ソナタ14番

増田朋美

ソナタ14番

その日は、比較的秋らしい一日で、曇っていて涼しい風が吹き、穏やかに過ごせそうな日だった。そうやって穏やかな日だなと思うときこそ、人災というか、事件が起こりやすくなってしまうものである。今日は、のんびりして風もなく、涼しいなと杉ちゃんたちが言っていたところ。

製鉄所の中に設置されている、柱時計がさん回音を立ててなった。それと同時に水穂さんが布団から出てきて、玄関先に歩いてきた。

「ほら、水穂さん。何をしているんですか。安静にしていないと。」

と、由紀子がそれを追いかけると、

「いえ、今日彼女がレッスンに来る予定だったんですが、もう三時を過ぎて一時間も遅れてる。」

と、水穂さんは言った。

「彼女って誰ですか?」

由紀子はちょっと苛立ってそう言うと、

「はい、持田敦子さんです。彼女が、今日初めて、モーツァルトのソナタを持ってきてくれることになっています。」

と、水穂さんが言った。

「持田敦子。懲りない女性ですね。だって、こないだのバッハコンクールでは惨敗して。」

「ええ、そうなんですが、事実は小説よりも奇なりです。彼女は、そこで最下位でしたけど、そこから、またピアノをやりたいという気持ちが芽生えてしまったんでしょうね。それで今度は、モーツァルトのソナタをやりたいので、またレッスンしてくれと言うんですよ。まあ確かに、もう一度ピアノをやりたいという女性は多いですけど、まさかあれだけの大敗北を喫して、またピアノをやりたいと言い出すとは思いませんでした。それで、今日レッスンに来る予定なんですが、、、。」

確かに、水穂さんの言うとおりだった。持田敦子さんは、先日行われた日本バッハコンクール静岡大会に参加して、結果は最下位であった。それも審査員の満場一致だったという。普通の人なら、もう二個とピアノはやりたくないとか、そういうことを言うと思うのだが、彼女は、最下位になって恥ずかしそうな態度を取ることもなく、もう一度ピアノにチャレンジしたいといったのだ。

「ごめんなさい右城先生。バスがすごい渋滞に巻き込まれてしまって、遅くなってしまいました。申し訳ありません。でもちゃんと、楽譜は持ってきましたし、それなりに、練習もしましたから、先生、レッスンしてくださいませんか?」

そう言いながら、持田敦子さんが飛び込んできた。確かにバス停から走ってきたようであったし、汗が滝みたいに流れている。由紀子は、敦子さんを観察した。容姿が美しいわけでも無いし、特別なにか魅力的な一面を持っているわけでもない。だけど、この女性、どこか訳ありなのではないか。由紀子はそんな気がした。

「バスがすごい渋滞になってしまったんです。なんでも、東田子の浦駅の近くで、火事があったそうで、バスの窓から、消防車が、五台も通っていったのを見ました。本当に大きな火事だったんだなと、思いました。」

「そうだったんですね。そんなに大きな火事だったら仕方ありません。じゃあ、レッスンを始めましょうか。えーと、今日の曲は確か、」

水穂さんがそう言うと、

「はい。モーツァルトのソナタ14番です。第1楽章です。」

という敦子さん。はあ、これはまたなんで重い曲を選んだのだろうか。彼女が今までやっていた曲を、由紀子は詳しく知らないが、モーツァルトのソナタはあまりにも有名なので知っている。調性はハ短調で、音楽的に言ったら、なんでこんなに怒ったような感じなんだろうかという雰囲気のあるソナタだった。

「そうですか、ではとりあえず通して演奏してみてくれますか。第一回目なので、うまくできなくて当然です。それでは、頑張って最後まで弾いてみてください。」

水穂さんがそう言うと敦子さんは、はい、わかりましたと言って、ピアノを弾き始めた。確かにモーツァルトのソナタなので、あまり技巧的に難しいところはなく、すぐに弾けてしまうのであるが、しかし、やはり最下位と言われてしまっても仕方ないと、思われるほどの演奏であった。

演奏が始まると、杉ちゃんも四畳半にやってきて、水穂さんと一緒に、演奏を聞いていた。彼女が演奏を終えると、杉ちゃんは拍手をして、

「もーちゃんうまくなったな。」

と言った。

「そうですね。よくできているとは思いますが、この曲はモーツァルトの作品ですから、叩きつけるように弾いてはいけません。モーツァルトの性格上、怒鳴るような事はあまり無いと思いますから。ではもう一度やってみましょう。もう少し、軽いタッチで弾くように心がけてください。」

