洗い髪だった。
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掛けぶとんが跳ね上がった。後を追うようにもぬけのからの浴衣が宙を舞い、足もとに落ちた。おびただしい髪がばらばらに
あお向けのままそれを見ていたら、突然これから何が起こるかすべて分かった。
きっとあすの朝、あの陽気な仲居はこの部屋で、使われた形跡のない二組の布団を目にするだろう。もしかしたら片方の枕のうえにのこされた、一すじの長いながい黒髪を見つけるかも知れない。そして死ぬまでおりにふれては宿をおとずれる客たちに、ある夜忽然と姿を消した男女のはなしを吹聴するのだ。
やがて紅い光のなかを無数の髪は、ぼくのからだの上にゆっくりと舞いおりて来た。
連作・“彼の街より” ( 全15話 ) 深 夜 @dawachan09
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