第330話 ラーメン大好きメル子さんです! その十

 休日のお昼。黒乃とメル子は神田の町を歩いていた。

 学生の町神田、本屋の町神田、楽器の町神田。二人にとって神田とはどのような町なのであろうか?


「うふふ、珍しいね。メル子がラーメン屋に連れていってくれるなんてさ」


 黒乃は隣を歩くメイドロボを見た。今日はその背中に弾むリボンが、いつもより多く見えている。


「私とてラーメン好きの端くれ。お誘いすることだってありますとも」


 本日のメル子の足取りは軽い。黒乃は追いかけるように神田の商店街を歩いた。

 七月の昼間、汗ばむ陽気。通りを行き交う人々の服装は薄く、日差しから逃げるように足は速い。


「しかし、神田とはなあ。よくこんなところのラーメン屋知ってるね」

「いえ、知りませんが」

「どういうこと?」


 メル子は通りを右に曲がった。小さな路地に入り、左に曲がる。左右を見渡し、また左に曲がる。


「ひょっとして、迷子になってるの?」

「なっていませんよ」

「どういうこと?」


 メイドロボは立ち止まり、額に浮き出た汗を拭った。そしてハンカチを取り出すと、ご主人様の首筋を拭き始めた。


「今、どのラーメン屋に入ろうか考えているのですよ」


 しれっと言い放つメイドロボに黒乃は呆気にとられた。


「え? はるばる神田まできたのに、店決まってないの?」


 メル子はハンカチをメイド服の懐にしまうと、肩を上下に揺らした。


「ふふふふふ」

「ワロてるけど」

「ご主人様ともあろうお方が、あらかじめ店を決めておかないと美味しいラーメンを食べられないとでも? ふふふふ」

「ええ!?」


 メル子は下から横目でご主人様を見上げた。視点は下だが、明らかに上からものを見ているようだ。 


「神田といえばグルメの町。大量の良店があります。とは言えど、その中から逸品を出すお店を即興で見つけ出すには、長年の経験こそがものを言うのです」

「いや、メル子は一歳児でしょ」

「十八歳ですよ!!!」

「うるさっ」


 どうやらメル子は、ご主人様に食通であることを見せつけたいようだ。


 二人は神田の商店街を歩いた。休日のため、人は多い。しかしまだ正午前だ。今ならどの店も並ばずに入れそうである。


「あ、メル子。あの店でいいんじゃないの?」

「くっくっくっく」

「どした?」


 メル子は黒乃が指差した店を一瞥いちべつした。


「ご主人様、あのお店はチェーン店ではございませんか」

「そうだけど」

「わざわざ神田くんだりまできて、チェーン店に入るおつもりなのですか?」

「神田くんだりって……メル子は浅草を世界の中心みたいに思ってる節があるな。でもチェーン店だって充分美味しいよ」


 メル子はご主人様の言葉に耳を貸さず、通りを練り歩いた。


「あの、メル子」

「なんでしょうか?」

「もう、商店街を一周しちゃったけど?」

「そうですね」

「ひょっとして、美味しそうな店が見つからなかったとか?」


 メル子は肩をプルプルと震わせた。


「そんなわけがないでしょう! 私を誰だと思っていますか!?」

「メル子だけれども」


 メル子は息を切らして歩き出した。そしていかにも年季の入ったラーメン屋の前で立ち止まった。


「ここにします!」

「おう、よさそうな店じゃないの」

「ここは創業百年の老舗で……」

「初めての店なのになんでそんなこと知ってるの? あらかじめ調べておいたの?」

「調べていませんよ!」


 メル子は黒乃の手を引っ張って店の扉を開けた。



「らっしゃい……」


 いかにも頑固そうなラーメンロボが二人を出迎えた。カウンターとテーブルが二つだけの狭い店。四つ足の丸椅子に、赤い壁、赤い床。古い店だが、厨房のステンレスはピカピカに磨かれ顔が映り込むほどだ。客は一人もいない。


