第331話 ULキャンプです! その三

 七月のよく晴れた日の朝。降り注ぐ光を全身に浴びながら、黒乃とメル子は土手を走っていた。電動自転車の微かなモーター音は、荒川の河川敷から響く子供達の歓声にかき消された。


「ご主人様! 今日もいい天気ですね!」


 光る汗を拭いながらメル子はペダルを漕いだ。その度に背中のリボンが左右に小気味よく揺れる。黒乃はその様子を後ろから楽しそうに眺めた。


「夏の空って感じだねえ」


 柔らかい風が二人を背中から押した。電動自転車のアシストもあって、ほとんどペダルを漕がずに進んだ。


「ところでご主人様、今日はどこにサイクリングにいくのですか?」

「今日はキャンプだよ」

「え!?」


 メル子のハンドルが一瞬左右にブレた。二人の荷物は手首に下げられたポーチだけだ。あまりにも軽装である。とてもキャンプにいくような装備ではない。


「キャンプってポーチしか持っていませんが!?」

「そのポーチでキャンプをするのさ。今日は『ザブトニング』で『モーニングキャンプ』をするんだからね」

「でました! ザブトニング! しかもまた新しい単語も生まれました!」


 既にご存知かとは思うが、諸兄らに改めて説明をしよう。

 ULキャンプという概念がある。ULとは『Ultra Light』の略で『超軽量』という意味だ。できる限り装備を軽くして、快適にキャンプを行おうというものである。

 その中でも『チェアリング』というスタイルがある。テントや寝袋は持っていかず、椅子チェアだけを持ってキャンプにいくのだ。

 『ザブトニング』は黒乃が提唱するチェアリングのさらに上をいくスタイルで、座布団だけを持っていくというものだ。圧倒的な軽量さとお手軽さを重視したスタイルである。


「では、モーニングキャンプとはなんなのでしょうか!?」

「ふふふ、それはね……」


 お気軽なキャンプとして定着しているのが『デイキャンプ』だ。お泊まりなしの日帰りキャンプである。いうまでもなく、泊まりのキャンプより軽量かつ気軽に楽しめる。

 黒乃が提唱する『モーニングキャンプ』は、その日帰りデイをさらに短縮したもので、午前中モーニングで帰るキャンプなのだ。


「午前中で!? それで楽しめますか!?」

「ふふふ、まあやってみようじゃないのよ」



 二人の自転車は土手から河川敷へと降りた。荒川にかかる橋の影になっている広い空間で、釣り人が二人いるだけだ。

 コンクリートで整備された区画で、ところどころに地面の割れ目から雑草が顔を覗かせている。


「おー、朝だからまだ人がきていないね」

「いつもの薮の中ではないのですね」

「あそこは日差しが当たるからね。夏はここよ」


 二人は自転車を止めて、くつろげる場所を探した。河岸から一段高くなった段差の上に陣取ることにした。ここであれば水面を見ながらザブトニングを楽しむことができる。


「さてさて、まずは座布団がないとね」

「座布団なんて持ってきていませんよ」

「ふふふ」


 黒乃は手首に下げたポーチを広げた。その中にはウレタンの板のようなものが入っていた。


「これが座布団ですか!?」

「うん、折りたたみだから極小よ」


 折りたたみ座布団、30g。


 二人はコンクリートの上に座布団を敷いて座った。


「意外と座り心地がよいですね」

「だね」


 さらにポーチの中を漁る。取り出したのは、食品を入れる直径10センチメートルのプラスチック製コンテナだ。


「これが今日のメインギア」

「これがですか?」


 メル子はまじまじとそれを眺めた。透明なケースの中にはいくつかのギアが入っているようだ。スクリュー式の蓋を外して中身を取り出した。


「えーと、マグカップが入っていますね。あとはペラペラの金属の板と、金属の布?」

「これでまずコーヒーを淹れようか」

「これはコーヒーセットなのですね!?」

「しかもドリップコーヒーね」


 コンテナ、40g。

 チタンマグカップ、50g。

 五徳兼風防、12g。

 ステンレスフィルター、8g。


 黒乃はマグカップの中からさらにギアを取り出した。


「ずいぶん色々と入っていますね」

「そう、ギアをマトリョーシカのように重ねて入れることを『スタッキング』というのだ」


 中身をずらりと並べた。

 真っ黒い丸い布、アルミの缶が二つ、謎の棒、ミニトング。


「もう、なんだかわかりません!」

「まあ見ていなさいよ」


 カーボンフェルト鍋敷、2g。

 アルコール燃料缶、46g。

 コーヒー粉末缶、22g。

 フリント、13g。

 トング、8g。


 黒乃は真っ黒い布を地面に敷いた。これは難燃性のカーボンフェルトというもので、熱から地面を守るためのものだ。その上に燃料缶を置く。

 メル子も真似をして、自分のポーチからギアを取り出し、同じように設置をする。


「このアルミ缶がいわゆる、アルコールストーブですね」

「うん、中にはカーボンフェルトが入れてあって、バイオエタノールが染み込ませてある」


 黒乃は金属の棒の先の車輪を親指で勢いよく弾いた。すると火花が飛び散り、燃料缶に火がついた。これはフリントと呼ばれる石と、金属の車輪を擦り合わせることで火花を散らす着火器具だ。


