第279話 ULキャンプです! その二
暖かい休日の正午、黒乃とメル子は荒川の土手を電動自転車で走っていた。照らす陽光はわずかながらではあるがその肌を焦がした。
「ふぅふぅ、この時期になるともう汗かいちゃうね」
「でも川を吹く風が爽やかで気持ちがいいです!」
二人は軽やかに自転車を漕いだ。河川敷にはビービーキューを催す一団や、フリスビー、バドミントンに興じる親子がひしめき合っている。
しかし黒乃達の目的地はここではない。
「ご主人様! 今日はなにをしますか!?」メル子は巨大なケツをふりふりさせてペダルを漕ぐ黒乃の後ろから声をかけた。
「むふふ、今日はね、
「燻製ですか!? 道具をなにも持ってきていませんが!?」
二人が背負っているのは小さなリュックサックだ。特別な道具はなにもない。
「今日やるのはあくまでULキャンプのザブトニングだからね。かる〜く燻製を楽しもうよ」
「はい!」
ULキャンプのULとはUltra Lightの略で超軽量という意味だ。そして『ザブトニング』とは黒乃が提唱する新しいキャンプスタイルの一種だ。椅子だけでキャンプをする『チェアリング』のさらに上をいく、座布団だけでキャンプをするというトンデモスタイルなのだ。
二人は荒川の土手をさらに進み、ヨシが生い茂る人気のない河川敷に辿り着いた。自転車を停め、ヨシの林をかき分けて進むと開けた場所が現れた。目の前には荒川の穏やかな水面が見える静かな空間が広がっている……はずであった。
「オーホホホホ! お待ちしておりましたわー!」
「オーホホホホ! もうお昼は過ぎておりますわよー!」
「「オーホホホホ!」」
誰もいないはずの場所を占拠していたのは金髪縦ロールのお嬢様たちであった。
「なんでマリー達がこんなところにいるの!?」
「またULキャンプ被せですか!?」
「河川敷は国土交通省により自由使用が認められているのですわー!」
「河川敷はみんなのものですわー!」
お嬢様たちの前には巨大なドラム缶が設置されている。その中からはモクモクと煙が立ち昇っていた。
「そのドラム缶なに!?」
マリーは自慢げにドラム缶を叩いた。「アンテロッテお手製のお燻製器ですわー!」
「燻製まで被せないでください!」
黒乃とメル子はリュックサックを下ろすと、中から座布団を取り出した。
「ふふふ、ザブトニングはこれがないとね」
「ですね!」
黒乃とメル子は座布団を地面に敷いてその上に座った。地面が近くなり、自然と一体化したかのような感覚が心地よい。
それを見たお嬢様たちは突然地面に横になった。
「わたくし達は『ジベタニング』でいきますわよー!」
「さすがお嬢様ですわー!」
マリーが提唱する『ジベタニング』は黒乃の『ザブトニング』のさらに上をいく、直に地面に座るスタイルのことだ。
「いや、それは真似したくない」
「ですね」
黒乃達は早速燻製の準備を始めた。小さなポーチの中からミニ焚き火台を取り出す。その中に缶を設置した。この缶の中身は固形燃料で、これ一缶で一時間は燃焼する。
「熱源はこれで準備ヨシと」
「あとは燻製器ですね。でも燻製器なんて持ってきていませんよ」
黒乃はリュックの中からクッカーを取り出した。直径十三センチメートルの円筒形のチタン製調理器具だ。通常はこれで炊飯や煮炊きを行う。
「このクッカーを燻製器にするんだよ」
「これで!? お嬢様たちの燻製器に比べてずいぶん小さいですね」
「そんなのでお燻製ができますのかしらー!?」
「小さすぎますわー!」
金髪三人組はクッカーをみて訝しんだ。
「私らがやるのは『熱燻』だからね」
「熱燻!?」
燻製には『
熱燻はスモークチップを使い、熱源で熱しながら食材を燻す。燻製器の内部は百度の高温となる。短時間で燻製ができるのが特徴だ。
温燻はスモークウッドを使用する。熱源はスモークウッド自身なので、温度は八十度にとどまる。燻すのに数時間かかるが、水分が抜けるので保存が効く。
冷燻は三十度以下で長時間燻す。長ければ五日間かけることもある。食材の水分がしっかりと抜けるので、長期間の保存が可能だ。
「わたくしのドラム缶は温燻ですのよー!」
「朝から燻しておりますわー!」
黒乃はクッカーの中にアルミホイルを敷いた。その上に細かい木の破片を流し込んだ。
「これがスモークチップですね」
「うん。このチップから煙が出て食材が燻されるのさ」
さらにその上からアルミホイルを被せる。食材から滴る脂や水分からスモークチップを守るためだ。
「あとは焼き網をクッカーにはめ込んで、食材を並べたら準備完了」
「簡単ですね。私は海産物を燻製にしてみます!」
二人はそれぞれ自分のクッカーに食材を並べた。
メル子はホタテ、シシャモ、サーモンを選んだ。
「ご主人様はお肉系いくかな」
黒乃のチョイスはベーコン、ソーセージ、うずらのゆで卵だ。
あとは蓋をして火にかけるだけだ。メタルマッチを使い固形燃料に火をつける。焚き火台の上にクッカーを乗せた。
「これで二十分待てば完成」
