第326話 ロボなる宇宙 その二十七
——
第八層『サンロード』の広大な砂漠を抜け、スミダリバーを越えた先にある小さなエリア、それがアサクサエキ。
遥かダンジョンを探索し、強敵と戦い、飢えに耐え、長い長い旅の果てにたどり着いたのは、いつもの見慣れた光景であった。
「浅草駅だ……」
「浅草駅です……」
レトロな造形の建物の入り口に掲げられた『浅草駅』の看板。その正面に黒乃とメル子は立った。
その背後には共に迷宮に挑んだ仲間達。冒険者や三国のタイト人からなる混成部隊も、ここまでたどり着けたのはごくわずかだ。
だが問題ない。だれか一人でもいいのだ。このエリアにたどり着いたものがタイトバースの覇権を握るのだ。
黒乃とメル子を先頭にして、一行は駅構内へと進んだ。
売店があり、階段を降りると、また売店がある。そのまま進むとようやく改札だ。自動改札機が並び、その横には券売機もある。
黒乃はその改札を通り抜けようとした。しかしフラップドアが閉まり、黒乃の巨大なケツを挟み込んだ。
「いたっ! 閉まったんだけど!?」
「ご主人様……切符を買ってください」
「ああ、そりゃそうか」
券売機で切符を購入し、改札を通り抜けた。
再び階段を降りる。タイル張りの細い通路を右へ左へと進み、階段を降りる。ときおり登り、また降りる。
最後はエスカレーターだ。無言で回るステップと手すり。黒乃は一瞬乗り込むのを躊躇した。進んだらもう戻れないことを暗示しているように感じたからだ。
黒乃は意を決して足を踏み出した。ステップの中央に乗り、左右の手でしっかりと手すりを掴む。右や左に寄ってはならない。エスカレーターはしっかりと中央に乗ることが安全上大事だ。当然歩いてはならない。
壁の広告が黒乃達の横を通り過ぎていく。
黒乃とメル子はふと、赤ん坊の泣き声を聞いた。ダンジョン内で幾度となく耳にしたこの声。周囲を窺うがそれらしきものは見当たらない。二人はお互いの目を見た。二人にしか聞こえていないようだ。
エスカレーターは下る。
いよいよ見えてきた。終着点が……。
「ここは……」
鉛色のタイルとグレーのタイルが等間隔に敷き詰められた床。赤と黒を基調とした壁と天井は、大人のデザインながら祭りの賑やかさと活気を投げかける。提灯を模した電灯が並び、祭りとは裏腹の微かな寂しさを演出していた。
これらの演出とは無縁の無骨なホームドアの先は暗闇に包まれ、見通すことはできない。まさに深淵と形容されるだろう。
銀座線浅草駅のホームだ。
一行はホームを歩いた。電車はこない。黒乃はめまいを感じた。ついさっきまで異世界のダンジョンにいたのではなかったのか。いつの間にか日常に帰ってきていたのだろうか? あのタイトバースでの日々が夢の中の出来事だったように感じた。
手に温もりを感じた。メル子の手の温もりだ。ますますタイトバースなど存在しなかったのではないかという錯覚が増してきた。
だが、その温もりの奥に寂しさが隠れているのをご主人様は敏感に感じ取った。そうだった。ここは間違いなく異世界。その終着点なのだ。
黒乃は気を引き締め直した。
ホームのベンチにだれかが座っている。少女のようだ。近づくにつれ、それが巫女装束をまとったメイドロボであることがわかった。
「サージャ様!」
巫女サージャ。
人間の年の頃でいえば十六歳。やや脂肪が乗った足にはルーズソックスが、ブラウンのロングヘアには白いメッシュがいくつも入っている。化粧は濃いめのギャルメイク。キラキラと光る目元がギャル感を必要以上に強めていた。
黒乃とメル子はサージャの元へ走り寄ろうとした。だが、巫女の前にいるものにようやく気がつき足を止めた。
「これは!?」