「簡単に火がつきますね」

「バイオエタノールは着火しやすいね」


 すかさずペラペラの金属の板を筒状にし、燃料缶の周りに設置する。これはステンレス製の風防兼五徳だ。ペットボトルの水をマグカップに注ぎ、五徳の上に乗せた。


 水、200g。


「よしよし、これでお湯が沸くまで待とうか」

「はい!」


 メル子は炎を覗き込んだ。エタノールが燃焼する微かなシュコーという音が頼もしい。


「いいですねえ。結構火力が強いです!」

「夏だから、五分もあれば沸くよ」


 二人は燃える炎をうっとりと眺めた。緩やかな風で炎が煽られ、チロチロとマグカップの底を舐める。荒川の水面に光が反射して、橋桁に複雑な模様を描き出した。


「うふふ。道具が小さすぎて、周りの人からはお湯を沸かしているとわからないですね」

「単に座っているだけに見えるね」


 マグカップの蓋が金属音を鳴らして踊った。湯が沸いた合図だ。


「オーケー! さあ、コーヒーを淹れよう!」

「はい!」


 マグカップを火から下ろし、コンテナに一旦湯を移す。ステンレス製のコーヒーフィルターをマグカップにはめ込み、缶の中のコーヒー粉を入れる。


「粉はさっき家で挽いてきたやつね」

「実質挽きたてコーヒーですね!」


 いよいよ湯を注ぐ。コンテナからゆっくりとフィルターに湯を垂らした。途端に花が咲いたかのように、香ばしいアロマが飛び出してきた。


「いい香りです」

「屋外でもわかるこのフレーバー。さすが挽きたて」

「でも紙のフィルターではないのですね。これはステンレスのフィルターでしょうか?」

「そうだよ」


 ペーパーフィルターは使い捨てだが、ステンレスフィルターは何度でも使える。エコでアウトドア向けだ。

 味にも違いがでる。ペーパーフィルターは目が細かいので、粉をしっかりと濾すことができる。すっきりとした味わいを楽しめる。

 ステンレスフィルターは紙の匂いが移らない。目が荒く油分を吸い取らないため、雑味とコクがある味わいとなる。


 泡がたった水面が徐々に下がり、コーヒー粉の地面に吸い込まれていった。抽出完了である。


「できた!」

「いただきます!」


 二人はマグカップを口につけ傾けた。苦味のある、オイリーな舌触りのコーヒーが流れ込んでくる。


「うーむ、濃厚だ」

「大人の味です」


 カップに顔を近づける。湯気が頬を撫で、鼻をくすぐる。荒川を流れる水の音がBGMだ。ここは自然の喫茶店だ。


「少し腹ごしらえしようか」

「いいですね」


 黒乃はポーチから鉄板を取り出した。長さ十五センチメートルのミニサイズだ。それを五徳の上に乗せる。


 ミニ鉄板、150g。


「フランクフルトを焼いて食べようか」


 続いてポーチから取り出したのは粗挽きソーセージだ。


「私のはウィンナーですね!」


 メル子のはピリ辛ソーセージだ。

 ちなみにフランクフルトは豚の腸、ウィンナーは羊の腸に肉を詰めたソーセージのことである。


 ソーセージ、100g。


 鉄板にソーセージを乗せた。しばらくするとジュワジュワと油が溢れてきた。その油でさらに自身が焼かれていった。


「これ、可愛いですねえ」

「この小さい鉄板だと、おままごとみたいだなあ」


 それでもソーセージはしっかりと焼けていく。トングで転がして全面に火を通す。皮が弾けて肉汁が黒乃の顔に飛んだ。


