第280話 母になります! その一

 平日の夜。夕食を食べ終えた黒乃は床に寝転んでケツをかいていた。

 キッチンで洗い物をするメイドロボのリボンがリズミカルに揺れ、それを見つめているうちに猛烈な眠気が襲ってきた。仕事終わりの疲れも相まって黒乃のまぶたは閉じかけていた。

 洗い物を終えたメル子はアンティークのティーポットで紅茶を淹れ始めた。その時……。


「黒乃〜、メル子〜、うちきてあそぶ〜」


 突如として部屋の真ん中に幼女が現れた。


「ぎょろろぼぼぼ!」

「ぎゃあ! でました!」


 突然の幼女の出現に黒乃は海老反りになり、メル子は腰が抜けて床にひっくり返った。


「イダダダダダ! 足がつった!」

紅子べにこちゃん! いきなり現れないでください!」

「黒乃〜、メル子〜、あそぼ〜」


 白いシャツに赤いサロペットスカートをはいた幼女は、手に持ったクマのぬいぐるみを前に掲げて要求した。


 隅田川紅子。

 近代ロボットの祖、隅田川博士の娘である。二十一世紀半ば、隅田川博士はロボットの人権を勝ち取るために戦った。それは成功し、人々の生活の中に人間と同等の存在としてロボット達が暮らし始めた。

 しかし隅田川博士の研究所が何者かに襲撃され、量子兵器によってこの世から消滅してしまった。それにより隅田川博士と紅子は研究所ごと量子状態になり、存在する状態と存在しない状態が重ね合わさった量子人間として今日まで生きることとなったのだ。


「ハァハァ、紅子。いいよ、遊ぼうか?」

「紅子ちゃん! なにをして遊びたいですか!?」


 紅子は手に持ったクマのぬいぐるみを振り回してはしゃいだ。


「ぶいーん! がっこうごっこする〜」


 クマのぬいぐるみのモンゲッタが勢い余って紅子の手からすっぽ抜けて飛んでった。青と白の宇宙服に体を包まれたクマは襖に激突して動かなくなった。


「ぎゃあ! ワトニー大丈夫ですか!?」


 メル子はぬいぐるみを抱えてその頭を大事そうに撫でた。


「うーん、学校ごっこか〜。そういえば紅子も小学校に入学する年齢だよなあ」


 黒乃は目の前の小さな幼女をまじまじと見つめた。明るい色の短い癖っ毛とシュッとした顔立ちは、可愛らしさの中に寂しさを潜ませている。

 それもそのはず、彼女の父である隅田川博士はもういないのだ。ローション生命体『ソラリス』との戦いによって、隅田川博士は地球規模にまでその存在を拡大させたまま、もう二度と収縮することは叶わなくなったのだ(第209話〜第212話を参照)。


「紅子ちゃんは小学校に行きたいのですか?」


 メル子は紅子のくるくるとした癖っ毛を撫でながら聞いた。


「いきたい〜」


 黒乃とメル子は困り顔で視線を合わせた。


『ぎゃあーですのー!』

『ベッドが真っ二つに割れましたのー!』


 下の階からお嬢様たちの叫び声が聞こえてきた。


「ん?」

「なんでしょうか?」


 黒乃達の小汚い部屋が微かな振動を起こした。その振動は徐々に大きくなり、機械音が部屋を満たした。


「なんだなんだ!?」

「なにごとですか!?」


 突然小汚い部屋の床が真っ二つに割れた。黒乃達は度肝を抜かれて慌てて穴から離れた。


「ええ!?」

「ご主人様! なにが起きていますか!?」


 割れた床の下からなにかがせり上がってきた。バチバチという放電現象により部屋が眩しく照らされた。その雷のベールから現れたのは椅子に座った中年の男性であった。掘りが深い端正な顔立ち。しっかりと整えられた口髭。撫で付けられた黒髪。リッチなスーツに身を包み、不敵な笑みで一同を見渡した。