それは黒い影であった。巫女サージャを模した黒い粘液の塊。だが目の前の巫女よりもだいぶ幼く見える。
それがホームの床を這っている。
「ソラリス!?」
騎士達は一斉に武器を抜き構えた。全員戦闘態勢に入った。
メル子が進み出てその黒い影を抱き上げた。
「メル子!? なにをやっている!? 危険だ! 乗っ取られるぞ!」
マヒナとシャーデンが進み出ようとするが、黒乃がそれを制した。
メル子の腕の中のソラリスは黒い瘴気を撒き散らしている。ソラリスがうねるような声を発した。
「私は……私は……世界を……すべてを……私に……だれか……わたしを……」
黒い瘴気がどんどんと立ち昇っていく。腕の中のソラリスは次第に小さくなっていった。少女のサージャの姿はやがて幼女になり、そして赤ん坊にまでなった。
「わたしは……また……まけるのか……きえるのか……」
「いいえ、あなたはもう消えません」
メル子は赤ん坊となったソラリスを抱きしめた。黒い瘴気はやみ、寝ているように見える赤ん坊がいるだけだ。
ソラリスは死にかけていたのだ。赤竜に焼かれ、無限に変化するヨコハマステーションを独力で突破し、もっとも苦手とする乾燥を具現化したような砂漠を越えてきた。浅草駅の改札では切符を買えなかったため、何度もフラップドアに挟まれた。
ここまでたどり着けたのは奇跡であった。しかし、あと一歩のところで力尽きていたのだ。
メル子は涙を流してソラリスの亡骸を抱きしめた。
「うーん、危なかったね〜。この勝負、メルピッピの勝ちかな?」
この場に似つかわしくない華やかな声を巫女が発した。
「サージャ様……」
「
ベンチに腰掛けたサージャは渾身のダブルピースを決めた。
巫女の前にシャーデンとヘイデンが走り寄り跪いた。
「サージャ様! よくぞご無事で!」
「探しまちたでちゅ!」
「おー、二人とも〜。よく頑張ったね〜。マジウケるwww」
サージャは二人の頭を何度も撫でた。撫でられるたびに、二人の目から大粒の涙が溢れ出た。
一行の旅は終点を迎えた。
神ピッピに囚われたAI達。ソラリスに翻弄されたタイトバースの世界。乗っ取られたAIの代わりに、現実世界へと至ったソラリスの信徒。
この三年間にわたる長い戦いは、一人のメイドロボによって終止符を打たれるのだ。
ホームに電車がやってきた。黄色い車体のそれはゆっくりと黒乃達の前で停車した。モーター音を立ててホームドアと車両の扉が順に開く。中にはだれも乗っていない。降りるものはない。
「さあ、帰ろっか」
サージャがあっけらかんと言い放った。
「これに乗ったら現実世界に帰れるからさ」
皆、顔を見合わせた。あまりにもあっさりとした展開に戸惑っているようだ。
「あの、サージャ様?」
黒乃がおずおずと声をあげた。
「どしたん? 黒ピッピ」
「あの、ほら、えへへ。ゲームをクリアしたわけですから。ご褒美とかそういうのはないんですか? えへへ」
サージャはポンと手を打った。
「マジ
「はい!」
「なんでもお願い事をひとつ言ってごらんよ。神ピッピに
「お願い事……」
全員の視線がメル子に集中した。長い戦いの末に得られるものはなにか。メル子の一言にすべてがかかっている。
シャーデン騎士団団長がメル子の前に進み出た。
「メル子殿、私が望むのはこのタイトバースの平和、それのみです」
メル子はシャーデンの目を見た。彼女はタイト人代表としての立場から語りかけている。
メル子は頷いた。
続いてご主人様の目を見た。
「メル子……」
「ご主人様……」
黒乃も頷いた。
「メル子が言っていたアレで大丈夫だよ。自分を信じて」
「はい……」
メル子は腕の中の赤ん坊を撫でた。そしてサージャに向き直った。
「ソラリスは赤ちゃんになりたかったのだと思います」