「ぎゅわわわ! あじぃいいい!」

「ご主人様!」


 ソーセージが焼けた。トングでつまみ齧りつく。皮が千切れる軽快な音と振動が口の中に伝わり、次いで熱と肉汁が流れ込んできた。


「うーむ、うまい」


 黒乃はフランクフルトとコーヒーを交互に口に運んだ。


「おいしいです」


 メル子もウィンナーとコーヒーを交互に口に運んだ。


 ぼんやりと川を眺める。橋の上には車と人が行き交っているはずだが、その喧騒は川面までは伝わってこない。都会の中にこれほど穏やかな場所があるのかと改めて感じ入った。


「コーヒーとソーセージ、これだけでもう立派なキャンプですね」

「でしょう?」


 テントも必要ない、寝袋も必要ない。焚き火台も、クッカーもない。それがザブトニング、そしてモーニングキャンプなのだ。

 朝、思い立ったらポーチを持って出かければよいのだ。準備は必要ない。散歩にいくのと同じ気分で河原にくればよいのだ。


 ポーチ、25g。


 総重量706g。

 漫画本五冊分の重さだ。身も心も軽くいこうじゃないか。



「ご主人様、お昼にはまだ早いですね」

「うん。軽くサイクリングして、赤羽でなにか食べようか……」


 その時、川の中にそそり立つ橋脚の根元にまとわりついた水藻のような捉えどころのない声が橋の下に響いた。


 オーホホホホ……オーホホホホ……。


「ぎゃあ! なんですか、この声は!?」

「オーホホホホ! ずいぶんお豪華なおキャンプでございますのねー!」

「オーホホホホ! お贅沢三昧とはこのことですわー!」

「「オーホホホホ!」」


 川縁で釣りをしていた二人組が立ち上がってこちらに向かってきた。その金髪縦ロール、シャルルペロードレスの二人組の手には棒が握られている。


「ええ!? 釣り人ってマリー達だったの!?」

「なぜお二人がこんなところにいますか!」

「オーホホホホ! わたくし達は『ジベタニング』をしていたのですわー!」

「究極のULキャンプですわよー!」


 ジベタニングとはマリーが提唱するキャンプスタイルで、地面に直に座る。ザブトニングの遥か上をいく概念なのだ。


「総重量706gとは、ずいぶんと重装備ですのねー!」

「わたくし達は装備重量0gですのよー!」

「それはただの手ぶらです!」

「テブラニングですわー!」

「いや、釣竿あるじゃないのよ」


 お嬢様たちは顔を見合わせてニヤリと笑った。


「これはそこで拾った単なる木の枝ですわー!」

「釣りすらしてないんかい」


 アンテロッテはメイド服の懐からなにかを取り出すと、マリーに手渡した。そして二人でそれをボリボリと齧り始めた。


「それなによ」

「おキャフィのお豆ですわー!」

「おキャフィ道具がないので、直でいきますわー!」

「無茶はやめてください!」


 マリーとアンテロッテは苦味のあまり、ゲロゲロと豆を吐き出した。


「ヴォエッ」

「ヴォゲゲッ」

「お二人とも、しっかりしてください!」

「あーあー、なにやってんの」


 地面に膝をついて悶える二人を、メル子は慌てて介護した。

 荒川の煌めく水面に、黄金色の煌めきが飛び散った。

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