「お前はニコラ・テス乱太郎!」

「変態博士です!」

「やあ、君達〜。久しぶりだね〜」


 軽やかに挨拶をしたのはマッドサイエンティストロボのニコラ・テス乱太郎であった。隅田川博士が作った最古のロボットの一人だ。


 紅子はメル子の腕から抜け出ると、ニコラ・テス乱太郎の膝の上に飛び乗った。


「なにをしにきたの!?」

「いつの間に部屋を改造しましたか!? 元に戻してください!」

「今日は君たちに、折り入ってお願いにきたんだよ〜」


 変態博士は二人の抗議の声にまったく耳を貸さずに話し始めた。


「お願い!? なんでうちらがお前のお願いを聞かないといけないんだ!」

「そうです! 早く部屋から出ていってください!」


 黒乃とニコラ・テス乱太郎は因縁の中だ。これまで数々の死闘を繰り広げてきた宿敵である。


「そう言わずに話だけでも聞いてくれないかね〜」

「どうせメル子を貧乳ロボにさせろとかそういう話だろ!」

「そうはいきませんよ! ガルルルルルル!」


 メル子は牙を剥き出しにして威嚇した。黒乃は冷蔵庫から真っ赤な桜漬け大根を取り出して構えた。


「落ち着きたまえ〜。話というのは紅子のことだよ〜」


 黒乃とメル子の動きがピタリと止まった。紅子は変態博士の膝の上で寛いでいる。


「ようやく話を聞く気になったかね〜。じゃあそこに座りたまえよ〜」

「その指示を出すのはこっちの役目じゃい」


 とはいえ紅子を持ち出されては話を聞かないわけにはいかない。二人は渋々床に座った。


「それで? 話ってのはなんなのさ」

「ふうむ、紅子がね〜、最近成長しているみたいなんだよ〜。体が少し大きくなってね〜。黒メル子もいるからよく喋るしね〜」


 紅子が量子人間になったのは二十一世紀後半だ。それから数十年もの間ずっと幼女の姿で過ごしてきた。それが最近成長しているというのだ。


「私はね〜、黒乃君のマスター観測者権限のせいではないかと睨んでいるんだよ〜」

「マスター観測者権限!?」


 それは元々隅田川博士が持っていたもので、現在は黒乃に受け継がれている。

 量子力学において量子状態は異なる状態の重ね合わせとして表される。観測により量子状態の収縮が起き、一つの状態が確定するのだ。

 マスター観測者権限はあらゆる状態を任意に収縮させることができる強力な能力なのだ。


「それが紅子の成長となんの関係があるのさ?」

「君の観測によって紅子の存在が確定する時間が長くなったってことだよ〜。その分成長したんだね〜」


 確かに紅子は初めて出会った時と比べて背が伸びている気がする。


「それで、お願いというのはなんなのでしょうか? ご主人様と関係があるのですか?」


 ニコラ・テス乱太郎はその整った口髭を一撫でしてから口を開いた。


「紅子がね〜、小学校に行きたいって言うんだよ〜」


 二人はその言葉にはっとした。確かにもう小学校に入学する大きさだ。学校ごっこがしたいというのもそういうことなのだ。


「……」

「……」


 小汚い部屋に静寂が訪れた。紅子は膝の上で眠りに落ちていた。三人はその幼い寝顔を見つめた。

 紅子が量子状態にされてから数十年、彼女はあやふやな状態のまま生きてきた。出会いもなく、友達もなく、成長することもない。まさに幽霊のような人生。

 だが黒乃達との出会いにより、ようやく止まった時が動き出したのだ。


「ご主人様……私は紅子ちゃんに学校に行ってほしいと思います。普通の子のように生きてほしいと思います」

「メル子……」


 メル子は憂いた目で紅子を見つめた。その瞳の影に黒乃の心が少し痛んだ。

 黒乃はニコラ・テス乱太郎の膝の上で眠る紅子を抱き上げた。しっかりとした重さが腕にのしかかった。


「わかった。紅子を学校に行かせよう」

「ご主人様……!」


 メル子の瞳に光が灯った。二人はお互い頷き合った。


「それで、なにをすればいいのさ」

「紅子ちゃんのためならなんでもやりますよ!」

「おお〜そうかね〜。では、紅子の母親になってくれたまえよ〜」


 黒乃とメル子はピタリと動きを止めた。一瞬にして輝いていた瞳が死んだ魚のような目になった。


「……なんで?」

「紅子の正体を大っぴらにするわけにはいかないからね〜。誰か適当な人間の娘ってことにするのが無難だよね〜。戸籍もあった方がいいしさ〜」


 憲法において、全ての子供は教育を受ける権利が保障されている。戸籍や住民票の有無は関係ない。

 しかし家族や住所がはっきりしない状態で入学をしようとすれば、当然色々な調査が入るであろう。その過程で紅子の特異な存在が明るみに出るかもしれない。それは紅子にとって幸せなことであろうか?


「う〜〜〜〜む」


 黒乃は首を捻って考えた。母親になる。まったく想像もしていなかったことだ。形式だけのこととはいえ、重大なことだ。黒乃の人生のどの瞬間においても、母親となった自分を思い描いたことなどなかった。メイドロボ一筋の人生だったからだ。


「う〜〜〜〜む」


 たっぷり数分は考えた。その時腕の中の紅子がピクリと動いた。温かいその体。確実にここに存在する少女。


「よし! 紅子の母親になる!」

「ご主人様!」

「お〜、よく決めてくれたね〜。既に政府のデータベースは書き換えて君の娘ってことにしておいたから、明日学校に入学手続きに行ってくれたまえよ〜」

「え!?」

「え!?」

 

 超特急の展開に思わず腕の中の紅子を強く抱きしめすぎてしまった。眠りから覚めた少女は母の腕の中から抜け出して、変態博士の胸に飛び込んでいった。


「ハッハッハ〜、黒乃君が母親なら私は父親かね〜」

「いや、それはない」

「キモいです」


 小汚い部屋の床が再び開いた。放電現象が部屋中を埋め尽くし、それに紛れてニコラ・テス乱太郎が座った椅子が地下へと引っ込んでいった。


『なんですのー!?』

『またきましたのー!』


 床が元通り閉じると、部屋の中は何事もなかったかのように静寂が戻ってきた。二人はプルプルと震えながらお互いの顔を見た。


「いちいち放電させる意味ある?」

「ないですね」


 放電による青臭いオゾン臭の中で二人はそっと抱きしめ合った。

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