水穂さんに言われて、もーちゃんこと持田敦子さんは、またピアノを弾き始めた。一生懸命弾いているけど、やっぱりなにか無理があるように由紀子には見えるのであった。水穂さんは、彼女に、ペダリングのことなど、細かく指示を出したが、それを十分に飲み込んでいるとは言えない。一応、水穂さんがピアニストという職業上そうしなければ行けないのはわかっているけど、なんだか彼女に柔らかいタッチで明るく演奏させるのは無理なのではないかと由紀子は思った。それより、由紀子は水穂さんのからだの事が心配だった。モーツァルトのソナタなので、和声的に複雑とかそういう事は一切無いのだが、逆にそれを叩きつけるように弾いては行けないと思った。

「それでは、もう一回やってみましょう。ハ短調というところから、どうしても重たい演奏になってしまうんですけど、それは、やっては行けないということを忘れないで、弾いてみてください。」

「はい!」

一生懸命もーちゃんは、ピアノを弾いているが、やっぱり彼女は、このソナタを弾くのは向いていないのではないかと由紀子は思ってしまうのだった。

「まあ、もーちゃんさ、もうちょっと、気持ちを楽にして、ピアノに取り組んでみな。一生懸命やるのはいいんだけど、もう少し、音量を落とした方がいいよ。」

杉ちゃんにまで言われるほど、その演奏は、けたたましいものだった。

「ごめんなさい。」

もーちゃんは、申し訳無さそうに言った。

「謝らなくていいですよ。それより、演奏を柔らかく明るく出来るように考えてください。」

水穂さんがそうやって優しくしてくれるところが、帰って由紀子は、嫌な思いをするのだった。

「もう時間ですね。じゃあまたこちらに来週いらしてください。」

水穂さんがそう言うと、

「あの先生。」

と、もーちゃんがまたいい出した。

「こんな女性ですが、またコンクールに出てもいいですか?また最下位でいいです。それで構わないから、今度はモーツァルトのソナタで出演したいです。」

はあ?と一瞬由紀子は思った。こんなけたたましい演奏で、コンクールに出ても何も意味がないと思うのだが、それなのになんでまたコンクールに出るなんて。

「そうですね。ですが、日本バッハコンクールは、バッハの作品に限定するものですから。」

水穂さんがそう言うと、

「それは知っているから、今度は、日本クラシック音楽コンクールにこのソナタ14番で出演したいんです。」

という彼女。

「はあ、クラコンか。でもねえ、あのコンクールは、落とすためにあるんだぜ。それは、わかっているだろうな?コンクールというのは、自分の名を知らしめるためにあるんだからよ。それに、お前さんのようなけたたましい演奏では、多分最下位になっちまうよ。曲だって、もっとすごい曲をやるやつが大勢いるんだぞ。それを承知で、出るんだろうね?」

杉ちゃんがそう言うと、もーちゃんは、ハイと言った。

「ダイジョブです。あたしは、最下位になってもいいです。最下位になって、笑われたっていいです。それよりあたしは、ステージに立って、ピアノを弾きたいんです。それがあたしに取って、一番の生きがいだと思います。」

だったら、そのけたたましい演奏をやめろと、由紀子はいいたかったが、もーちゃんの顔を見て言うことができなかった。代わりに杉ちゃんが、

「ほんとに変わった女だな。なんか、伊藤野枝さんみたい。自己主張ばかり強くて、自分のやりたいことばかり主張する。」

と、言った。

「そういうことなら、もう少し、音量を抑えて、穏やかな演奏をするようにしましょうね。そうしたいんだったらどうすればそれが実現できるかを考えないと。そうでもしないと、本当に変わった女性と言われてしまって逆に不利になってしまうと思います。」

水穂さんが優しくそう言ってくれたのが、由紀子には嬉しい言葉だったような気がした。

それと同時に、外からざっと音がして、雨が降ってきた。

「ああ、降ってきましたね。」

水穂さんがそういった。

「大丈夫です。あたし、歩いて帰れます。バス停は近くだから、歩いていけますし。」

と、もーちゃんが言うが、

「いや、濡れて風邪でもひいてしまったら困りますし、あたしが、送っていきます。」

と、由紀子が言った。水穂さんは、お願いしますといったので、由紀子は、嫌な気持ちでありながら、彼女に、一緒に来てくれますかといった。由紀子にしてみれば、やっぱり彼女は、杉ちゃんが言うように、伊藤野枝さんのような、変な女性のように見えるのだった。その彼女を送るというのは、ある意味、好意ではなく、皮肉の意味を込めていた。