「楽しみです!」
黒乃とメル子は座布団に座り、燻製器を眺めた。燻製器が熱されることで中のチップが焼けて煙が出る。蓋の隙間からわずかに煙が漏れ出てきた。
「お、いいねいいね」
「いい香りです。私はサクラのスモークチップを選びました」
「ご主人様はウイスキーオーク」
スモークチップの種類によって香りや色付き、風味が変わる。充分に煙が出たら弱火にしてしばらく待つ。
煙が空に向かって立ち昇っていった。青い空にはサギの群れが飛び交い、荒川の水面をくちばしでつついている。座布団に座っているので地面が近い。まるで自分達が野を駆け回る獣になったかのような錯覚を受けた。
香ばしい煙と共に食材の香りが溢れ鼻をくすぐった。煙の量に比例して食欲も増していった。
「ご主人様! そろそろいいですか!?」
「うん、仕上がりを確認しようか」
二人は同時にクッカーの蓋を開けた。その途端圧縮された煙が顔に向けて噴出し、気道に入り込んだ。
「ごへっ! げほっ!」
「ばふっ! ぼひっ!」
思わずむせてしまった二人であるが、煙の中から登場した飴色の食材達に瞳を輝かせた。
「うひょー! 完璧だ!」
「すごいです! しっかりと燻されています!」
艶々と飴色に光り輝く食材達。瑞々しくも艶かしいその姿に食欲が最高潮に達した。
「ますはソーセージからいただきます!」
黒乃はフォークで豪快にソーセージを貫いた。そのまま前歯で真っ二つに切り裂いた。
「ほふほふ! あちゅい! うま! やっぱ香りがすごい!」
メル子はホタテにフォークを突き刺し丸ごと口の中に放り込んだ。
「はふはふ! あつあつでしゅ! 美味しいです! ふんわかジューシーです!」
熱燻は燻す時間が短いため、ほとんど水分が抜けない。加えて高温のため、食材にしっかりと火が通って柔らかく仕上がる。
「うわっ、うずらの卵もうま! これ無限に食べられるな」
「スモークサーモンはご飯が欲しくなります! タコさんも噛むほどに香りが滲み出てきます!」
その様子を眺めていたお嬢様たちは、じゅるりとよだれを垂らした。
「マリーちゃん、アン子さん。お二人もいかがですか!?」
「よろしいのですの?」
「キャンプはお裾分けが基本ですよ!」
「いただきますのー!」
四人で食材を分け合って食べた。一通り食べ終わる頃に、ようやくお嬢様たちの燻製が完成した。
「今度はわたくし達のお燻製をお召し上がりなさいましー!」
アンテロッテはドラム缶の胴体に作られた扉を開けた。中から勢いよく煙が溢れ出てくる。
「おお、おお。なにを燻してたのかな?」
「まずはおチーズですわー!」
ドラム缶から出てきたのは綺麗な狐色のカマンベールチーズだ。丸のまま燻されたチーズはゆらゆらと揺れ、今にも破裂してしまいそうだ。
アンテロッテはナイフでチーズを四等分にした。
「とろっとろだぁ!」
「熱燻だと高温すぎて崩れてしまいますが、温燻だとギリギリ形を保っています!」
四人は手掴みでチーズを口に運んだ。舌の上でとろけるほどに香りが鼻を抜けていく。
「この酸味がたまらんな!」
「味わいが増しています! 時間をかけて燻したので、水分が抜けて味が凝縮されているのです!」
「うまうまですわー!」
「大人の味わいですわー!」
四人はうっとりとスモークチーズを味わった。
続いてドラム缶から出てきたのは真っ黒い塊であった。
「なにこれ!?」
「硬いです! カチカチです!」
お嬢様たちはニヤリと笑った。
「これはおビーフおジャーキーですわー!」
「わたくし特製のタレに一晩つけたあと、三日外で干して乾燥させたものをお燻製にしましたのよー!」
「なるほど! ビーフジャーキーか!」
「本格的すぎます!」
黒乃は出来立てホヤホヤの温かいジャーキーに齧り付いた。奥歯で肉を挟み、指で引っ張って引き裂く。肉の繊維が裂け、そこから旨味がじわじわと滲み出てきた。
「おお! 噛めば噛むほど美味しい!」
「この肉を噛むという刺激が電子頭脳に甘美なパルスを発生させます! これでもかと凝縮された旨味が原始の狩猟者の本能を呼び起こします!」
お嬢様たちはその様子を見て高笑いを炸裂させた。
「オーホホホホ! お燻製にはロマンがありますわねー!」
「オーホホホホ! たくさんございますので、お土産に持って帰ってくださいましなー!」
「やったぜ! ありがとう!」
「いただいて帰ります!」
黒乃とメル子は夢中になってビーフジャーキーを味わった。
「それにしてもまだまだ入ってそうだな」
「こんなに大きいドラム缶ですものね」
マリーの目が鋭い光を放った。
「もちろんですわー! トマトのお燻製、バナナのお燻製、餃子のお燻製、納豆のお燻製、いろいろございますわよー!」
「さすがお嬢様ですわー!」
「え……」
「それはキモいです……」
「「オーホホホホ!」」
お嬢様の高笑いが煙と共に荒川を遡っていった。
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