第281話 母になります! その二
メル子は紺色のシングルスーツを黒乃に着せた。普段はぬぼっとした雰囲気のご主人様であるが、細身のスーツで身を飾ると意外にも引き締まった印象を与えた。
「ふんふん、いいね」
「決まっています」
それに対しメイドロボが着込んでいるのは黒い時計柄の和風メイド服である。
「メル子も似合ってるよ」
「そうでしょうか……胸が苦しいのですが」
この黒いメイド服は黒メル子のものだ。メル子のメイド服は胸が大きく開いたエロエロ衣装なので、小学校に着ていくのは相応しくないと判断したのだ。
「私のメイド服は正装ですよ!」
「まあまあ。お乳丸出しで小学校はまずいでしょ」
二人は戸締りをして小汚い部屋を後にした。ボロアパートの前には二人の人物が待ち構えていた。メイドロボと幼い少女だ。
「ご主人様、紅子をよろしくお願いします」
黒いメイド服を纏った黒メル子は深々と頭を下げた。
「うん、任せて」
「お任せください!」
黒乃はメル子と黒メル子を交互に見た。金髪ショートカットの小柄なメイドロボ。今はメル子が
「黒乃〜、がっこういく〜」
走って黒乃の足にしがみついてきたのは、赤いサロペットスカートを履いた少女だ。明るい色のくるくるとした癖っ毛が幼さを印象付ける。その紅子の背中には真紅のランドセルが背負われていた。
「紅子、いこうか」
「いく〜」
紅子は興奮した様子で黒乃とメル子の手を握った。少女は二人に挟まれる形で歩き出した。その光景は父と母と娘そのものであった。
今日は紅子が初めて小学校へ登校する日である。既にマッドサイエンティストロボであるニコラ・テス乱太郎によって、入学に必要な手続きは済まされている。授業が始まる前に、校長と面談をしてから授業に参加するのだ。
三人は隅田川へ向かって歩いた。小学校は隅田川沿いにある。すぐ近くだ。
「黒乃〜、つかれた〜。だっこして〜」
「もう小学生なんだから、自分で歩きなさい」
「紅子ちゃん! 頑張ってください!」
しかし紅子の足は前へ進むのをためらっているかのように鈍い。足の遅さに比例して口数が少なくなり、顔色が悪くなっていった。
そしていよいよ小学校の正門に辿り着いた時には、少女の足は完全に動かなくなってしまった。
「紅子ちゃん、どうしました?」メル子は地面に膝をついて少女の顔を覗き込んだ。
朝一番で見た時のはつらつとした表情は消え失せて、焦りと怯えが交互に見え隠れしている。
「かえる〜」
その言葉に黒乃とメル子は度肝を抜かれた。あんなに行きたいと言っていた学校が目の前にあるのだ。
紅子は黒乃のスーツの裾を掴んで元来た道の方へ引っ張った。
「うーむ……」
黒乃は困った。こういう時、母親ならどうするべきだろうか? そう黒乃は今、紅子の母親なのだ。政府のデータベースの中だけのこととはいえ、母親の役割を任されたのだ。
「紅子ちゃん! 学校は怖くありませんよ! お友達がたくさんできますし、楽しいところですよ!」
「おともだちほしくない〜」
紅子は首を左右に勢いよく振った。メル子はあれやこれや手練手管を使って説得にかかっているが効果はないようだ。
「なんかこの光景、見たことあるな」
黒乃は記憶を辿った。自分自身は駄々をこねたり、ぐずったりする子供ではなかったような気がする。この記憶は……。
「そうだ、
黒ノ木姉妹四女鏡乃。末妹が小学校に入学するその日、ぐずりにぐずって家族を困らせた記憶がありありと蘇ってきた。
「あの時、母ちゃんはどうしたんだっけな?」
そう言いつつ、黒乃は紅子の前にしゃがみ込んだ。
「紅子」
「かえる〜」
黒乃は紅子の両足首を掴んだ。バランスを崩して尻もちをつく少女。そして黒乃の体を軸にして紅子を勢いよく回転させた。ジャイアントスイングだ!