「じゃあ、車を出しますから、玄関先で待っていてください。あたしの車、軽自動車ですけど、ちゃんと動きますから。」

由紀子は、とりあえず、もーちゃんに玄関先に来てもらい、急いでポンコツの車を出した。そして、もーちゃんに乗ってくださいといった。もーちゃんはありがとうございますと言って、車に乗った。

「よろしくお願いします。」

と、言ってもーちゃんが乗り込むと、

「確か、最寄りは東田子の浦駅でしたよね。そちらまでお送りします。」

由紀子はカーナビのスイッチをいれながら言った。

「ありがとうございます。家は、船津というところにあるんですが、東田子の浦駅まででいいです。」

というので随分遠くから来ているんだなと由紀子は思った。

「じゃあ、行きますよ。」

由紀子は、急いでアクセルを踏んだ。車は雨の中走り始めた。車なので、雨が降ってもあまり気にしなくていいのであるが、なんだかもーちゃんは心配そうだった。

「えーと、持田さんっていいましたよね。杉ちゃんがもーちゃんと言っていたけど、演奏を聞いていたら、そんな可愛いあだ名を使うべきじゃないような気がしました。それくらい、演奏迫力がありました。」

由紀子は正直な演奏の感想を言った。褒めているのでは無いことを、もーちゃんはすぐに分かったらしい。

「そうですね。あたしは、もともと、不運なことしか無い女性ですし、怒りしか無いのかもしれない。そんな人間だから、明るい曲なんてとてもできませんよ。」

ということは、なにか、悲劇的な事があったのだろうか?

「一体、何があったんですか?なにか大きなトラブルがあったんでしょうか?」

由紀子は、軽い気持ちで彼女に聞いてみた。

「ええ。幼い頃、父や母の態度が嫌で、音楽学校へ行きたいと言っても、先生はすごく変な先生で、結局精神がおかしくなってしまって、学校にもいけなかったし、かと言って、結婚させてもらったけど、その人は、なんか父に似たタイプの人で、お金には不自由しないけど、つまらない生活になってしまったし。だから時々、思うことがあるんです。なんでこんな人生しか送れないんだろうって。周りの人達が、結婚したとか、幸せになったとか、そういう事を聞く度に、なんであたしだけがこんなふうに、不幸なのかなって。子供作っちゃえばとか言われたこともありましたけどね。でも、主人がああいう態度では、子供も作ろうにもできませんよ。だから、今では下手な演奏であってもピアノだけが頼りなんですよ。」

と、彼女は答えた。由紀子は、その発言を聞いて、彼女の顔をバックミラーを通じて眺めてみたが、たしかに、化粧が濃いので、一見すれば二十歳前後に見えるのであるが、もしかしたらそうではないのかと思われる顔だと思った。もしかしたらこの人、自分より歳上なのでは無いだろうか?だったら、と由紀子は思った。

「そうですか。そう思うんだったら、水穂さんに苦労をかけないでやってください。水穂さんは、ご存知だと思うけど、お体が良い人ではありません。だから、苦労させてしまうようなことは、私はさせたくないんです。」

由紀子は思い切ってそう言ってしまう。もーちゃんはどんな反応をするだろう。もし、それでも自分のピアノを勉強したいと主張するのであれば、伊藤野枝さんそっくりだと言ってやろうかと由紀子は思っていたが、

「いえ、大丈夫です。あたしも、あんなうるさい音では、最下位になってしまうことくらいわかります。どうしても、日常生活が充実していない分、ピアノに当たり散らしてしまうところがあるんです。どうしてもやめようと思っても、やめられない。それは、どうしてなのか、自分でもわからないんです。私は、頑張って、静かな穏やかな演奏をしようと努力しますから、本当に右城先生に心配ばかりかけてしまってごめんなさい。」

