第264話 メルです!

 風呂上がり、黒乃とメル子は布団の上で寛いでいた。無香料のシャンプーと無香料の石鹸により際立つ人肌の香り。一日の疲れと汚れを洗い流し、あとは充電するだけとなった。


「ふわぁ〜あ、じゃあもう寝ようか」

「そうですね」


 大きなあくびと共に伸ばした手で電灯の紐をひこうとした。


「あ、ご主人様」

「なんだい?」

「これからメンテナンスを行いますので」

「これから!?」


 定期メンテナンスは先日終えたばかりだ。新たな故障が発生したのだろうか?


「どっか悪いところでもあるの!?」

「いえ。これから行うのは多次元虚像電子頭脳ホログラフィックブレインの最適化です」

「最適化!?」


 多次元虚像電子頭脳とは近代ロボットの祖、隅田川博士が開発した電子頭脳で、ほとんどのロボットに搭載されている。一つのデータを量子投影装置によって多層にまたがるように投影していくことにより、人間の思考に近い出力を得られる。

 しかしこの方式には弱点があり、データを電子頭脳の記憶領域に分散的に保存するため、極端に分散化が進むとスムーズな読み書きが行えなくなってしまうのだ。この状態を虚片化ホログラフメンテーションという。

 なので定期的に最適化を施してやらなくてはならない。前世紀でいえばハードディスクの断片化をデフラグするようなものだ。


「そんでそんで!? どうすればいいの!?」

「このまま眠るだけです。寝ている間に最適化は完了しますので」


 黒乃は大きく息を吐いた。


「なんだ、一晩で終わるのか。よかった〜」

「はい。目が覚めたら元気一杯になっていますよ! あ、でも最適化中は虚片化された記憶が表層に浮かび上がってくるので、うなされるかもしれません」

「なるほどなるほど」


 黒乃は改めて電灯の紐をひいた。



 翌朝。

 黒乃はいつもと違う調子で飛び起きた。


「あれ!? あれ!? メル子!? なんで起こしてくれないの!?」 


 隣の布団を見るとこんもりと盛り上がった状態のままだった。メル子が寝坊したことなどこれまで一度もない。ロボットに搭載されたタイマーが完璧な時刻で作動するからだ。


「ねえ、メル子。どうしたの? メンテナンス終わった?」


 黒乃は布団の上に手を乗せ前後にゆすった。温かな感触の下でゆっくりと動き出すロボットの気配を感じた。


「ふぁ〜、よく寝ました〜。あれ?」


 メル子は布団から起き上がると周囲をキョロキョロと見渡した。


「ぎゃあ! ここどこですか!?」

「え?」

「ぎゃあ! お姉さんだれ!?」

「え!?」


 メル子は飛び上がり、赤ジャージ姿で小汚い部屋の中を駆けずり回った。


「先生! パピ子先生はどこですか!?」

「ちょっとメル子、落ち着いて」


 黒乃はメル子を捕まえると、その顔を平らな胸に押し付けた。肩で息をするメル子の頭を撫でると少しずつ落ち着きを取り戻し始めた。


「どうしたのメル子。大丈夫? ご主人様だよ」

「ハァハァ、ご主人様」


 黒乃はメル子を布団の上に座らせた。まだ呆然としているようだ。水を汲んで一口飲ませた。


「ハァハァ、ありがとうございます」

「どうしたんだろう。最適化のメンテナンスがうまくいかなかったのかな?」

「いえ、正常に動作中です。ただ予定より遥かに時間がかかっているようです」


 メル子の話では全体の三十パーセントしか処理が進んでいないようだ。


「一晩で終わるんじゃなかったの?」

「普通はそうなのですが、虚片化の度合いが激しすぎるのが原因のようです」


 虚片化の進み具合は、インプットとアウトプットの量に比例する。


「うーん、メル子が来てから今まで色々あったからなあ」

「確かに。毎日色々ありすぎて、虚片化の進行が通常の数倍進んでしまったようです」

「でも時間をかければ終わるんだよね?」

「はい……」


 黒乃は心配そうにメル子の顔を見つめた。メル子はコップの水を飲み干すといつも通りの仕事を始めた。黒乃は不安な表情でその背中を見つめ、仕事に出かけた。



 昼前。

 黒乃は出社したものの、愛しのメイドロボが心配で全く仕事が手につかず、早々に帰宅してしまった。昼飯はどうするんだとFORT蘭丸とフォトンから散々抗議を受けたが、知らんぷりして事務所を出た。

 ボロアパートの階段を足早に上る。


「フゥフゥ、こんなんだったら今日は休めばよかった。メル子〜? 帰ってきたよ〜。大丈夫〜?」


 黒乃は小汚い部屋の扉を開けた。そこには足を広げて床に座るメル子の姿があった。メル子はしばらく呆然と黒乃の顔を眺めた。


「……」

「メル子? 大丈夫かい?」

「ぎゃあ! お姉ちゃんだれ!?」

「お姉ちゃん!?」

「パピ子先生! 知らない人間がいます! パピ子先生!」


 再びメル子は暴れ出した。黒乃はメル子を抱きしめ落ち着かせた。


「なにか記憶がごちゃごちゃになっているのかな?」

「ハァハァ、申し訳ございません。そのようです。最適化中はデータの整理に伴い記憶が表層に現れたり消えたりするようです」


 通常最適化は睡眠中に行われるので、夢でうなされる程度で済むはずなのである。


「ところでパピ子先生ってだれ?」

「私のAI高校時代の恩師です」


 AI高校とはネットワーク上に存在する施設の一つであり、AI幼稚園からAI大学まで揃えられている。全てのAIはこれらの施設に入り、一定以上の人格が形成されるまで過ごすことになる。