「ご主人様!? なにをしていますか!?」
「うちの母ちゃんが! こうやって鏡乃をあやしてた!」
「どこがあやしていますか!?」
「あああああ〜」
散々回転をさせられた紅子は地面にへたり込んで大人しくなった。黒乃が手を引っ張って歩かせると、されるがままに校門をくぐった。
「ほらね? 言うこときくようになったでしょ?」
「ジャイアントスイングで弱らせただけです!」
三人は校舎の前に立った。煉瓦の壁とステンドグラスの堂々とした威容が三人を一瞬怯ませた。校舎の裏の校庭からは子供達の声とボールが弾む音が聞こえてきた。
校舎の中に入ると細いメガネをかけた女性教師が出迎えをしてくれた。既に授業が始まっているからか、中は静まり返っている。一行は女性教師に続いて廊下を歩いた。
「メル子〜、こわい〜」
「大丈夫ですよ! みんな優しい先生ですからね!」
メル子は紅子の肩に手を置いて落ち着かせた。
通されたのは校長室だ。漆塗りの豪華なテーブルと革張りの豪華な椅子。それ以外は実に質素な部屋であった。出迎えたのは恰幅の良い白髪白髭のチキンを売ってそうな男性であった。
「どうも校長の
「あ、ども。黒ノ木です」
「メル子です!」
校長は柔和な笑顔で紅子を見つめた。紅子は目を左右に泳がせた。
三人は椅子に座って校長に対面した。校長の後ろには女性教師が立っている。女性教師が話し始めた。
「では、面談を始めたいと思います」
「あ、よろしくお願いします」
「お願いします!」
女性教師は手に持った書類をめくった。
「黒ノ木紅子さんとお父様とお母様ですね」
「あ、私がお母様です。こっちはメイドロボです」
「これは失礼しました。お母様、メイドロボ様。えー、単刀直入に聞きますが、入学が遅れた理由はなんなのでしょうか?」
今は五月だ。通常より一ヶ月は入学が遅れてしまっているのである。
「あ、うちの紅子は病気でして。その治療をしていました」
女性教師のメガネが鋭く光った。
「病気ですか? どのような病気でしょうか? 学校としましてもきちんとお子様の状態を把握しておかないと、いざという時対処できませんので」
黒乃とメル子は目を見合わせて頷いた。
「あ、あの、『シュレーディンガー症候群』という病気でして」
「シュレーディンガー症候群!?」
「あ、あの、未知の病気でうちの紅子しか症例がないんです。気分によって、現れたり消えたりする病気なんです」
「現れたり消えたり!?」
女性教師はダラダラと汗を流し始めた。
「そんな症状、どうやって対処すればいいんですか!?」
「あ、簡単です。みんなで紅子現れろ〜紅子現れろ〜って念じると現れます」
「念じると!?」
白髪の校長が笑顔で口を挟んだ。
「まあまあ、いいではありませんか。色々な子がいる、そういうことです」
「ハァハァ、校長がそう言うならわかりました。ではお父様、お母様。教室へご案内します」
「あ、お母様です」
面談は終わり、いよいよ紅子の教室に向かうことになった。
既に授業は始まっているが、紅子のクラスは新しい生徒が来るということで待機状態になっている。皆そわそわとした表情で新しい友達を待ち構えていた。
紅子は教室の前に立ち、入り口の扉を見つめた。
「じゃあ、紅子。いってきな」
「紅子ちゃん! リラックスしてくださいね!」
少女は黒乃とメル子の顔を交互に見て頷いた。一瞬、その存在が揺らいで見えた。
「それでは新しい仲間を紹介します! どうぞ!」
教室の中から担任教師の呼ぶ声が聞こえた。紅子は扉を開けた。クラスメイト達の視線が紅子に集中する。教壇に立ちクラスを見渡す。
「あの、隅田川……あ、黒ノ木紅子です。
紅子は頭を下げた。黒乃とメル子はその様子を廊下から窓越しに眺めていた。
「言えた!」
「言えました!」
一瞬の静寂の後、大きな拍手が巻き起こった。
「かわいい!」
「おうちはどこ!?」
「パパは黒乃山なの!?」
「紅ってカッケー!」
次々と飛び交う質問。その圧力にたじろぐ紅子。黒乃はほっと息をついた。
——放課後。三人は再び手を繋いで下校していた。
「紅子、今日はどうだった?」
「たのしかった〜」
「紅子ちゃん! 給食はどうでしたか!?」
「おいしかった〜」
結局黒乃はその日ずっと廊下から教室の紅子を見ていた。存在を収縮させるため、黒乃が観測をしている必要があったからだ。
しかしこの様子ならば観測は必要なさそうだ。クラスメイト皆が紅子の存在を認知し、その席にいて当たり前なんだと認識すれば存在は確定するはずだ。
「きょうはね〜、さんすうの授業した〜」
「ああ、見てたよ」
「ちゃんと答えられましたね!」
紅子は頭がいい。あの隅田川博士の娘なのだから当然だ。一ヶ月のブランクなどあってないようなものだ。
「メル子〜、だっこ〜」
「しょうがありませんね」
メル子は少女を抱き上げた。初めての授業で疲れたのか、すぐにその腕の中で寝息を立て始めた。
黒乃はその寝顔を見た。
見る。黒乃のマスター観測者権限を使って存在を収縮させるために見るのか?
「うーん」
「ご主人様、どうしました?」
「いやね、母親ってなにをするものなんだろうって思ってね」
母の役割。食事を与えるのが母の役割なのか? そうかもしれない。
日常の世話をするのが母の役割なのか? 当然それもある。
なぜ見るのか? それが母の役割だからだ。存在を収縮させるためではなく、母だから見守るのだ。
黒乃はただ慈しみを込めて紅子を見守った。
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