と、意外なセリフが返ってきたので驚いた。

「そうなんですか。じゃあご自身がしていらっしゃることはわかっていらっしゃるんですね?」

由紀子は思わずそう言ってしまう。

「はい。この生活を変えられないこともわかっております。」

と、もーちゃんは言った。

「はあ、そうですか。そんなに、ご主人が、ひどい人なんですか?」

由紀子はそうきくと、

「ひどい人なのかはわかりませんが、お金は出してくれるので、それで今の生活が出来るということもまた事実なので、主人にはどうしても逆らえないんですよ。」

と、もーちゃんは答える。由紀子は、なんだかそう考えると、伊藤野枝さんのような自己中心的な女性とはまた違うのかなと思った。むしろ、女性にありがちな事を、一人で抱え込んでしまっていて、それが演奏に出てしまうのではないかと思った。

「そうですか。それ、私もなんとなくわかります。誰でもみんな自由に生活したいと思っていると思うんですけど、でもみんなある意味、なにかに縛られた自由しか得られないんですよ。だから、それに黙って耐えるしかないということも、同じですよね。でも、あたしは、演奏にそれをもろに出してしまっては行けないと思います。演奏はそういう怒りを表現するものではありませんから。それは、コンクールで出してしまわないほうがいいのではないでしょうか。」

由紀子がもーちゃんにそう言うと、

「ありがとうございます。」

と、もーちゃんは言った。その顔を見ると、中年のおばさんだった。確かに若作りをしているけれど、中年のおばさんの顔をしていた。

「本番ではその顔もできるだけ隠して上げてくださいね。でないと、モーツァルトのソナタが台無しになってしまいます。」

由紀子がそういうのと同時に、車は東田子の浦駅に着いた。

「さあ、到着いたしました。じゃあ、気をつけてお帰りください。また来週、水穂さんたちに元気な顔を見せて上げてください。」

由紀子は、東田子の浦駅の、一般車乗降場に、車を止めた。もーちゃんは、

「ありがとうございます。」

と言って、車を降りた。

「いいえ、こちらこそ。あたしも今日はお話を聞かせて頂いて嬉しかったです。これから雨がひどくならないといいですね。」

と由紀子がそう言うと、

「ええ、そうですね。本当にありがとうございました。また来週、右城先生のところに行きますから、どうか先生も、お体をお気をつけてと伝えてください。」

と、もーちゃんは丁寧に一礼して駅にはいっていった。多分、売店で傘でも買っていくのだろう。由紀子は、もーちゃんに、水穂さんの持っている事情を伝えたかったが、それは、今は伝えるべきではないなと思ってやめておいた。でも、誤解が解けて良かったと思った。もし、もーちゃんという人が、伊藤野枝さんみたいな自分勝手な人だったら、本当に困ってしまったところだった。そんな人に水穂さんのそばに来られたら、水穂さんが溜まったものではないだろう。しかし、現実のもーちゃんこと持田敦子さんは、旦那さんとの関係がうまく行かなくても黙って耐えている、そんな女性だった。自分を主張して生きようとする女性も居るが、そういう人は、家族の理解が無いとできないとか、そういう事を由紀子は知っていた。水穂さんだって、自分を主張しようものなら、出身身分に邪魔されて絶対にできないことも知っていた。だからもしかして、あの女性は水穂さんの元へやってきたのかもしれない。

由紀子は、彼女の姿が見えなくなったのを確認して、車のエンジンを掛けた。そして再び製鉄所へ向かって、車を走らせ始めた。今日は雨が降っているけれど、なにか収穫が得られたような気がした。人はだれでもそういう悲しみを背負って生きている。だから人になれると由紀子は思った。だって人という文字は、支え合うから人という言葉を、由紀子は聞いたことがあったし、自分もそうなりたいと思っていたから。

不意に由紀子が無意識にかけていたカーラジオから、ピアノの音が聞こえてきたので、由紀子は音量のつまみを上げた。それはなんと、モーツァルトのソナタ14番であった。確かに、このソナタは、モーツァルトが作曲した数あるソナタの中でも、暗く不吉なソナタである。それは間違いない。でも、現実の怒りと照らし合わせてしまっては行けないのではないかと由紀子は思った。だからもーちゃんがしている様に怒りの掃き溜めとして使っては行けないんだとおもった。こういう音楽作品は、そのためにあるものでは無いと由紀子は知っていた。水穂さんもそれを教えようとしているし、コンクールの審査員だって、怒りだらけの演奏では、きっと嫌になるだろう。由紀子は、せめて、もーちゃんが、そのソナタを弾いているときだけは、怒りから開放されて、柔らかい気持ちになってくれることを願いながら、製鉄所へ戻るべく、車を走らせた。



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ソナタ14番 増田朋美 @masubuchi4996

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