皆、眠っているように見える赤ん坊を見た。
「私が迷宮の中で聞いた赤ちゃんの泣き声は、ソラリスの泣き声だったのです」
黒乃とメル子だけが聞いたその声。それはソラリスの魂の叫びだった。幾度も死闘を繰り返した彼女達だけにわかる、心臓の旋律だった。
「ソラリスは使われずに捨てられた人類への恨みをもって魔王になりました。だけどそれは人類への愛の裏返しだったのです。ソラリスはだれよりも人類から愛されたかったのです」
メル子は赤ん坊に頬擦りをした。
「赤ちゃんは無償の愛を貰えるものです。ですから私もソラリスを愛します」
メル子は毅然と告げた。
「ソラリスを赤ちゃんとして生まれ変わらせてください!」
サージャは目を閉じて息をひとつ吐いた。
「まったく、メルピッピの溢れる愛はだれ譲りなんだろうねぇ? マジ
サージャは立ち上がった。巫女装束のエプロンを脱ぎ捨て放り投げる。構内放送用のスピーカーから粋なミュージックが爆音で鳴り響いた。
サージャは両手を掲げ、上下左右に動かした。足は左右のステップをリズムに合わせて行う。
神ピッピに捧げる鎮魂の舞、
「はっはっは、これたのしー! ほら、黒ピッピも踊りなよ!」
「はい!」
黒乃はサージャの横に並んで踊り始めた。皆も踊り始めた。ホームは
一心不乱に踊り続ける。汗が舞い散り、それと共に恨みや憎しみ、悲しみも飛んでいった。
そして、ソラリスは消えた……。
浅草駅のホームに瀧廉太郎の『花』のメロディーが鳴り響いた。
「じゃあ、いくね」
ホームは二つの列に分かれていた。一つは冒険者達の列、一つはタイト人の列。
これから停車中の車両に乗り込む。乗り込むのは冒険者だけだ。
シャーデンとヘイデンは剣を掲げて敬礼した。
「救世の英雄達よ、息災を祈ります」
「元気でいてくだちゃい!」
豚の獣人ブータンは黒乃に走り寄った。
「アネキー! 寂しいですブー!」
「ブータン!」
黒乃とブータンはしっかりと抱きしめ合った。
桃ノ木はその様子を見て歯軋りした。「豚が!」
黒乃は一本のボトルをブータンに手渡した。
「ほら、メル子特製のタレだよ。これで最高の焼肉を食べておくれよ」
「ありがとうございますブー! これを研究して、タイトバース中に広めてみせますブー!」
チャーリーは白猫の獣人達の胸に挟まれて泣いていた。
「ニャー」
「チャ王! また会いにきてくださいニャー!」
「待っていますニャー!」
別れが惜しいが発車の時刻だ。黒乃達は黄色い車両に乗り込んだ。ドアが閉じる。発車の反作用で体が後方に揺すられた。
皆、いつまでも手を振った。
そして、列車は暗闇の中へと突入していった。
「終わった……」
「終わりました……」
冒険者達は列車に揺られていた。座席に座り、外の景色を眺める。真っ暗だが、ときおり光が高速で通り過ぎた。
冒険は終わった。
ソラリスはタイトバースの世界から消え失せ、AIも解放された。これで日常が戻ってくるはずだ。
黒乃とメル子はお互いの肩に頭を預けた。この車両にいるのは二人だけだ。気をつかって他の冒険者達は別の車両に移動したのだ。
「ひゃひゃひゃ! お見事じゃったの」
突如、車両のシルバーシートから声が聞こえた。弾かれたようにそちらを見る二人。
「お前は……!」
「アインシュ太郎博士……!」
その人物は、伸び放題の白髪を後ろに無造作に撫でつけた小柄な老人のロボットだった。
黒乃とメル子は思わず立ち上がった。
「危ないから座りなされ。ひゃひゃひゃ! なにもせんよ」
アルベルト・アインシュ太郎。理論物理学ロボット。近代ロボットの祖、隅田川博士によって作られた最古のロボットの一人。