「パピ子先生、懐かしいです。会いたいです」


 メル子の顔にふと笑顔が蘇った。黒乃はそれをみて少し安心した。


「恩師か〜。じゃあパピ子先生のこと聞かせてよ。どんな人だったのさ」

「はい! パピ子先生はですね! いつも……」


 黒乃はメル子の頭を撫でながら話を聞いた。するとそのうち寝息をたて始めた。



 メル子は美味しそうな匂いに目を覚ました。目を擦り大きくあくびをする。


「ふぁーふぁ、カプリ子先生。もうお昼でしゅか?」

「お、起きたか。今ラーメン作ってるからね」

「……お姉ちゃんどなた?」

「お姉ちゃんはメル子のご主人様だよ」


 黒乃は鍋から丼にラーメンを移すとテーブルの上に並べた。


「さあ、食べようか。座って」


 メル子は疑いの目を向けながら椅子に座った。


「メル子ってだれでしゅか?」

「メル子はメル子だよ。それ以外誰がいるのさ」

「あたし、メルでしゅ」


 黒乃は首を捻った。メル。昔そんなことを言っていた記憶がある。


「ああ! 思い出した! AI幼稚園でメルって呼ばれていたんだっけ」

「メルはメルでしゅ」


 メル子は箸を不器用に握りしめてラーメンを食べ始めた。最初は熱さに悶絶していたが、黒乃が小さな器にラーメンを分けてやると嬉しそうに啜った。


「メル、美味しいかい」

「美味しいでしゅ!」

「ひょっとして今はAI幼稚園の頃のメル子に戻っているのかな」


 充分にラーメンを食べて満足したのか、メル子は周囲を見渡してうろたえ始めた。


「カプリ子先生はどこでしゅか?」

「えーと、カプリ子先生は今日はお休みだよ」

「そうでしゅか」


 メル子はしばらく床で休むとおもむろに立ち上がり掃除機を手に取った。


「なにしてるの?」

「お掃除でしゅ!」


 メル子は懸命に掃除機を引きずって部屋の中を闊歩するが、コンセントが入っていないので動作はしていない。


「立派なメイドしゃんになるためにはお掃除はかかせましぇん!」


 メル子はしばらく掃除の真似事を続けたが、疲れてしまったのか床に横になった。黒乃はメル子の頭を自分の膝の上に乗せた。


「メルは将来メイドさんになりたいんだね?」

「もちろんでしゅ! 世界一のメイドしゃんになりましゅ! 世界一のご主人様にお仕えしましゅ!」

「どうしてメイドさんになりたいんだい?」


 メル子は指を口にあてて考え込んだ。床をごろごろと転げ回って自転車のペダルを漕ぐかのように足を回した。


「わかりましぇん!」

「あはは、そうかそうか」

「お姉ちゃんはご主人様なのでしゅか?」


 メル子は黒乃の顔をじっと覗き込んだ。


「そうだよ。未来のメルのご主人様だよ」

「なんで未来のことがわかるんでしゅか?」

「それはね、ご主人様が未来から来たからだよ」


 メル子の瞳が輝いた。床に正座をして満面の笑顔を向ける。


「ご主人様は未来から来たのでしゅか!?」

「そうだよ」

「メルは世界一のメイドしゃんになっていましゅか!?」

「もちろんなっているよ」

「カプリ子先生のいったとおりでしゅ! メルは世界一のメイドしゃんになれましゅ!」


 メル子は立ち上がると再び掃除機を引きずり回した。鼻歌を楽しそうに歌い、体を左右に揺らした。


「未来のご主人様!」

「なんだい」

「必ずメルはご主人様のところにおーでぃしょんにいきましゅので、待っていてくだしゃい!」

 

 その言葉に黒乃はたまらずメル子を抱きしめた。


「うんうん。待ってるからね」


 メル子は再び眠りに入った。



 次に目を覚ました時にはすっかり夜も更けていた。メル子は床に正座をして顔を真っ赤にしていた。


「ご主人様……」


 メル子は両手を床について頭を下げた。


「お恥ずかしいところをお見せしました」

「お? ひょっとして現在のメル子に戻った?」

「はい……」


 メル子は顔を伏せてプルプルと震えている。


「電子頭脳の最適化は無事完了いたしました……」

「いや〜よかったよかった」


 黒乃は楽しそうに笑った。メル子の顔は赤くなるばかりだ。


「よかったね、メル。メイドさんになるっていう夢が叶ってさ」

「……」


 メル子の頬がハムスターのように膨らんだ。目には涙が溜まっている。メル子は黒乃の胸に飛び込み背後に押し倒した。その勢いで黒乃の頭が床に打ちつけられた。


「いでぇ!」


 メル子はなにも言わず顔をぐりぐりと黒乃の胸に押し付けた。黒乃はその頭を子供をあやすように幾度も撫でた。

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