「おお、なかなか雰囲気あるなあ」

「当然です」


 黒乃はテーブル席に座ろうとした。


「なにをしていますか!」

「ええ? なになに?」


 メル子は黒乃の背中をぐいぐいと押した。


「カウンター席に決まっているでしょう!」

「なんでよ?」

「厨房の様子が見られるからですよ!」


 メル子は寸胴の前の席に陣取った。ラーメン通の間ではここが特等席だ。大将の湯切りを間近で堪能できるからである。

 二人はようやく座席に着き、店を見渡した。


「……」

「……」

「メル子」

「はい」

「メニューがないけど」

「ですね」


 厨房からは大将がネギを刻む音だけが響いてくる。


「ここ、ひょっとして常連じゃないとメニューがわからないとか、大将が客見て料理を決めるとか、そういう系?」

「いや、そんなはずはないのですが……」


 その時、大将の包丁の手が止まった。


「お客さん……」

「はいぃ!?」

「食券買ってね」

「あ、はい……」


 二人はそそくさと入り口の食券機に出向いた。ずらりと並んだボタンを一つ一つ眺める。


「おお、塩に醤油に、あ、つけ麺とまぜそばもあるのか。いいね! じゃあ、ご主人様は味玉醤油でいこっと……」


 黒乃は上から二段目、左から二列目のボタンに手を伸ばした。しかし、メル子はその手をピシャリと叩いた。


「ミァー! 痛い!」

「なにをしていますか!?」

「ええ!? なにがよ?」

「初めての店は左上のメニューを選ぶのに決まっているでしょう!」


 メル子は『しおらぁめん』のボタンを二回押した。


「なになに〜、醤油がよかったのに〜」

「初めて入ったお店では、そのお店の基本のメニューを食べる! 常識です! そうですよね!? 大将!」

「いや、うちは味玉醤油がおすすめ……」

「ほら、ごらんなさい!」

「ええ……」


 食券を渡すと、さっそく大将が麺をテボに放り込んだ。その間にスープの準備に取り掛かる。塩ダレを丼に流し入れ、香味油を注ぐ。


「いや〜、手際いいねえ、ボリボリ」

「なにを食べていますか!?」


 黒乃は卓上の壺に入っていた辛子高菜をつまんでいたのだ。


「これピリ辛でうまうま」

「スカポンタン!」


 メル子は黒乃の手から辛子高菜が乗った小皿を取り上げた。


「ええ? ご主人様になんてこというのよ」

「どうしてラーメンを食べる前に漬物を食べてしまうのですか!」


 ハァハァと肩で息をするメル子。額からは汗が流れ落ちた。


「どうしてって、あるから食べたんだけど」

「あるから食べた!? ではご主人様は道端にらっきょうが落ちていたら食べるのですか!?」

「意味がわからんけど」

「塩ラーメンは繊細な味わいのスープが肝です! 先に辛いものを食べてしまったら、味がわからなくなってしまいます! そうですよね、大将!」

「いや、好きにして……」

「ほら、ごらんなさい!」

「ええ……」



 そうこうするうちに、麺が茹で上がった。大将が釜からテボを二丁取り上げる。


「さあ、ご主人様! ラーメンの華、湯切りですよ! 創業百年の伝統の湯切りを拝見しましょう!」

「別に見たくないけど」


 大将は両手に持ったテボを勢いよく振り下ろした。その勢いで、湯が盛大にカウンターに降り注いだ。


「あじゃじゃじゃじゃじゃ! あちぃー!」


 湯切りの洗礼を浴び黒乃は悶えたが、メル子は平然と全身で受け止めた。


「ええ? 熱くないの?」

「なにを仰いますか。これは聖なるシャワー、この店の伝統です。熱いはずがございません」

「あんまり期待されるから、力み過ぎちゃったな。ごめんね」



 いよいよ『しおらぁめん』が出来上がった。

 小ぶりの赤い丼に、黄金色に輝くスープ。細麺は天の川のように整えられ、その上に浮かぶは脂という名の銀河。ペラペラのチャーシュー、ごんぶとメンマ、散らされたネギ。割と普通の塩ラーメンだ!


「おお、おお! でも美味しそうだぞ! いただきます!」


 黒乃は割り箸を丼につっこみ、麺を持ち上げた。メル子はその手をピシャリと叩いた。


「ミァー! なによ!?」

「どうして麺からいくのですか!? まずはスープからと決まっているでしょう!」

「ああ、そう。まあそれはなんとなくわかるけど」


 黒乃はレンゲを手に持ち、スープに差し込もうとした。しかしその手は再び叩かれた。


「ミァー! 今度はなに!?」

「レンゲではなく、直でいってください!」

「直ってなに!?」


 メル子は丼を両手で挟み込むと、そのまま持ち上げた。そして丼の端に口をつけ、スープをすする。


「こうすると、よりダイレクトにスープを味わうことができるのです! 丼に顔を近づけ、丼面から漂い出でる湯気を吸い込む! まずは香りを堪能するのです!」

「ええ!?」


 黒乃は真似をして丼を持ち上げた。


「うーん、香味油の風味と鶏の香りがいい具合だ」

「本当ですね。大将! 今日の鶏はどこの地鶏でしょうか!?」

「裏のスーパーの特売」

「ウラノス・パーという品種ですね!」


 二人は勢いよく麺をすすった。

 黒乃は卓上の黒胡椒に手を伸ばしかけたが、メル子が鬼の形相で睨むので断念した。


 ご主人様とメイドロボはラーメンを完食した。汁まで飲み干し、丼底の『またきてね』のメッセージに心を和ませた。


「ふ〜、食べた食べた」

「美味しかったですね!」

「まあね」

「……」

「……」


 二人はしばらく神田の町を散策した。





 隅田川沿いの歩道に設置されたベンチに二人は腰掛けていた。その手にはそれぞれロボップヌードルの容器が握られていた。


「よかった〜、コンビニにご主人様の好きなロボヤムクン味売ってたよ」

「私は定番のカレー味です!」


 二人はすぐ後ろのコンビニでカップ麺を購入し、お湯を入れてきたのだ。

 ベンチに座り、出来上がりを待つ。目の前の隅田川には水上バスが往来し、空を見上げれば赤く染まった雲の隙間から微かに煌めく星々。


「へへへ、いただきます」


 黒乃はカップ麺の蓋をめくった。湯気が立ち昇り、隅田川を遡ってくる海風がそれを吹き飛ばした。


「ご主人様!? まだ二分二十秒しか経っていませんよ!?」

「ご主人様は固めが好きなのだ」


 メル子はコンビニの袋からなにかを取り出した。


「なにそれ?」

「さけるロボチーズです。これをカレースープに入れると絶品なのですよ。ご主人様のはなんでしょうか?」

「これ酢蛸」

「酢蛸!?」


 黒乃は麺をすすった。

 メル子も麺をすすった。

 夕焼けの空の下ですする安い安いロボップヌードル。それがどうしようもなく旨い。


「ああ、ラーメンって自由だなあ……」

「ですね……」


 空を流れる自由な雲。それに負けず劣らずの自由さが、直径9.6センチメートルの容器に押し込まれているのだ。

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