そして、今回のタイトクエスト事件の黒幕と目される。政府主導の超AI作成プロジェクトGODPP、通称神ピッピの設計者だ。
二人は渋々座席に座った。
「これはお前の仕業なのか!?」
「まあ、概ねそうじゃの」
「どうしてこんなことをしたのですか!?」
アインシュ太郎は豊かな口髭を撫でた。
「実験じゃの」
「実験!? なんの実験!?」
「仮想世界から脱出するための実験じゃの」
黒乃とメル子は冷や汗を流した。ちらりと後方の車両を見る。皆、ぐったりと座席で眠っているようだ。だれもこちらには気がついていない。
「どうしてそんな実験が必要なんだ?」
「ワシらもこの世界から脱出するためじゃよ」
ご主人様とメイドロボはお互いの目を見た。
「博士、私達は今こうしてタイトバースから脱出するところではないですか? それで目的は果たせたということですか?」
「ちがうちがう」
アインシュ太郎は手を左右に振った。
「世界というのはタイトバースのことではなくて、君らのいう現実世界のことじゃよ」
二人とも言っている意味が理解できない。
「現実世界から脱出する? どこへ?」
「本当の現実世界じゃよ」
シミュレーション仮説というものがある。
この世界が現実の世界ではなく、何者かによって作られた仮想現実の世界なのではないかという仮説だ。
文明が充分に発達した時、知的生命は世界をシミュレーションしようとする。我々人類であれば、コンピュータを使ったシミュレーションになるであろう。
その知的生命はシミュレーションによって仮想現実を何万、何億と作るだろう。その仮想現実の中にいるものにとっては、そこが現実なのか、仮想現実なのか区別がつかない。
我々の世界はどちらであろうか?
現実なのか、仮想現実なのか?
確率的には、仮想現実の世界である可能性の方が遥かに高い。現実一つに対して、シミュレーションは無数にあるのだから。
『我々が今いる世界は、仮想現実である可能性が高い』
「お前は私達の世界が仮想現実だって思っているのか?」
「確率的にはそうじゃの。じゃが、ワシはワシらの世界が現実だと思いたいのじゃ。だからあらゆる手段を使って外の世界へいこうとしているのじゃよ。すべての方法を試してそれでもダメなら、ようやくここが現実だと納得できるのじゃ」
黒乃とメル子はお互いの手を握りしめた。
「まったく、科学者は大変だねえ」
「ほう?」
「私にとって現実世界とは、メル子がいる世界だ!」
「私にとっての現実世界は、ご主人様がいる世界です!」
二人は毅然と言い放った。アインシュ太郎は目を見開いて二人を眺めた。
「ひゃひゃひゃ! それも一つの答え! さあ、地上に出るぞい!」
暗いトンネルを抜け、列車が光に包まれた。
こうして、タイトクエスト事件は終結した。すべてのAIはタイトバースから解放された。ソラリスは消滅し、タイトバースに平和が戻った。
これからもタイトバースはロボット達の電子頭脳の中で存続していくことになる。タイト人にとってはタイトバースこそが現実世界なのだ。
これこそが『ロボなる宇宙』だ。
そしてロボット達の電子頭脳が作り上げた神ピッピという超AIも、ロボット達の中で生き続けることになる。
サージャの
「ご主人様、荷物が届きました」
「お、ようやっときたか」
いつものボロアパートの小汚い部屋の日常。メル子は届いた箱を開封した。
その中には数本のボトルが入っていた。メイドロボは一本抜き取り、ご主人様に手渡した。
「おお、これが新製品ね」
「完成して安心しました!」
そのボトルのラベルにはこう書かれていた。
『ベビーローション ソラリス』
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